雑穀の人。岩手県二戸、高村英世さんの畑で。

第二回 高村さんインタビュー その1 循環型農業の終り。
はじめて、わたしたちが二戸を訪れたのは
まだ風のつめたい4月のことでした。
きたぐにの春は遅く、
さらにその日はつめたい雨が降っていて、
到着するころには
すっかり体が冷えてしまっていたわたしたち。
茅葺き屋根の高村さんの家では、
まだ、掘りごたつに火が入っていました。
「さぁ、どうぞ。ゆっくりお入りください」
こたつを囲んでのお話が、はじまりました。

── 茅葺き屋根で、ぬれ縁があって。
とても古いお宅なんですね。
高村 古くてね、もう壊さなくちゃならないんですけど。
わたしのうちはね、プラネタリウムだと言うんです。
── プラネタリウム?
高村 以前、取材にきたかたに、
「わたしの家はプラネタリウムですよ」
と言ったらね、
有機栽培やってお金を儲けて、
本物のプラネタリウムを建てたんですかって。
そんなわけないよね、
そうじゃない、茅葺き屋根に穴があいて、
夜になると星が見えますよって。
── あらら!
高村 いまはさすがに、トタンを貼ってますけれど、
前は、昼は太陽が燦々と入ってくるし、
夜はお月様から北斗七星まで見えました。
ね、プラネタリウムでしょう?
── 雨の日がたいへんそうです。
高村 雨の日にお客様が来る時は、
「傘一本持参してください」って言うんですよ。
わたしの家は6人家族ですから、
雨の日にご飯食べる時は、
左手で傘を持って右手でご飯食べてました。
── そんな(笑)!
高村 笑っちゃうでしょう?
ほんとうにきょうは
よく来てくださいました。
さあ、どんなことでも
お話ししますよ。
── はい、では、高村さんが
雑穀づくりを始められるまでのことを、
教えていただけたらと思います。
農業を始められたのは、
おいくつのときのことなんですか。
高村 中学校を出て、
県立浄法寺営農高等学園という
農業の勉強をする学校に行き、
1年間勉強しました。
16歳のとき、
昭和30年代の始めです。
そこで、トラクターがあって、
ビニールハウスがあって、
農薬があって、
化学的な肥料があって、という、
いわゆる近代農業を
教えてくれたんです。
── その前は、それとは違う
農法だったわけですか。
高村 ちょうど、一般の農家に、ちっちゃな、
手で押して動かす耕耘機が
普及し始めたころでした。
それ以前は、ここ岩手県の県北は
馬を使っていました。
トラックの代わりの物の運搬、
堆肥から木材までね。
冬は、大きな馬そりで、
いろんな荷物を運びました。
それから、畑を掘る時に
鋤を引っ張ってくれる。
田んぼの代掻きもできますね。
わたしが中学校に行く頃は
たいていの中堅の農家はね、
馬を一頭ずつ飼っていたんですよ。
そんなふうに、馬がいないと
農業が成り立たなかったんです。
── なるほど。
高村 馬がいたことで“循環型農業”ができていました。
循環型農業というのは、
馬がいて、ヒエがあって、
人間がいるっていう、
三位一体型の農業のことです。
馬がいることによって
堆肥がたくさん作れますね。
そして、馬といっしょに畑をつくりますね。
それは、千年以上も続いてきた、
切っても切れない循環なんですよ。
馬のごはんもね、夏は野草、
冬はヒエの殻を3センチぐらいにカットしたものに
お水を掛けたものが主食でした。
おかずはなんなのかというと
ヒエぬかとか、豆腐のおからとか、
くず豆とか、ふすまとか米ぬかとか。
── 余るものですね。
そんなふうに循環していく農業だったんですね。
高村 そう。自給できるものを使ってね。
馬がいなければもう全く、
この岩手の県北の中山間地の生活は
成り立たなかったんです。
人間のために馬がいるのではなく、
馬のために人間がいる、
というくらいのものでした。
『遠野物語』にもありますが、
「南部曲がり屋」といいまして、
馬と人がひとつ屋根の下で暮らせるよう
L字型に曲がったところが
馬の部屋になっている建物に暮らし、
だいたい40アールくらいの畑でとれるヒエで、
冬場、馬1頭を食べさせることができました。
