最終回 基準はひとつじゃない、正解はいっぱいある。

糸井 ぼくが、眠りについてのお話を
訊きたがってる理由というのは、
もともと、働くのがイヤでしょうがなかった、
というところからスタートしてるんですね。
泣きたいくらいイヤだったんです。
その自分というのを否定されると
毎日苦しくてしょうがない。
でも「働くのがイヤだ」ということを
そのままにしといて、
おもしろいことをちゃんとやってたら
役に立ってるじゃないか、と言われたくて、
生きてるみたいなとこが、あるんですね。
これくらいの年になると
だんだんとそのことが
矛盾せずにつながるような気がし始めて。
 
井上 結局、自分も楽しいし
何がしか、人に迷惑はかけてない、
せめてマイナスじゃないけど、
いくらか役に立ってると言ってくれる人もいると。
それは非常に幸いなことだと、
そういうことになりますね。
糸井 働くのが苦手なもんですから
ヘタをすると瞬間的に間違った考え方というか
一番似合わない考え方のほうに
行きそうになるんですね。
つまり、人の見本になるような、
言わば最前線に立ってね、
絶えず人の嫌がる仕事をしていれば、
いいんじゃないか‥‥
ということを思ったりすると、
全部が解決するわけですよ。
一旦。
そして、そういうことをやっちゃおうかな、
と思う時代も、何度か、あったんです。

けれど、それは自分でもいいのかわからないし、
人にも迷惑だ、ということを
しょっちゅう戦わせながら、
結局よく休んでいたり、
遊んでいたときの方が、
できたことが多かったなあ、と、
臨床的にわかってくるわけですよ。
井上 なるほど。
糸井 おそらく、人が持っている幻想、
いっぱい働いて汗水垂らして、
他人にも「どこでさぼってんだ」って
チェックして‥‥みたいな、
そういうものを邪魔することが、
いまぼくがやっていることで、
それがぼくの仕事かなあ、というふうに、
いまになると思えるようになって、
今日みたいな話ができるようになったんです。
井上 それは、存在意義として非常に大事なことで、
自他ともに認めていいことです。
そういう人が世の中にいないから、
その分だけ価値があるということになりますよね。
糸井 そうですね。
やっぱり一般的には
どれだけ身を粉にして働くか、
で、そこには、必ず幸せがついてくる、
というようなことを言うと、
通じやすいんですね。
ですから、そこの通じやすいところで
達成した人でも
「オレは何をやってたんだろう」
ということを後悔するし、
達成できなかった人は
達成できなかった不幸の中に泣くし。

やっぱり、さっき先生おっしゃった
「甘め」の採点みたいなものが
どれだけ大事かということを
ぼくは言いたいですね。
井上 まぁ、お坊さんなんかは、
とっくに、そういうことを
いっぱい言ってらっしゃるんじゃないですか。
糸井 お坊さん、言ってますよね。
ほんとにそうですよね。
「ほぼ日」で親鸞についての連載があったんですが、
全部関係なく、南無阿弥陀仏でいいんだよ、
という話をしてるという話が、
どのくらい読まれるかわからずに連載を始めたら
意外にみんなおもしろいと言ってくれました。
それと、ぼくらがやる睡眠の話は、
根っこは同じだと思ってるんです。
井上 そうですね。
生きていくということで
つながっていますから。
 
糸井 先生は、宗教的な
お坊さんみたいな話というのは
個人的に興味はおありでしょうか。
井上 全く、ついこの間までは関心もありませんでした。
宗教ということの必要性はよく理解できるんですが
自分の中に宗教なり、神様を持ち込んじゃうと
自分の存在を立証できなくなっちゃうでしょ。
なるべくそういうの抜きで考えられるような、
そういう世界で生きて来たんですけど、
人間の精神というか、文化というのは、
それだけじゃないから、
他の人はどういうふうに見てきたんだとか、
どういう歴史をもってるんだとか、
いま多少ヒマですから、
そういうのに、関心を持ち出してますね。

ただ、世界全体の秩序そのもの、
ビッグバンがどうの、
宇宙論がどうのなんて言ったって、
結局その背景にある何か総括するものというのは、
それを「神」という学術用語においてもいいし、
別の「エネルギー」という学術用語においてもいいし、
要するに、神というものを
前提として考えないとスタートしないような
論理を組み立ててるわけですからね。
それを神様にしようが、
科学的な用語にしようが、
それは必要だと思いますね。

