糸井重里が語るundoseの魅力。

あれは2008年のこと。
休日の午後、青山を散歩中に、
彼女たちの展示会をやっているギャラリーの前を
偶然、通りかかりました。
壁面に、このバッグがずらっと並んでいて、
それを見たとき、
「これは、あとでゆっくり見よう」と思いました。
ぱっと入ってしまうと、
なんとなく気持ちが急いてしまうんですよ。
それで、ごはんを食べて、満腹になったところで、
ふたたびギャラリーに入ってみたら、
どれも欲しくなっちゃったんです。
そのときいっしょにいた、うちのかみさんも
ほしいものとほしくないものが
わりとはっきりしているタイプなんですが、
「これ、いい。私は、これ買おうかな」
なんて言いながら、すぐに買っていました。

その日、糸井家で購入したショルダーバッグとお財布。

昔は、工業社会の時代には、
「まったく同じ形をしたものがたくさんできますよ」
というのが、価値だったんですよ。
みんなに行き渡るという豊かさと、
平等で不公正がない、ということが
表現されているわけですよね。
でも、いまみたいに、同じものが行き渡ってしまったら、
今度は、みんな同じものを持っているのはおかしい、
と思うようになるんです。
自分のこころを想像してみたらわかりますよね。

いまの時代の流れの中で、
「同じように見えるんだけれど、ちがう」とか、
「同じになりきれない」とか、
「同じであることを否定する」とか、
そういう気分が、ふつふつと沸き起こってきています。
それは、作る人の動機もそうだし、
受け取ったり、買ったりする人の欲望もそうなってる。

その「同じように見えるんだけれど、ちがう」
というものが、
ぼくが、これからもっと掘り下げていきたい、
「作品」という概念です。
「ほぼ日」も、その考えを根っこに持ちながら
いろいろやってますよね。
これまでは、
「大量生産の商品」と「芸術作品」しか見えなかった。
その二つの間にあるものを、質も量も、
豊かにして行きたい。
たとえば、昔からある伝統工芸品も「作品」ですよね。
有名ブランドのルイ・ヴィトンのバッグというのも、
芸術という言い方では呼べないし、
かといって、大量生産の商品とは明らかに違いますよね。
間のところに、いっぱい「いいもの」があるんです。
同じものを期待する時代は、ちょっと昔なんですよね。
食べ物も、同じになりにくい商品ですよね。
毎年、同じ生産者のお米を買っていても、
去年とまったく同じお米が食べられるかと言えば、
そうではないでしょう。
日当たりだとか、雨量だとかで、味は同じにならない。
だからこそ、今年は当たりだとか、
去年のほうがおいしかっただとか、楽しめるんでね。
型にはめて作るたいやきだって、
1個ずつを見ていくと、やっぱりちがうわけで、
その1個ずつのちがいをいいなと思わないと
面白くないと思うんです。
人間ひとりひとりがちがっていて、
しかもみんなそれぞれ大事な人間だというのと、
似ていると思うんです、
これからの時代の「商品論」って。

もちろん、大量生産品は、それはそれであり続けます。
捨ててしまっても無くしてしまっても、
すぐに同じ品質のものが買いなおせるものというのは、
これはこれで、あったほうがいいと思うのです。
一方で、「これは捨てられないな」というものや、
どういう人が作って、
どういうふうに作られているのかという素性を
ちゃんと知った上で、受け渡しされていくものを、
これからぼくらは探して行きたいんです。
そういう意味で、
これからの「ほぼ日」がやっていきたいことの、
最初に世に出ていく「旗=シンボル」になる商品として、
「木曽ツインズ」の作品に目がいきました。

昔から、工芸品の類い、
たとえば「和竿」とかね、いい職人さんに頼んだら、
できるまでにものすごく時間がかかるんだけれど、
まず前金を半分渡して、途中で見に行って、
「いい具合になってるねえ」なんて言いながら、
お客さんが、できるまでの長い時間、
それ自体をたのしんでいましたよね。
そんなふうに、「ものと人」との関係の中に、
「人--もの--人」が三角形になるような関係ができたら、
いちいちうれしいじゃないですか。

飼っていた猫が死んじゃったときに、
「いいじゃん、新しいのを買ってあげるから」
とは言わないでしょう。
飼っていた猫というのは、そいつしかいないわけで、
毛並みから、何までそっくりだったとしても、
そいつではないんですよ。
そういう「そいつしかいない」ものを持つことの
うれしさだったり、
ぜんぶが、ほんとうは、たったひとつのものなんだ
ということを思い出させるようなお店を
やってみたいなあと思ってたんです。

この革バッグは見事にそうですよね。
「おんなじもの、ちょうだい」と言っても、ない!
「それがないんだったら、こっちでいいや」と選んだら、
付きあってるうちに気に入っちゃったりね。
時間が経つにつれて、
使ってる自分と共作みたいになっちゃうんですよ。
そんなことも、大いにあり得ますよね。
反対に「ああ、自分にはあまり似合わないな」と思ったら、
きっと、とても喜ばれるし、
しまっておくのはもったいないですから。

あと、この「木曽ツインズ」が、
作り手(職人)として、しっかりしてるなとわかるのは、
手縫い(縫製)がしっかりしていることと、
要所要所に、鳩目(ハトメ)などの金具を
たくさん使っていることで、
丈夫さをきちんと保証しているところです。
革の持っているきれいさや、
使っていくうちに自然に出てくる風合いをたのしむほかに、
革って、実は、丈夫だっていうよさがありますよね。
そこのよさを活かすような作り方の工夫もしてます。
裏地の選び方をみても、
カバンなどでよく使われるツルツルとした
レーヨンっぽい生地ではなく、
帆布(テントなどの生地)を使って丈夫にしていますよね。
ひとつひとつに特徴があって、
いちいちていねいな作り方をしているから、
このバッグづくりは、効率化できにくいし、
1日1個ほどつくるのが精一杯らしいんだけれど、
そこがまた面白いんです。
このバッグは、いわば、使うお客さんとつくる人が、
「会ってないけれど、友だち」のような関係に
なると思うんですよ。
そういう関係でものがやりとりされるなんて、
古いようで、新しくて、いいでしょう?

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