東京オリンピック・パラリンピックの
全競技内容をわかりやすく絵で伝える
「スポーツピクトグラム」を手がけた
グラフィックデザイナーの廣村正彰さんと、
組織委員会デザイン担当部長の吉原潤さんに
お話をうかがいました。
言語を問わず世界中の誰でもが理解できるよう、
シンプルでわかりやすく、
なおかつ日本らしさも表現された廣村さん。
1964年の東京オリンピックからはじまった
スポーツピクトグラムの歴史を紐解きながら、
解説をしていただきました。

4パラリンピックでは
どう動く。

乗組員B
廣村さんはオリンピックだけでなく、
パラリンピックのスポーツピクトグラムも
担当されているんですよね。
廣村
はい、パラリンピックのスポーツピクトグラムは
全部で22競技23種類あります。
パラリンピックも基本的には
オリンピックの考え方を踏襲して
デザインをしました。
乗組員B
オリンピックのスポーツピクトグラムは
1964年からということでしたが、
パラリンピックのデザインは
なかったのでしょうか。
吉原
1964年の東京大会では、
パラリンピックのスポーツピクトグラムが
まだなかったんです。
乗組員B
1964年というベースがないだけに、
オリンピックと比べて、
どこに留意されたのでしょうか。
廣村
パラリンピック競技ならではのルール、
アスリートの体の使い方、競技用具などを
どうピクトグラムで正確に表現するかですね。
競技用具は車いすが多いのですが、
最初は車いすの表現は
すべて横型に統一したかったんです。
ただ、どうしてもそうはなりませんでした。
「車いすテニス」と「車いすラグビー」を
比べて見てください。
左から「車いすラグビー」と「車いすテニス」。
乗組員B
ラグビーは正面を向いていますね。
廣村
ボールをひざに置いて、
ダーッと移動しているんですよ。
横バージョンで作っていたんですけども、
リアリティがちょっと少なかった。
競技団体の方と相談して、
じゃあ正面にしましょうかと。
乗組員B
車輪の角度も
うまく表現されていますよね。
廣村
ぼくが見たことのない競技もあったんですよ。
「ゴールボール」とか「ボッチャ」とか。
左から「ゴールボール」と「ボッチャ」。
乗組員B
「ゴールボール」には
目隠しがされていますね。
吉原
そうそう。
乗組員A
どんな競技か知らない人でも、
このデザインを見れば想像できますね。
乗組員B
車いすを操る手に注目して見ると、
「卓球」は動きながら打っていますが、
「バドミントン」では
止まって打っていますよね。
左から「卓球」と「バドミントン」。
廣村
よく気づきましたね。
ラケットで打つときの動きも
競技ごとに違いますから。
乗組員A
「テコンドー」あたりは、
オリンピックと比べると
蹴りの高さも、右手の角度も違いますよね。
左から「オリンピック」と「パラリンピック」。
吉原
競技団体の方にお話を伺ったら、
「オリンピックとパラリンピックでは
蹴りの高さが違うんだよ」
とおっしゃっていましたね。
廣村
パラリンピックでは、
左腕の欠損も表現しています。
乗組員B
ああ、たしかに。
パラリンピックのデザインは、
オリンピックがすべて完成してから
着手されていたのでしょうか。
廣村
時期としては重なっています。
まったく同時とは言わないですけど、
オリンピックが少し進んでから、
パラリンピックにも着手しようと。
まずはオリンピックの土台ができてからです。
今回パラリンピックのデザインもしたことで、
勉強になりましたし、思い入れが強くなりました。
もともと知らなかった分、
ぜひ見てみたいと思っています。
乗組員B
知らなかった種目が
まだまだありますよね。
吉原
いろいろ学びましたよ。
パラリンピックの「5人制サッカー」は、
オリンピックの「サッカー」と
ボールの位置を変えてあるんです。
左からオリンピックの「サッカー」とパラリンピックの「5人制サッカー」。
乗組員B
これにはどんな意味があるのでしょう。
廣村
視覚障害のある方は、
足よりも前にボールがないと当てられなくて、
後ろにあるボールは蹴れないそうです。
しかも、シュートを強く打ちません。
乗組員B
たしかに、比べてみると
体勢もちょっと立っていますもんね。
廣村
パラリンピックでは
立ち気味にしているんですよ。
吉原
実際の競技を知ることで、
スピード感や勢いに違いが出てきます。
乗組員A
ああ、ずっと見ていられます。
乗組員B
1964年の東京オリンピックでは、
廣村さん、10歳ぐらいですよね。
当時の世の中の盛り上がっている光景は、
頭に残っていたんでしょうか。
廣村
はい、覚えていますよ。
さすがにピクトグラムまでは覚えていませんがね。
田舎でしたから家にテレビがなくて、
隣の家のテレビを観ていた気がしますね。
日本が開会式で出てきて、みんながワーッとなった。
それは後で観た映像なのか、
そのときに観たのかわからないですけど。
「アベベが走った」とか、
すごく強烈に覚えていましたね。
乗組員B
大人になってデザイナーになられて、
お師匠さんである田中一光さんが
1964年のピクトグラムを作られていた話は
直接聞いていたのですか。
廣村
田中事務所にいたときに
「そんなことをやっていたんだよ」
という感じで聞いていました。
赤坂御所の地下に特別な部屋があって、
そこに若いデザイナーたちが集められて、
交替制で日夜ピクトグラムを作っていたそうです。
乗組員B
秘密組織みたい(笑)。
乗組員A
テレビで再現ドラマを観たことがあります。
廣村
デザイン界においても、
1964年の東京オリンピックは、
日本のデザインが飛躍的に発展する
ひとつのトリガーみたいなものになりました。
東京オリンピックから
日本がデザイン先進国になっていったんです。
そういった成功体験がみんなの中にありました。
ぼくも、オリンピックが
また日本に来るんだったら、
やっぱりそれに関わりたかった。
本音を言うと、誰しも思うことなんですよね。
オリンピックに対してはね、
そのぐらいの強い想いがありました。

(つづきます)
2019-07-14-SUN