YAMADA
天童荒太さんの見た光。
対話するように書いた物語。

17
その行動は誰のためになるのか


※昨日と今日の天童さんの談話は、
 特に、濃いものになっています。つづけてどうぞ。

 今日は、「読者のために尽くす」とは言うけど、
 具体的にはどんな行動を
 積み重ねてゆくのかを、ご紹介いたします。

 「読者のために、チームを組む」に加えて、
 「読者のために、エゴを抑える」
 という考えかたを、話してくださったんです 。

天童 最後のしあげに向けて、
ゲラが何度も何度も、
ぼくと編集と校閲のあいだで、
くりかえし巡回してゆく。

そういうなかで詰めていった作品ですから、
ぼくは、『家族狩り』を、
個人の力で生み出したものではなくて、
「チームを組んだことで、
 はじめて成立したもの」だと考えています。

最後のほうは、もう、
校閲も印刷も早くなってくるんですよね。
ふつうの計算では、こんなに早く
ぼくのところにあがってくるはずがない、
というタイミングで、ゲラが巡回してきた。

その分ぼくは時間を与えてもらえるわけですよ。
天童に時間をやろうと、
みんなが少しずつ無理をしてくれたようで、

「みんな、ほんとに
 この作品に気持ちを入れてくれているんだ」
と、ひしひしと伝わってきました。
うれしかったし、おもしろかったんです。
いいチームメイトに恵まれて、
ぼくは幸せですよ。
ほぼ日 「二〇〇一年から今年まで、
 何年もかけて小説を書く環境」や、
「編集や校閲との、そこまでの
 チームの体制を作れるほどの環境」を、
天童さんは、これまでのキャリアで
育てていたんでしょうね。


「ひとつの作品だけを、
 何年も書き続けること」にしても、
天童さんの決断がくくれていなければ
できないことですし、更に、
「校閲が職権を超えてまで、
 物語に入りこみたくなるほどのおもしろさ」
が、天童さんとのゲラチェックでの
交流にあったということだと感じました。

そういう「土台づくり」も含めて、
おもしろいなぁと思って聞いていました。
天童 そういう環境は、
基本的には、徐々に読者が
与えてくれたものだろうと思っているんです。

九五年版の『家族狩り』が、
山本周五郎賞をいただいていることによって、
まず、次に書いた『永遠の仔』の完成が
三年ほど先になったことも許されたわけです。

ただ、その時点では、まだ出版社のほうも、
完成に時間がかかっても、
「賞を得た作家なのだから、
 やりたいようにやらせたほうがいいだろう」
という感じで、
待ってくれるようになったとは言え、
執筆期間中の生活を
保障してくれるわけでもありませんし、
どういった作品になるのか、
売れるものなのか、わかってないですから、
成果については、基本的には
作家側がリスクを背負うという
スタンスだったように思います。

ところが、『永遠の仔』を書き上げて、
それを刊行前に読んだ幻冬舎は、
とても高い評価をくれて、
思ってもみなかったほどの熱さで、
作品の売り込みに動いてくれました。・

でも、その幻冬舎の予想も
はるかに超える形で、
読者がすごい反響を返してくれたんです。

読んだ人が次々と紹介してくれるような
形のなか、どんどん部数もあがって……
それで、まわりが
さらに大きく変わっていったんです。

「天童は、時間がかかるのは仕方がない。
 ただ、そのぶん、できた作品の質は
 高くなるはずだし、
 読者もきっと受け入れてくれるだろう」

それを出版社全体に
刷りこんでくれたのは、読者なんですよ。

だからぼくは、
たくさんの部数が売れたからと言って、
天狗になってはいけないと思いました。

自分の力があったから
今の状況があるのではない。
「読者が機会を与えてくれた」
と受け取らないと、
道をあやまるだろうなとは、
いつも感じているんです。


『永遠の仔』以降に生まれた
経済的な余裕についても、ぼくは、
「読んでくれた人たちから、
 大きなあずかりものをしている」
と捉えることにしました。

「『永遠の仔』と同様の深いものを、
 あるいはそれ以上の作品を、
 時間をかけてもいいから届けてくれ」

読者たちから
そう言われているような気がしたんです。

だったら、金銭は、
自分の欲望のために使うのではなくて、
次の作品や、またその次の準備のために
使うべきだと思いました。


出版社がチヤホヤしてくれるからと言って、
次の作品を
すぐにポッと出したりしてはいけない。
つまり、
「時間も金銭も、すべて、
 よりよい作品に向けて注いでいく」
というのが、
ぼくのやるべきことだと考えたんです。

