きょうは、
寡黙に映画を撮りつづけている
老監督のお話です。



ハリウッドから遠く離れて

最近出た『老後も進化する脳』という本ほど、
人生の折り返し地点をすぎた人を、
元気づける本はないんじゃないかと思う。
「最近、人の名前が出てこなくて‥‥」
と嘆くことが増えた私も、タイトルに惹かれて
(編集者の狙いにまんまとはまって)、
すぐに購入してしまった。

「(脳は)他の器官とは異なり、
 いくら使い続けても消耗しない。
 それどころか、さらに強化され、
 それまでの人生を営んできた活動の渦の中では
 発揮しそびれた資質を、
 改めて輝かせてくれるのである」

頑迷になっていくお年寄りも
たくさんいることを思い出すと、
にわかには信じがたい説ではあるが、
著者がノーベル賞をとったイタリアの女性学者で、
しかもいま100歳と聞けば
(書いたのは10年ほど前のようだが)、
説得力も増すというものだろう。
その彼女が、
「脳は老後も進化する」と言っているのだ。

本の中で彼女は、ミケランジェロ、ガリレオ、
バートランド・ラッセル、ピカソといった
“年老いてますます盛ん”だった人物たちを、
実例としてあげている。
確かに90歳を超えてなお創作意欲が
おとろえなかったピカソの人生を見晴らしてみるだけでも、
そういう人もいるというのは納得できる。
ピカソが生涯に残した作品は3万点、
毎年300枚(そんなことほとんど不可能に思えるが)
描いたとしても、100年かかるとういう凄まじさだ。

“年老いてますます盛ん”な人物列伝に
加わるのにふさわしい、もうひとりの人物がいる。
クリント・イーストウッドだ。
彼は世界でいま最も忙しい79歳、と言っても
あながち間違いではないだろう
(彼はこの5月31日に79歳になった)。

主な出演作品だけで45本、監督した映画は29本、
そのうち出演・監督の両方を
こなした映画は22本にのぼる。
イーストウッドのすごいところは、
70歳を超えてからの作品が
ますます充実していることだ。
特に『ミスティック・リバー』以降は
どれが代表作になってもおかしくないできばえだ。
内容ばかりではない。
全米興行成績も、最新作『グラン・トリノ』が
1億4千万ドルを超え、
自らの出演・監督作品の中で
なんとトップに躍り出たのだ。
(海外も合わせた興行成績は
 2億5千万ドルを超えている。)
この歳になって、人生で最も稼ぐ作品を撮るなんて、
そんな芸当をなしとげたのは、
おそらくイーストウッドくらいだろう。

いまやイーストウッドは、
時に“巨匠”として“神格化”さえされるが、
これを最も笑い飛ばしているのは本人じゃないかと思う。
イーストウッドは、
“ハリウッド的なるもの”に背を向け、
好んで“B級映画”を
せっせと作り続けてきた監督だからだ。

イーストウッドの長き道のりは
テレビドラマから始まる。
日本でもお馴染みとなった『ローハイド』に
7年にわたって出演、
その合間をぬってイタリアに渡り、
最初の師となるセルジオ・レオーネ監督のもとで
『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』に出演した。
テレビで人気がでた俳優が映画に出てスターになる、
ここまでは珍しくもない話だ。
しかしそこからの選択が、
イーストウッドの人生を形作ることになる。

イタリアから戻ったイーストウッドのために
エージェントは
これぞハリウッド映画、という感じの
スペクタクル大作西部劇を用意するが、
彼はこれをあっさり拒否、
あえてもっと地味な映画
『奴らを高く吊るせ!』に出演する。

イーストウッドはこの映画を作るために
1968年、自ら製作会社を設立して
『マルパソ』と名づけた。
『マルパソ』とはスペイン語で
『険しい道』という意味だという。
イーストウッドは
ハリウッドのシステムから距離を置いて
自分が作りたい映画を撮る城を構えたのだ。

そして1971年には「恐怖のメロディー」で
監督デビューを果たす。
当時、俳優が監督をするケースは
ほとんどなかったためか、
ユニヴァーサル映画はこの提案を喜ばなかったという。
映画会社としては、当たりそうな映画に
おとなしく出てくれれば、それでよかったのだろう。
それでもイーストウッドは自らの意思で
“カメラの後ろ”に立つことを選んだ。

この頃、イーストウッドは
監督として大きな影響を受ける人物と出会う。
ドン・シーゲル監督だ。
イーストウッドは、彼が監督する『白い肌の異常な夜』、
『ダーティーハリー』など4本の映画に出演する。

