雑穀の人。岩手県二戸、高村英世さんの畑で。

第3回 高村さんインタビュー その2 高村さんのおかした間違い。
── 近代農業が入ってきたことで
どんなふうに、高村さんの畑は
変わっていったのでしょう。
高村 わたしが、学校から帰ってきて、
3、4年経つと、
我が家でも馬はいなくなりました。
そして、地域でも
ほとんどの馬が消え、
堆肥も消えていきました。
しかし、化学肥料による近代農法がよかったのは
5年間くらいのものでした。
5年、10年経つと、
連作障害が起きるんですよ。
── 連作障害というのは、
同じ畑で、だんだん、
作物が育たなくなることですね。
高村 はい。たしかに化学肥料は便利ですよね。
パラパラ蒔けばいいから、楽で。
ところが化学肥料と農薬を使っていくうちに
だんだんと土地がおかしくなったんですよ。
堆肥は、つくるのも、運ぶのも、
手間がものすごくかかりますが、
連作障害は起きなかった。
── 堆肥のほうが、
よかったということなんですね。
高村 同じ地域のおばあさんで、
最高の収量のヒエをつくる人がいるんです。
なにげなく、
「どういう肥料を使ってるんですか」
って訊いたんですよ。
そうしたら、100%、完全に、
有機的な堆肥であると。
足りないからといって
化学肥料を使うことはしていないと。
この原点は、もうすごいなと、
あらためて思いました。
── すごい効果なんですね。
高村 持続効果があるんです。
とくにヒエには堆肥がよく合うんですね。
それはヒエのほうが
堆肥にあわせて
進化してきたのかもしれません。
わたしも、雑穀を育てはじめて
やはり堆肥のほうが合うとわかりました。
── ヒエというのは、
もともとは野草なのでしょうか。
高村 野生に一番近いものですね。
このあたりにも野性のヒエがあって、
とうぜん無肥料ですが、
人の背丈ほど伸びるんですよ。
── 強いんですね。
高村 山の畑とか山の草、雑草って、
なぜあんなに背が伸びると思います?
── 日当たりでしょうか。
うーん、でも‥‥どうでしょう。
何もしなくてものびるということは‥‥、
何だろう。生命力ですか?
高村 そうです。
ほんらいの生命力なんです。
そこが原点ですから。
太陽の光を入れて、同化作用をして、
自分が成長する。
しかし野性のままでは
背は伸びて葉は茂りますが
肝心の実は、多くはとれません。
だから実を取るために
ほんのすこしの堆肥をやるんです。
そうするとたくさんの実を
付けてくれるんですよ。
そういうヒエの素敵さというものはね、
わたしも、実際に有機栽培をやってみて、
初めて分かったことなんですよ。
だって、わたしは、若い頃、
ヒエなんか全く否定してたんですから。
── それは学校で近代農法を学んだからですか。
高村 そう。わたしもね、親がやってるものは、
全部、古くて、遅れたものだと思ったんです。
── 学校で教わったことが新しいと。
高村 そうなんです。
千年以上も続いた伝統の作付けをね、
全く古くて、馬鹿らしいもののやり方だと
思ったんですよ。
親とか先祖がやってきたものに、
貧しさしか見えなかったんです。
「お金が取れないのに、なぜこんなものを」
っていう価値観なんです。
当時の学校では、食という大切な文化とか、
雑穀の栄養機能を教える先生なんて
まったくいませんでした。
雑穀は値段がお米より安いから、
もうだめなものと否定しておったんです。
それが人間が生きていく上で
最高の基盤だという価値観を、
先生方も、削って捨てておったんです。
だからみんなが、化学肥料や農薬を使って
ピカピカの野菜をつくるようになりました。
だって、お金になるほうがいいですものね。
── 高村さんも、同じように、
野菜に転身なさった。
高村 そうです。それはそれは、
一所懸命野菜作りをしましたよ。
売れば、1日5万とか、
いい時は10万も売れました。
ところが、経費もかかるんです。
機械とか、ハウスとか。
だからいつも借金が溜まってね。
売り上げは増えるんですけど、
作付面積を増やすと、
人件費もすごいですよね。
そうして、農薬も
1年に40〜50万円も使うようになりました。