連載などの注文に追われることなく、
ある程度の余裕をもって
小説を書くことができるのは、
すべて読者のおかげなのだから、
これから読んでくれる読者も含めて、
「読んでくれる人たちのために、
 いま何をすれば
 いちばんいいのだろうか?」

と、ぼくとしては詰めてゆくことになりました。

そうすれば、ぼくのエゴによって、
道をあやまることも
ないだろうと思っています。

例えば、編集者に何か言われて
カチンと来るのは、結局は
「オレの書いたものに、なに文句言ってんだ」
というエゴでしょう。

結局は、
「それが誰のためになるんだろう?」
ということに尽きると思うんです。

最も読者にとっていい方法を取るなら、
できるだけ多くの仲間たちの意見を聞いて、
チームで議論して、
よりよいものを目指すべきだ……
というように、
自分のやっていることの理由が
はっきりするんです。

読者のために、チームを組む。
読者のために、自分のエゴを抑える。


もちろん、やっぱり人間ですから、
自分の書いたものを
「これでいいのでしょうか?
 私はわかりません」
と言われたら、傷つきはするんです。

そういう気持ちは、なくなることはない。
ただ、以前のように、ほんとに
繊細に傷つくということはなくなりました。
言ってもらったほうがいいなぁ、
と考えられるようになってきています。

と言うのも……
みんな、本が好きで、
いい作品を作りたいから
編集者になったんですよね?


だから、作家が書いたものを
そのまま出版するだけじゃなく、
実は本の内容についても、
いろいろ言いたいはずでしょう。

ただ、編集者たちと
親しくつきあうようになってわかったのは、
「いい作品にしたいという気持ちで
 編集者が伝えたいことを、
 かならずしも作家に言えていない」
という状況があるらしいんです。

本来、いい本を作るためなら言うべきだし、
言われた作家にも、ある程度は
「オレはそんなにたいしたもんじゃない」
という自覚も必要ではないでしょうか。


少なくとも、ぼくは、
すべてがわかっている
人間でもないわけですから、
できるだけ謙虚に、
編集者の話を聞きたいと思っています。

「ここは違うんじゃないですか? 
 こういう表現にしてはいかがでしょうか?」

その指摘が図星の場合も、
誤読されてる場合も、
どちらも傷つくわけだけど、
相手が誤読した責任も、
作品には多少ともあるように考えています。
できるだけ誤読されない方法を
選んだほうがいい。

といって、相手の提案をそのまま返したら、
作家としての意地とか、
創造者としての誇りがすたるというか、
つまらないですよね。

「ちくしょう!
 だったらもっといい表現で返してやろう!」
と提案を乗りこえようと
歯をくいしばって苦悶すれば、
実際にそういう
より高い次元の表現が出てくるわけです。

すると、編集のほうでも、
実際には言わないまでも
「あぁ、まいりました」
みたいなことになります。

そういうキャッチボールがおこなえると、
作品って、確実に上に行くわけじゃないですか。

そういう機会が増えるものだから、
チェックしてもらうほど、
ほんとに作品はよくなっていきましたね。

もともと、
こちらがカチンと来るような指摘って
「ほんとのことを言われたとき」
だろうなと思っておくくらいが
いいんじゃないかなぁ。


余裕のあるときに、
ぜんぜん的外れなことを言われたのなら、
誰だって、それは笑って流せるわけですから。

だからぼくは、
チクリと来たりカチンと来たなら、
的を射ている部分が
少しはあるんだろうなぁ、
と思うことにしています。

その指摘を生かして、
よりよい表現を探して返すということを、
チーム作業でしつづけることで、
作品はよくなっていくんです。

※次回は、近日中に掲載いたしますね!

 天童さんの言葉への感想やメッセージなどは、
 postman@1101.com
 こちらまで、件名を「天童さん」としてお送りください!





←前の回へ 最新の回へ 次の回へ→

第1部
「幻世の祈り」
第2部
「遭難者の夢」
第3部
「贈られた手」
第4部
「巡礼者たち」
第5部
「まだ遠い光」

『家族狩り』は5月下旬まで刊行され続けている作品です。
天童さんの言葉への反応は、件名を「天童さん」と書いて、
postman@1101.com に、対話するようにお送りください!
インタビュアーは「ほぼ日」の木村俊介でおとどけします。

2004-06-17-THU

YAMADA
戻る