ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 朝日新聞気仙沼支局 篇
第3回  新聞記者の習い性。
糸井 掛園さんは、いくつもの幸運が重なって、
いま見たら
あんまり高いとも言えない、魚市場の上で‥‥。
掛園 いっしょに避難していた人に
漁協の幹部のかたがいらっしゃったんです。

わたしといっしょにいたとき
実は、奥さんと連絡がついていなかった。
糸井 ああ‥‥。
掛園 あとから、そのお話を聞いたんですが
そのときは、
一切そういう素振りを見せなかったんです。

内心、いかばかりかと思いました。
糸井 本当ですね。
掛園 市の職員も
避難所でみんなの世話をしていたんですが、
自分の家族がどうなってるのか、
わからない人ばっかりだったんですよ。
糸井 そうですよね、その時点では。
掛園 わたしも、市役所の前にできた避難所で
一晩「椅子の上」で寝ましたけど、
職員は離れられませんから
椅子に座ったままで、寝てるんですよね。

本当に、大変な仕事だと思いました。
糸井 どこかで「これは、自分の役割だ」と
決めてらっしゃったんでしょうね。
掛園 朝は炊き出しで、避難所でおにぎりを配る。
夜は夜で、椅子で寝て。

彼ら彼女らだって、被災者のはずなんですけど。
糸井 震災直後に被災者の世話をしていた人たちは、
みんな、同じ被災者なんですよね。
掛園 はい。
糸井 掛園さんには
「被災者」としての意識は、あるんですか?
掛園 ふだんは「ない」です。
糸井 ない。
掛園 本当に、ふとしたときに
「あ、そうか、オレも被災者なんだ」と
思うことは、あります。
糸井 それは、どんなときですか?
掛園 地震が揺れたときのようすや
津波が来たときの
自分や、まわりの人たちの気持ちなどを
「なんとか伝えたい」と思うとき。
糸井 やっぱり、あくまで「新聞記者」なんだ。
掛園 ぼくもね、
そんなにマジメな記者ってわけじゃあ
ないんですけど‥‥
新聞記者としての「自己意識」というよりも
染みついた「習い性」みたいなもので。
糸井 そうですか。
掛園 震災の翌日は、
3万5000歩くらい歩いたんです。
糸井 あ、車が使えませんものね。
掛園 仙台から、応援の若い記者が来たんですが‥‥。
糸井 その人はどうやって?
掛園 内陸の一関からは、車で入れたんです。
携帯電話も、そこまで行けば通じましたし。
糸井 へー‥‥。
掛園 で、震災当日の原稿を送って、
帰ってきたのが夜の8時ごろだったんです。

若い連中と「ああ、腹が減ったね」と。
糸井 そこだけ取り出したら、
ふつうの会話ですね。
掛園 そう、でも食糧なんて持ってない。

だから、避難所に行って
「何か食べる物、ありませんか?」
と聞いたんです。

われわれも、被災者ですから。
糸井 ええ、ええ。
掛園 夕食には間に合わなかったんですけど、
ケーキを1個ずつ、もらいました。

やっぱりね、おいしかったですよ。
糸井 3万5000歩のあとの、ケーキ1個。
掛園 ようするに、
その瞬間まで「新聞記者」だったんです。
糸井 人の気持ちって‥‥不思議です。
掛園 記者の仕事が一段落したら
「ああ、腹減った」と、思い出したんです。

いつもはそんなことないんですよ。
震災の惨状と緊張が、そうさせてたんです。
糸井 いっぺんにいくつものことできないけれど、
優先順位は「記者」だったんですね。
掛園 はい、そうでした。

自分が新聞記者だなんだって
ふだんは意識してないつもりなんですが‥‥。

「何かを伝える」という、
そういう場所にいないと落ち着かないんだと
思いましたね、自分は。
糸井 なるほど。
掛園 以前は、それこそ最低1日に1本は
原稿を書いてましたし、
自分の書いた記事の載ってない新聞なんて
「気持ち悪かった」んです。
糸井 そうですか。
掛園 まぁ、仕事ばっかりしてたわけじゃないし、
優秀なわけでもないんですけど(笑)。
糸井 失礼ですが、掛園さんはいま、おいくつ‥‥?
掛園 67歳です。
青木康晋・
仙台総局長
朝日新聞の記者は
1800人くらいいるんですが、最高齢の記者。
糸井 あ、そうなんですか。
掛園 本当は60歳で定年なんですけど、
嘱託で契約更新して。

朝日新聞では
67歳までやれることになっていますから、
本当なら、夏に卒業だったんです。
糸井 じゃあ、悠々自適のはずが‥‥震災で。
掛園 ええ、特別に長くやらせてもらってます。
青木康晋・
仙台総局長
1800人のなかの最高齢の記者が
八戸から気仙沼へ転勤してきて、
最初のひと月間、
毎朝5時に起きて、魚市場行って、
魚屋さんと知り合いになっていったんです。

なかなか、そんなことはできません。
毎日毎日、2カ月近く。
糸井 ご本人は
好きだからだって言ってますけど‥‥。
掛園 いやぁ、本当に自分は魚が好きなんですよ。

この魚は、どの船から上がるのか、
どんな漁師さんが釣ってくるのか‥‥。

気仙沼の魚市場に並んでいる
魚の名前がわからないのは、歯がゆいんです。
糸井 そういう気持ちがあるからこそ、
避難場所も「魚市場」だったんでしょうね。
掛園 あ‥‥そうかもしれない。
糸井 だって、ぜんぜんなじみがなければ、
思いつかないと思うんです。
「魚市場の駐車場に登ろう」‥‥だなんて。
掛園 そうかもしれないです。
糸井 だから同時に、掛園さんは
気仙沼の魚たちから
「生きろ」って言われたんだと思う。
掛園 ‥‥気仙沼にとっては、魚がいちばんです。
糸井 気仙沼のエンジンなんですね、魚市場って。
掛園 だって、わたしが気仙沼に転勤になったら
友だちがみんな、
あそびに来たがるんですよ。
糸井 ほう。
掛園 目的はね、フカヒレ。
糸井 ああ‥‥うまいもの食いたいんだ。
掛園 そうです。

フカヒレの料理を出すお寿司屋さんがね、
いま跡形もないけど‥‥あったんです。
糸井 ええ。
掛園 そこで飲み食いをして、
翌朝、帰る前に魚市場を見せるわけですよ。

すると
「ああ、これが気仙沼なんだね」と言って、
納得して帰っていくんです(笑)。
糸井 やっぱり、よそにはない「資源」なんですね。
気仙沼にとっての「海」って。
掛園 ええ、そう思います。

<つづきます>
2012-03-05-MON
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