この出会いは、
最初の師であるセルジオ・レオーネ監督と同じか、
それ以上のものだった。
イーストウッドは、
ふたりの監督から多くのことを学んだと、
様々なインタビューの中で話している。
ふたりとも華やかな
メインストリームの監督というよりは、
どちらかというと、
きっちりと仕事をする玄人好みの監督といったタイプだ。
イーストウッドは、仕事師であるふたりから、
効率的に映画を撮る手法、
つまり短期間に、しかも予算を超えずに作るという、
プロデューサーが聞いたら
泣いて喜びそうな手法を学んだという。

しかし、イーストウッドが選ぶテーマに、
プロデューサーが泣いて喜んだという話は、
ついぞ聞いたことがない。
彼は、ハリウッド的なわかりやすいストーリーや
絵に描いたようなハッピーエンドを嫌い、
複雑で、最後は観客に
判断をあずけるようなテーマを好んだ。
社会から孤立したはみだし者や、
運命に翻弄される敗者を主人公にしたストーリーを好み、
死刑制度、安楽死、小児性愛といった、
あまり心地いいとは言えない題材にも挑んだ。
そのために自らがスターであることも最大限に利用した。

『孤高の騎士 クリント・イーストウッド』に
収録されているインタビューのなかで、
イーストウッドはこう話している。
「わたしのすべての作品を
 特定の層の観客向けに撮ることは無理だ。
 たえず同じ価値観をもちつづけることもやはり無理だ。
 いつも同じ映画だけ撮っているようでは、
 映画作家とはいえない。
 わたしはこれまでやってきたことに変化をつけたり、
 これまで一度も扱ったことのない
 テーマに挑むのが好きだ。
 そうでなきゃ、面白くない。
 チャレンジじゃなくなってしまう。
 『スター』であること、あるいは
 『スター』とみなされることに利点があるとすれば、
 ふつうならまず実現できないような企画を
 実現させてしまえることだ。
 スターが興味を示さなければありえないような映画だ。
 他の誰も手をつけないようなテーマだ」

作家性の強いイーストウッドの作品を最初に認めたのは、
ニューヨークの近代美術館だった。
1980年に彼の作品を特集して、
イーストウッドを“芸術家”として認め、
敬意を示したのだ。
近代美術館の売店には
所蔵する重要作品をまとめた
『近代美術館350作品ガイド』が売っているが、
この中にはピカソやセザンヌの作品と並び、
イーストウッドの『許されざる者』が収められている。

続いてイーストウッドを認めたのは、ヨーロッパだった。
フランス、イギリス、ドイツで特集されたほか、
『ペイルライダー』『バード』
『ホワイトハンター ブラックハート』が
カンヌ映画祭の招待作品に選ばれている
(のちに『ミスティック・リバー』も招待された)。
イーストウッドはヨーロッパへの信頼とともに
アメリカへのいらだちのような心情も
時に垣間見せる。
「『トゥルー・クライム』(彼の監督作品)は、
 たぶんヨーロッパの方が、受けがいいだろうね。
 『パーフェクト・ワールド』もそうだった。
 アメリカでは理解してもらえなかった。
 何度でも言うが、
 わたしは一度やったことを繰り返すことができない。
 片っ端から拳銃をぶっ放して、
 死体の山を築くようなアクション映画とかね。
 そういうものの方が金になるのだとしてもね」
(『孤高の騎士 クリント・イーストウッド』)

ハリウッドが重い腰をあげて
イーストウッドに勲章を与えたのは、
1993年になってからだった。
『許されざる者』が、
アカデミー賞の作品賞、監督賞など
4つの部門で受賞したのだ。
『許されざる者』はイーストウッドが
10年ほどあたためて実現した作品で、
西部劇でありながら、
お決まりの筋立てを否定してみせた。
ここにはヒーローは登場せず、
元殺し屋と保安官のどちらが善でどちらが悪か、
単純に割り切れない。
脆くて弱い人間たちが暴力に駆られ、
悲劇に見舞われていく、奥深いストーリーだ。

ハリウッドから遠く離れた場所に
身をおいてきたイーストウッドは、
アカデミー賞をもらっても変わることはなかった。
70歳を超えても
“映画会社泣かせ”のストーリーを選び続ける。

