糸井 学者やえらい芸術家など
「位置」がある人たちのいるところには
そのグループの
「山」が築かれています。

マルセル・モースもいれば、
ピカソもいる。
それはそれで、ぜんぶ「山」です。

その山の上で
お互いに理解しあう人たちが会う。
そのすばらしさは確かにあります。
だけど、山で言っていることを
町に降りて来て言うと、
人に「はあ?」と言われるわけですよ。
平野 ああ、そうかもしれませんね。
糸井 うん。だけど、もともと山の上でしていた
高尚で高度な話は
どうしてはじまったのでしょうか?
それは、太郎さんの「発見」した縄文の土器や
(岡本太郎さんは1951年頃、
 東京国立博物館で縄文土器に出会いました。
 太郎さんはその美しさを再評価し、
 日本美術史を書き換えたとも言われています)
アルタミラの洞窟の絵などです。
それらは「はあ?」と言われないものでした。

そこから、もっといいものをつくろうとして
人は山にのぼっていって
誰にも邪魔されないように、
芸術として、学問として、磨いた。

その山の上で「どっちの人がすごいか」について
みんな、興味がないわけじゃない。
だけど、そこでやっていることが
はたして町で伝わるのか?
それはやっぱり、やってみたくなることでしょう。
平野 いわば、実験ですね。
糸井 それは、やんなきゃダメですよね。
岡本太郎さんが、塔だの壁画だの、
自分のつくったものの多くを
町に放り投げていったのは
そういう気持ちが多分に
あったんじゃないかと思います。

そして‥‥存在そのものを
最もさらすことのできる町は、
あのとき、やっぱり
テレビだったんだと思うんですよ。
平野 うん、なるほど。
糸井 「芸術は爆発だ」って、本気で言ってる台詞が
笑いとともに受け止められる。
それは町の現実でした。
太郎さんはきっと
どっちでもよかったんじゃないかなぁ。
平野 ああ‥‥そうか、
きっとそうだ、
太郎さんは、どっちでもよかったんだ。
いまやっとわかりました。
糸井 そうだと思います。
岡本太郎が笑われてたときの太郎さんは、
自分が年取ったせいもあるんだけど、
「いいぞ!」と思います。
考えてみれば、太郎さんの親たちは
大衆芸術作家ですよね。
岡本一平もかの子も
高尚で典雅な芸術をやってたわけじゃない。
それを思うと、
岡本太郎がどうしてあんなに、
顔にこだわったかがわかります。
あれは、漫画のセンスだと思いませんか?
平野 いや、まったくそうですね。
『森の掟』だって、見方によっては、
あれは漫画ですよ。
絵柄はキャラクターの動物園状態だし(笑)。
近代美術の規範からはほど遠く、
どうひいきめにみても、
上品で上等な美術品とは言いがたい。
60年前にあの絵を見た人の衝撃って、
いまからは想像できないくらい
大きかったと思います。
糸井 うん、そうでしょうね。
平野 正統的な西洋絵画の作法を拠り所に生きていた
「美術」の世界の人たちは、
ものすごく不愉快だったろうし、
「こんなやつ、認めてなるもんか」
と思ったはずです。
糸井 太郎さんはパリから日本に帰ってきて
居心地が悪かったでしょう。
だから、みんなのびっくりする
漫画のような表現をぶつけることができた、
とも言える。
愉快ですよ。
「真っ裸」になったのは、やっぱり
日本に帰ってきてからなんでしょう?
平野 そうですね。
パリ時代はいわば「学び」の時期で、
自分の立ち位置をみつけようと試行錯誤していた。
それが、日本に戻って、
日本の文化や美術の状況を見たとたんに
怒りが込み上げてきて、
アドレナリンがドバドバ分泌され(笑)、
いろんなものがギュッとひとつになった。
「オレはこうする、それがオレなんだ」と
腹をくくったわけですね。
「岡本太郎の芯」ができあがった、
というか‥‥。
糸井 岡本太郎だけじゃなく、ほんとうはみんなが
自分の裸の歌を持っているはずです。
だけど、自分がどこかで
得たり与えられたりした特定の役割で
生きています。
その「役割の生き方」が
たとえ昨日まで役に立ったとしても、
ひとたびすべてを失ったら、
裸の「俺」として生きるしかない。
いろんなことを乗り越えて、ぼくらは
そのことに気づかざるを得なくなっていきます。

そのときの「俺」は、
絵は描いてないかもしれない。
でも、太郎の言っていた「芸術」です。
平野 「人生、即、芸術」ですからね。
太郎もそう言えば、
パリから帰ってきて、戦争行って
全部を失いましたから。
(つづきます)
2011-12-29-THU
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