今となっては、
ありえないくらい高い金額です。
── たくさんの農薬を使っていたんですね。
高村 時期をずらして
いろんな野菜を作りますでしょう、
そうすると、夏場は2〜3日に1回くらい、
農薬を使うようになるんです。
それでも、虫に耐性ができてくると、
殺虫効果がなくなります。
虫が死んでくれないんです。
次から次へと虫が湧いてくるんです。
だから農薬をますます使う。
そういう農法を、
25年、続けてきました。
そんななか、
『現代農業』という雑誌を読みました。
そこに、20年以上農薬を続けると、
肝機能障害でぶっ倒れるって
書いてありまして、
友人のりんご農家と、
「これはやばいね」と話していた矢先、
わたしは、倒れました。
45歳ころの話です。
── 長年、農薬を吸いすぎて、
それが蓄積し、体をいためたのですね。
肝臓を患うと、体力も気力も
なくなると聞いたことがあります。
高村 はい、全くそうでした。
でも、農業は続けなければ
家族が困る。
ですから山の畑に行くのですが、
動くことができず、
寝てばっかりいるんです。
── お医者さまには?
高村 すぐには行きませんでした。
けれど、困ったなということで、
残留農薬の検査をしようと。
けれど東京の病院までは行けません。
といって近くに残留農薬の検査を
してくれる病院は、ありませんでした。
しかし幸いだったのは、
弘前の個人病院で、
検査ができることがわかったんです。
弘前はりんごの産地でしょう。
やはり農家にそういう障害が出てきて。
── そうしたら‥‥。
高村 重症ですと。検査の結果、
何のことだかさっぱり分からない数字を言われて
「高村さん、もうだめです、あなたは」って。
── ええっ?!
高村 「即、入院しなさい」と。
── はぁ、よかったです。
高村 しかし、ちょうど3人の子育て中でしたから、
入院するわけにはいきませんでした。
男がいないと機械が動かないでしょう。
だから、先生にお願いして、
「半月に1回ずつ来ますので、
 なんとか助けてください」と。
それで2年ぐらい通院したんです。
── それをきっかけに、高村さんは、
農薬を使う農法をやめたんですか。
高村 いえ、農薬は使い続けていました。
絶対、農薬を使わない
農業のほうがいいと思っても、
かわりの農法がないんです。
無農薬の野菜は虫が付く、
虫の食った穴があるといって
まったく売れない時代でしたから。
── お金にならないわけですね。
高村 それでも農薬は減らしたいわけです。
で、たまたまその頃、
わたしが小学校のPTAの役員をやることになり、
花壇に植える花の苗がないことを知りました。
そこで花壇の花の苗作りを始めました。
それは農薬を掛けても1回だけ。
掛けなくてもいいくらいの花もあります。
それから、ゴボウのタネ作りです。
これはあんまり強い農薬は使わないんです。
そういうふうなものを探して、
増やしていきました。
── 治療しながら。
高村 はい。けれども、赤字は増えつづけました。
まだちゃんと体は動きませんでしたから、
1日でやれるものを
3日も4日もかかるんですよ。
やったふりなんです。ハハハ・・・・。
ぴかぴかの野菜をつくっていたときに較べたら
売り上げが少なくなるわけです。
でも無理をしてさらに肝臓を悪くしたら
重症になれば死ぬんですもんね。
── もうその「死ぬ」っていうのは、
本当に実感として
おありになったんでしょうね。
高村 はい。
── そういうことは、でも、
ご家族に秘密にしてたわけじゃないですよね?
高村 いや、最初は黙ってたんです。
けれどもパワーがないから分かるよね。
元気なくなりますからね。
それはもう1年ぐらい我慢してましたけども、
ついに、ばれました。
── そうして治療をつづけながら
農薬をつかわない農法を
模索していかれたのですね。
雑穀に行こうと思われたきっかけは
何だったのでしょう。
高村 はい、あれは、平成元年頃のことでした‥‥。

(つづきます)

2008-09-09-TUE
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