『ミスティック・リバー』は“暗い”という理由で
ワーナー・ブラザーズは
なかなかクビを縦にふらなかったし
(結局低予算を条件に出資した)、
『ミリオンダラー・ベイビー』は
“ボクシング映画はあたらない”と、
ワーナーはまたもや製作を渋り、
別の映画会社には断られたという。
結局、ワーナーが半分ならカネを出すと言って折り合い、
ほかの出資者と折半することで撮影にこぎつける。
イーストウッドはこう話している。
「どの映画会社も、私と映画をつくりたいと言っていた。
ただし『ミリオンダラー・ベイビー』ではなく、
『ダーティーハリー6』ならば、という条件でね」

続いて監督した『父親たちの星条旗』と
『硫黄島から手紙』では、
硫黄島の戦闘をテーマに、日米双方の目線で、
合わせ鏡のような物語を仕上げた。
イーストウッドは『硫黄島の手紙』の
ほとんど全編を、なんと日本語で作り、
アメリカの海兵隊員が
投降した日本兵を撃ち殺すシーンを描くのも
躊躇しなかった。

『チェンジリング』は実に美しい映画だ。
完成度という意味では、
イーストウッド作品の中で、
一、二を争うのではないかと思う。
ファーストシーンから、
流れるように物語に連れていってくれる。
演出はすべてが自然で、ムダがない。

そして『グラン・トリノ』。
この映画に“やられた”おじさんは多い。
私もそのひとりだ。
主人公の最後の身の振り方は、
どう人生をしめくくるかという、
おじさんには身につまされるテーマをつきつける。
だが『グラン・トリノ』も、
ある意味、最高によくできた
“B級映画”と言ってもいい。
イーストウッドを除けば役者はみな素人同然、
お金だってかかっていないし、
撮影日数もたぶんそんなにかけていない、
ほんとうにコンパクトな映画なのだ。

70歳を超えて、もうひとつ付け加わったのが音楽だ。
イーストウッドのジャズ好きは知られているが、
最近は自らの映画の音楽を、
自分でつくることも多くなっている。
『ミスティック・リバー』、
『ミリオンダラー・ベイビー』、
『父親たちの星条旗』、『チェンジリング』を観れば、
静かで深い彼の曲を聴くことができる。
『グラン・トリノ』では作曲のみならず
ラストシーンで、かすれた歌声まで披露している。

そればかりではない。
先日、『さよなら。いつかわかること』
という映画を観た。この映画は、
イラク戦争に兵士として行った妻が亡くなりながら、
その死を娘2人に言えない男の物語で、
この3人の心理描写で描かれていく。
とりわけラストに近いシーンで、
男が海を見ながら、娘2人に初めて妻が亡くなったことを
告げようとする場面が印象的だ。
男は最後の最後まで「死んだ」という言葉を口にできず、
「重い怪我をしたんだ」としか言えない。
ところが、その後の会話の内容は
観客には聞こえなくなり、
父と娘が激しくやりとりを交わす映像をバックに、
静かな美しい音楽が流れる。
観客は彼らの悲しみをより深く感じて、
そのままラストシーンにつながっていく。
ところが最後のクレジットを見て驚いた。
音楽のところに、イーストウッドの名前があった。
あれだけ忙しいのに、
他人(ひと)の作品の作曲まで引きうけていたのだ。

イーストウッドの長き旅は今も続いている。
産まれたのは世界大恐慌のまっただ中、
ジェームズ・ディーンや
スティーブ・マックイーンと同世代と聞くと
その長さにあらためて驚かされる。
イーストウッドは
映画の歴史と折り重なるように生きている。

イーストウッドへの最近のインタビューの中で、
一番お気に入りの言葉を紹介して、
きょうのコラムを終えようと思う。
『キネマ旬報』の5月号に掲載されたものだ。
イーストウッドは、
70歳をすぎ、以前にも増して精力的に
映画を作り続けている理由を訊ねられて、
こう答えている。

「ある朝、目が覚めたらもう78歳になっていた。
 妻のディナに『チェンジリング』と
 『グラン・トリノ』の話をしながらこう言ったよ。
 『一体、わたしは何をしているんだ。
  2本も作品を抱えているうえに、作曲までしている。
  なんでこんなことをしているんだ?』とね。
 それから笑い出してしまった。
 だって、その理由は
 ただ好きということだけだったから。
 いまでも常に新たなことを学んでいる。
 人生のなかでは、物事に対して旺盛な時期がある。
 何が原因で、何が理由でそうなるのかわからないが、
 とにかくそういう時期があるんだ」

イーストウッドは、いま
南アフリカのマンデラ大統領を
テーマにした映画を準備しているという。

(終わり)

2009-06-01-MON
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