谷川俊太郎、詩人の命がけ。 谷川俊太郎+糸井重里ひさしぶり対談 祝 谷川俊太郎さん、80歳!
 

第4回 世界を100パーセント表す言葉。

谷川 自分が言語に目覚めたときのこと、
覚えてます?
糸井 覚えてない、と思います。
でも、そのあたりのことについて
ぼくなりにちょっと思っていたことがあって。
谷川 なんでしょう。
糸井 歌の中で、
わからない言葉が出てきたことって
ありますよね。
谷川 ああ、ありますね。
糸井 それをそのままにしていた自分というのが
くすぐったいような、
気持ち悪いような、いいような。
谷川 なるほどね。
糸井 みんながよく言うのは、たとえば、
「うさぎおいしかのやま」
谷川 はい。
糸井 うさぎがおいしいわけじゃないし、
「かの」という言葉も
よくわかんないまま
歌ったり使ったりしていました。
石井桃子さんの翻訳した
クマのプーさんのシリーズとか、
あのあたりの本にも
おとなの言葉がすごく混じり込んでて、
読んだときのまま、そのままにしちゃって
たのしい自分がいました。
宙ぶらりんで、すごく気持ちいいな、って
思ったおぼえがあります。
谷川 そこに書いてあることを
隅から隅まで理解するってことは
ほんとはありえないんだけど、
教育現場では
隅から隅まで理解しなきゃいけない
みたいなことになっているんだよね。
糸井 そうですね。
谷川 詩はもちろん
隅から隅まで理解できないものなんだけど、
散文は、ちょっと分析しすぎるんです。
糸井 散文にも、
詩の要素は、絶対にありますよね。
谷川 あるんですよ。
言語そのものが、
基本的にあいまいなものであって、
われわれの生きてる現実を
100パーセント表現なんか、
できないものだからね。
糸井 うん。できると思い込んでる人の数が
多い限りは、
ぼくらがいましゃべっているようなことは
理解されにくい。
谷川 まぁ、詩を書いてる人間だからそう言うんだ、
みたいなこと、
言われそうな気がしますけどね。
糸井 そう言われてもねぇ。
だけど、理屈が合っていそうなのに
わけのわかんない言葉も
いっぱいありますね。
詩人の言葉は、文句なく、いい。
だけど、全部が詩になっちゃったら
ひじょうに不都合であります。
例えば、税金の督促状とか。
谷川 (笑)そうね。
糸井 人の心を打つような督促、
というのをされると。
谷川 (笑)
糸井 「ここで靴をぬいでください」
という貼り紙ひとつにしても、
すばらしい表現で、
靴を脱ぐべきだな、という思うように
心に響いちゃうようにして貼られると
まいっちゃいます。
谷川 ま、そんなことするとね。
糸井 それよか、いまのほうが
生きやすいでしょう。
谷川 トルコの詩人で、
数学の教科書を詩で書いてる人、いましたよ。
糸井 (笑)迷惑だね、それは。
すごいですねぇ。
谷川 我々は詩というものを、
ただ「すごくあいまいな言語」だと
思い込みすぎています。

だけど、詩イコール韻文だとすれば、
簡単なんですよ。
つまり五七五七七のこと。

韻文を詩だと言えば、
俳句は詩だし、短歌も詩だし、
子どもが五七五を言えば、それも詩だし、
標語なんか全部詩でしょ?
だから、たぶんトルコでは、
韻文で数学を教えてるんだろうなと思いました。
糸井 ああ、そうかそうか。
日本は、そういうところが
ずいぶんくずれてきたのかも。
谷川 日本語では、韻文の伝統は
短歌と俳句しかありません。
だいたい、現代の日本語では
韻は踏めないんです。
全部が母音で終わるから。

日本語の詩はいま、
韻文性を完全に失いつつあるから、
詩というと、なんだかボワッと
話が中身のほうにいっちゃって、
形のほうに来ない。
ヘンだなと思います。
糸井 それはおもしろいな。
韻文にすれば、
詩に見えてしまうということですね。
谷川 それでもいい、ということです。
だけど現代詩は
みんな、韻文を忘れて、
意味にかたよっちゃった。
日本語にもけっこう豊かな
音楽性があるんだけど、
それを無視して、
意味だ、意味だ、ということで
やってきちゃったわけです。
  (つづきます)

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2012-04-05-THU