北島とハンセンのライバル物語、
その3回目です。
前回はハンセンがどう生まれ変わったのか、
を書きましたが、今回はいよいよ
やはり新しい道を歩み続けている
北島の思いです。


北島にインタビューしたのは
2010年の11月、
いまから1年と少し前のことだ。
アジア大会への出発前に
北島に1時間ほど話を聞けるチャンスが訪れた。
場所は、アジア大会に向けて
日本選手団の出陣式が行われる都内のホテル。
その敷地内に佇む一軒屋の和室だった。

そんな環境を選んだのは
出陣式の直前にインタビューを許されたという
時間の制約だけではなかった。
アメリカで暮らしている北島が
久しぶりに日本に帰ってくるなら
ホテルの洋式の部屋ではなく
純日本風のほうが面白いのではないか、という
ディレクターのアイディアだった。

「こんにちは。よろしくお願いします」
日本庭園の門をくぐって姿を現した北島は
そう言ってペコリと頭を下げた。
北島はGパン姿、
素肌に白いシャツを身につけ
その上に黒のブレザーを着こなしていた。
短い髪に、うすく髭を伸ばし、
もみ上げからアゴまで
一周回ってつながっている。

「どうですか。この雰囲気は?」
「日本ですね。完全に」
「アメリカから帰ってくると、どうでしょう、
 こういった雰囲気は?」
「そうですね。まあ安心はしますね。
 ほっとしますね。やっぱり」
こんもりと茂った木々に目をやりながら
北島は小さく笑顔を見せた。

北島は北京オリンピックのあと
いったん競技生活を離れ、
旅をしたり、子どもに水泳を教えたり、
という生活を送る。
そして翌年2009年の春に
語学の勉強もかねて、単身アメリカに渡った。
北京五輪の前から海外で生活するのに
興味を持っていたのだが
何よりすべてを捨てて
新しい環境に身を置いてみたいという
思いからだった。
住まいは西海岸のサンタモニカだ。
「自分で運転するの?」
「はい、ダウンタウンまでちょっとあるので
 自分で運転して」
「サンタモニカの海岸線沿いを走ると
 気持ちいいですよね」
「そうですね」
テーブルを挟み、
座布団に座って向き合った北島が
穏やかな口調で言った。


アメリカに渡るということは
もうひとつのことを意味した。
シドニー、アテネ、北京五輪と
二人三脚を続けてきた
平井伯昌コーチと離れることだった。
北島は南カリフォルニア大学の
水泳チームに身を置き、
他の大勢の選手たちと練習している。
アメリカ人のヘッドコーチはいるが
あくまで皆のコーチであって
北島個人のコーチというわけではなかった。

「アメリカに行って
 自分ひとりでやっていることで
 何か変わったと思いますか?」
「アメリカに行って強くなろう、
 ということが入り口ではなかったんです。
 まず行った時に
 自分が楽しまなかったらダメだよって
 コーチに言われて、
 その言葉にすごく
 自分を前向きにさせてもらったというか。
 常に日本にいるときみたいに、
 結果だけを求められていて
 自分も気づかないうちにそうしなきゃいけない、
 そうあるべきだと勝手に思ってたんですけれど、
 今は楽しくなくなる水泳はしたくない
 と思ってるんですね。
 だから周りの声を気にせず、
 自分が思った泳ぎと、
 自分が思った成績を残していければ
 いいんじゃないかと思ってるんです」

それは泳ぎのスタイルに表れている。
北京五輪の100メートル決勝。
平井コーチの有名な言葉が
北島の圧倒的な勝利とともに
知られることになった。
「勇気を持ってゆっくり泳げ」
平泳ぎは、息継ぎで顔を上げ、
キックをするために足を曲げるときに
最も水の抵抗を受ける。
するとスピードが落ちるし、
それを補おうとすると体力を消耗する。
ストローク数が少ないということは
水の抵抗を大きく受ける回数が少ないということ、
つまり体力を温存できるのだ。


「勇気を持ってゆっくり泳げ」は
ストローク数を減らして体力を温存すれば
最後の15メートルでの勝負に
勝てることを意味した。
北京五輪の100メートル決勝、
北島の前半50メートルのストローク数は16。
準決勝のストローク数19と比べると
その差は明らかだ。
平井コーチの指示通り、
北島は「勇気を持ってゆっくり泳いだ」ことになる。
50メートルを3位で折り返したにもかかわらず
見事、後半にふたりを抜き去り
最初にゴールしたのだ。
結果は世界新記録。

ところが北島は
その究極の成功体験ともいえる泳ぎを捨て
“自分の感覚”を信じる新しい泳ぎのスタイルに
挑もうとしていた。

(続く)

2012-01-18-WED
前へ このコンテンツのトップへ 次へ