それに対する否定的な考え方は
持っていませんね、昔から。
自分が自分として生きてること自身も
やっぱり、何ゆえにそうなのかというと
自分が自分つくったわけじゃないから
何かの存在を仮定した方がわかるという
そういうものですよね。
よくわからないという。
よくわからないけど、そういうのを前提として
説明すると楽だということに過ぎませんけどね。
糸井 昔の人はすでにこういうことを
たくさん考えてきたんだなと思う喜び、
というのはありますよね。
井上 そうですね。
そういうものを比較して
批判するだけでも結構
楽しいことは楽しいですよね。
糸井 「我思う故に我あり」というのを
脳の考え方からどう説明するか、とか。
いろんなことが、遊べますよね。
井上 そうですね。
あんまり単純に物質的に割り切ってしまうと、
それ自身で間違いだという
そういうことは十分わかっていますね。
糸井 企業も、生産性とか効率とか、
散々、表向きのロジックとしては語っていますよね。
けれどそこで埋められない部分というのを、
例えば専門用語で、
モチベーションなんて言葉を使っていて。
それはもう、ほんとは説明できない、
という話をしてるんだと思うんです。
井上 だけど、概念をつくって、
そのモデルを作って、
わからないものをモデル化して、
置き換えて、そこから、
いくしかないですよね。
糸井 すべり込ませますよね。
いまでは、
エモーショナルマーケティングとか名前をつけて
昔で言えば神様にあたる部分とか、
人間はしょうがないという部分を
なんとか共通の言語で
やりとりできるようにしてますけど、
まあ、それは流行がありますからね。
井上 そうですね。
それはまあ、時代と共に変わるでしょうし、
いろんな意味で、結果的には、
最終的には見えないものかもしれないけど
そういうものを求めて、そういうもので、
とにかく納得しないとおさまらないという
そういう脳になっちゃってますね。我々。
糸井 そうですね。
こういうお話になるとは、思いもよらなかったです。
ともだちだという前提で
睡眠のことを普通に話したらどうなるだろうと
ほんとに自然にやってたつもりだったんですけど、
とてもぼくには、おもしろかったです。

「ほぼ日」の読者にも
このまま伝えられたらいいなと。
ぼくにとっては、やっぱり
キーワードは「甘め」でした。
「甘め」と言う言葉はずっと昔から
使ってらっしゃいましたか。
井上 いや、「甘め」と言う言葉は使っていませんでした。
どちらかというと個人差と言いますか、
多様性みたいな、基準はひとつじゃないということですね。
正解はいっぱいある。
しかもそれは個人ごとに違う。
そういうことは、昔から言ってましたけどね。
例えば、グルメ的とか究極というのに対する
「甘め」という、
そういうのは、言葉としては使ってませんが、
内容は同じことですね。
糸井 何かを伝えるときのいい道具になりますね。
ありがとうございました。
こういうお話をなさる機会というのは‥‥
井上 いや、ありませんね。
糸井 じゃ、ぼくらはラッキーだったわけですね。
とてもうれしいです。
井上 ラッキーだと言ってくださって、
大変光栄です。
糸井さん、独創性のあることを、
どんどん、やっていってください。
糸井 なかなか難しいんです、でも。
井上 難しいから、やりがいもあるんです。
糸井 そうですね。
なんとか、あわてずに、
ちっちゃくても進められたらいいなと思ってやってます。
どうもありがとうございました。
いやぁ、おもしろかったなぁ。
この特集は、どこから掘っていっても、
その先生による個性がやっぱりあるんですね。
井上 そうでしょうね。
なにしろインチキな話をしたんじゃないかと
思うんですけど。
要するに学問として
これ以上隙間がないということじゃなくて
わかってないことの方が多い、
そういう領域ですからね。
点と線でフィクションつくってるようなことに
ならざるを得ない。
糸井 おもしろかったなぁ。
まるで、ある意味では
お坊さんと話してるみたいな感じでした。
井上 出家した方がいいでしょうか。(笑)
(おわり)
2008-02-27-WED
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