そして、ものすごい堆肥が
取れていきますね。
その堆肥があったとないとでは
作物の出来が、全くちがうんです。
堆肥を入れない畑は
全く作物が育たなかった。
化学肥料がない時代です。
ヒエ・麦・大豆の“二年三毛作”というのですが、
ここの火山灰土壌の酸性の土地でも、
馬のおかげで、作物が育ちました。
江戸時代の大規模な冷害も、
この地方では、ヒエのおかげで
乗り切ることができたんですよ。
── ヒエは、強い作物なんですね。
高村 はい、ヒエは冷害に強い作物です。
江戸時代の天明・天保には、
5年も連続で冷害になったということで、
米がとれないために、人が大勢なくなりました。
でもこのあたりは、ヒエのおかげで、
しのぐことができたんです。
── その農法というのは、
どれくらいの歴史があるものなんですか。
高村 わたしが調べたところによると
1000年以上も続いてるんですよ。
── すごいことですね。
高村 そんなふうに同じ農法が
長く続くって、なかなかないことなんです。
何の産地でも、50年でも、
続くことは珍しいと思いますよ。
── ヒエは、人間の
主食でもあったのでしょうか。
高村 そうです。ヒエが主食です。
とはいっても、
県北でも少し田んぼがあるところは、
わたしの家でもそうでしたが、
2割お米、8割ヒエの、ヒエめしでした。
余裕のあるところは、
5割、お米を入れるんですけれども。
── お米が2割、ヒエが8割!
そんなに。
いまわたしたちが食べる
雑穀ごはんと、割合が、逆なんですね。
高村 それから、全然田んぼがないような、
山間地に行くでしょう?
そういう地域は、
100パーセント、ヒエなんです。
── ヒエだけの主食。
どんな食感なんでしょう‥‥。
高村 いや、さすがに、お米とくらべたら、
“おいしい”ものでは、ないですよ。
でもそれでこの土地の人間が生きてきたんですね。
もちろん、おいしく食べる方法はあります。
それは、とろろ芋。
煮たヒエに、とろろをかけて、
醤油をちょっと落として
食べるとおいしいですよ。
── へえ!
よく麦と、とろろっていうのは
ありますけどね。
高村 はい、このあたりは、ヒエとろろ。
岩手県の南のほう、宮沢賢治の世界はね、
押し麦を入れたとろろめしなんですよ。
そんなふうに、お米じゃない主食も、
おいしく食べる知恵があるんです。
── はい。そういう食文化が
あったんですね。
高村 ええ。でも、その価値観を、みんな、
忘れておったんです。
二年三毛作で馬がいたとか、
ヒエを食べていたっていう文化をね、
忘れてしまったんです。
── いつごろからですか。
高村 とくに失われていったのは、
高度経済成長期以降でしょうか。
家庭にどんどんどんどん
お金と電化製品が入ってきて、
いろんな洋風の食べ物を食べるようになる。
牛乳もたくさん飲む。
それが最高の、都会の生活だったんですよね。
そして、田舎の食生活は
全く貧しいものだと思ったんです。
── 日本がかわっていくにともなって
農業も、かわっていったわけですよね。
作物も、かわりましたか。
高村 現金収入のために
野菜をつくるようになりました。
そして、そのために、
ちっちゃな耕耘機を買いますね。
そうしたら、馬は要らなくなります。
耕耘機を買うということは
馬を殺すということなんです。
── うわぁ‥‥。
高村 馬さんはね、1日に4回も
ごはんを食べさせなければならない。
そのために朝早く起きて、
草を刈るという毎日なんです。
雨が降ったってどうなったって
その暮らしは変わりません。
でも、耕耘機が入ることによって、
草を刈らなくてもいい。
そして化学肥料を使うようになれば
堆肥を作らなくてもいいですよね。
そして、虫が付いたら、
農薬をかければ大収穫できる。
馬がいなくても農業ができるしくみが
できていくんです。
── そういう時代になっていくんですね。
高村 はい。それが近代農業なんです。

(つづきます)

2008-09-08-MON
 
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