きょうは、ある裁判長の物語の
3回目です。



裁判長の孤独3

地下鉄サリン事件の実行犯のひとり、
林郁夫被告に“無期懲役”の判決を出した
当時の山室恵(やまむろめぐみ)裁判長は、
それから6年ほどたった2004年に、
東京地裁を退官する。
定年まで9年を残して退官は、周囲を驚かせた。

林郁夫被告の裁判のあと、山室さんは、
坂本一家殺害事件にかかわった
オウム真理教の岡崎一明被告に、
今度は“死刑”判決を下す。

さらにその後担当したリクルート事件では
3代目の裁判長をつとめ、
江副浩正被告にも判決を下すなど、
長き裁判の幕をひいた。
「これが辞めるきっかけになったと思います。
 つまり燃焼しつくしたという思い、
 気持ちのうえで、
 リクルート事件が終わったところで、
 自分の役割は終わったな、という、
 そういう感じが強かったですね」

その時点で、
すでに東京地裁に5年半いたことから、
次の異動も見えてきた。
裁判長から地方裁判所の所長、普通にいけば
その先は高等裁判所の仕事が待っているはずだった。
だが高等裁判所も現場とはいえ、
一審である地方裁判所のように
「公判を一から自分で作っていく」醍醐味は味わえない。
現場にこだわる山室さんは、この時やめる決心をする。

裁判官生活の中で、山室さんにとって
オウム事件の林郁夫被告の裁判は、
決して特別なものではなく、
担当したたくさんの裁判のひとつだと話す。
ただ、その後、あの判決でよかったのだろうか、
と思うことがあるという。

林郁夫被告の涙について訊ねたときのことだ。
林郁夫被告は法廷で涙を流して、
事件を起こした後悔の感情をむき出しにした。
それはメディアが“慟哭”という言葉を使うほどで、
その真摯な態度は、遺族に、
必ずしも死刑を望まないと言わしめたほどだった。

「被告の涙は有名になりましたが、
 裁判長として見抜けるものなんですか?」
こう問いかけると、
山室さんはしばらく考えて口をひらいた。
「ぼくはその、未だにひきずっていて、
 大いなるX(エックス)ですよ。
 見抜けたかどうか、今となっては‥‥わからない」

大いなるX、つまり、
わからない、疑問だというのだ。
「どうしてそう思われるのですか?」と私は続けた。
「当時は少し留保をつけながら。
 心底、この男、反省していると思っていましたが‥‥。
 わからない‥‥‥‥。
 歳とったせいもあるのかな」

「そう思うようになったきっかけは?」
「事件ののちに、法廷に立ち会っていた裁判所の職員が
 『山室さん、だまされているんじゃないの』っていう、
 実に強烈な言葉がありましたし」
「判決を出したあとですか?」
「あとです。法廷にずっと立ち会っていた職員で、
 私より、被告に近いところにいたんです。
 その職員だけに‥‥‥‥」

「その現場を見ていた方が?」
「もちろんそうです」
「言葉として強烈ですね」と私は繰り返した。
「強烈ですよ、それは」と
山室さんは噛みしめるように言った。
「その時、どう思われました?」
「それ自体はどうってことはなかったですよ。
 いや、自分は見抜いているつもりだ、
 と思っていましたが、
 こういうのはあとから
 微妙にボディーブローってやつですか、微妙に‥‥。
 もしかしたら
 演じきっていたのかもしれない、と
 そういう可能性ってあるのかなって‥‥‥」

それだけではなかった。
ある情報が山室さんの心を揺らすことになる。
「ある機会に聞こえてきちゃったんですよ。
 林郁夫が刑務所で、ヨガを組んでいるという話が。
 その時に、なんだよ、という感じが
 ちょっとあったんですよ。
 もちろん長期間入っていますし、
 ヨガを組んで何が悪いと言われれば、そうなんですが、
 何か失望感のようなものを感じたんですよ」

去年はじめに、この情報を耳にしたという。 
「ヨガもオウムのあれでしょうと思いますからね。
 一般のではなくて、オウムのあの座り方、
 あの修行のという風に思いましたから。
 勝手な思い込みかもしれませんが」
 山室さん自身が、ヨガの話を確認したわけではない。
 だがそうした情報が記憶と結びついたのだという。

「職員に言われた、だまされてるんじゃないですか、
 という言葉を思い出した?」
「そりゃあ、オーバーラップしますよ。
 もちろん人の気持ちというか、生き方というか、
 それは時のファクターもありますからね。
 あの時は心底、反省していた、
 でも何年もたって変わっていった、
 これもありうるものですから。
 だからもしそうだとすると、
 あの時だまされたわけではない」

「そういうとき、
 いろいろなことを反芻するんじゃないですか?」
「時折、ふっと思い出したりしますよね」
「あの判決、良かったのかなって?」
「ええ」
と同時に、当時に戻って
林郁夫被告に判決を下すとしても
同じものになるだろうと言う。
「自分としてはあのとき、
 判断を下して自分の役割は終わったと、
 そんな風に思っていました。
 林(郁夫)の今の様子を聞いたときにもそう思ったし、
 他でも時折、聞こえてきちゃうことがあるんですが、
 その時にも、自分の役割は果たしたと」
「林郁夫被告に無期懲役をだしたのは後悔というのは?」
山室さんはきっぱりと答えた。
「ないです」

山室さんに話を聞きながら、
彼が何度か立ち返る言葉があることに気づいた。
それは“孤独”という言葉だった。
2時間ほどのインタビューの中で、
山室さんの頬を涙が一筋、つたっていく瞬間があった。

(来週に続く)

2010-06-10-THU
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