「つきのみせ。」2023年、
さいごを飾るコンテンツはエッセイです。
下着を新調するタイミングっていつだろう?
とチームで話していたとき、
「つきのみせ。」の下着をデザインしてくださっている
惠谷太香子さんから、素敵なお話を聞きました。
年末にぴったりのお話でしたので、
今回エッセイを書いていただくことに。
惠谷さんが尾道で過ごした幼少期のお話、
ぜひお読みください。
さいごを飾るコンテンツはエッセイです。
下着を新調するタイミングっていつだろう?
とチームで話していたとき、
「つきのみせ。」の下着をデザインしてくださっている
惠谷太香子さんから、素敵なお話を聞きました。
年末にぴったりのお話でしたので、
今回エッセイを書いていただくことに。
惠谷さんが尾道で過ごした幼少期のお話、
ぜひお読みください。
「さァ、みんな、今年もほんま、おつかれさんじゃね」
広い居間に集まった大勢の職人たちに
祖母が上座から声を張り、年納めの宴が始まります。
内側を向いて二列にずらりと並んだお膳。
皆の懐には「足代」と記された茶封筒が
大事に仕舞われています。
脇には真新しい下着の包み。
ふだんは強面で、滅多に優しい顔を見せずに
力仕事をしている職人たちの顔が、
この日ばかりはほころんで、
一年を無事に終えた安堵とともに、どこか誇らしげ。
そんな彼らのようすを見るのが、
小さい頃の私の楽しみでした。
そんな12月31日が、
もう、50年以上も前のことだなんて、
なんだか信じられずにいます。
明治41年、瀬戸内の島で生まれた祖母は、
尋常小学校を出てすぐに、
天保の頃から畳問屋を営んでいた
尾道の家にやってきました。
丁稚奉公頭だった祖父は、
跡継ぎがいなかったこの家の
仕事を継ぐことになり、
十代半ばで女中頭になっていた祖母を
妻として迎えました。
私が小学生の頃、金婚式を挙げたのを覚えていますから、
ふたりが結婚したのは大正年間のこと、
真面目で仕事のできるふたりに
商売の才覚を見いだした先代が、
家業を託したのでしょう。
戦前、戦中、そして戦後。
個人商店から株式会社になっても、
職人たちの陣頭指揮を執った祖父。
そして家で帳簿を預かっていたのが、祖母でした。
大晦日は一年の帳簿を締める日で、
お足(儲け)が沢山出るようにと験を担いで
百足のかたちをした彫金の帯留をつけた着物姿の祖母は、
算盤を弾きながらしばらく帳簿に向かったあと、
「ふぅ」と息を吐いて帳簿をぱたんと閉じ、
用意していた新札を数えて丁寧に茶封筒に入れ、
職人たちに新しい下着とともに手渡すのです。
今で言うボーナスでしょう。
そして正月はこれで故郷に胸を張って帰りなさい、
という意味もあったのだと思います。
「今年もほんま、おつかれさんじゃね」
と皆に向かって言う祖母の顔には、
頰に赤みがさし、安堵とともに
誇らしげな表情が浮かんでいました。
その凛々しい笑顔を、かっこいいな、と、
あぐらをかく祖父の膝の上に座っていた
小さな私は思ったものです。
ひょっとして祖父もまた、
同じ気持ちだったのかもしれません。
職人たちと一緒の宴会が終わると、
私はもう寝る時間。
風呂場に行くと、
脱衣籠には私用の新しい下着が入っています。
次の一年が健康で
楽しい年になりますようにという願いをこめて、
惠谷家の全員が、
それぞれの新しい下着で元旦を迎えるのです。
下着の神様がいるとしたら、
古い下着に感謝することだって喜んでくれるはずだし、
見守ってくれているのではないかと考えた私は、
脱いだばかりの、ちょっとくたびれた下着に、
祖母のマネをするように
「ほんま、おつかれさんじゃね」と言いました。
今でも私は年末に下着を新調します。
心新たに心地良く新年を迎える準備です。
「下着の捨て時がわからない」と、
良くお問合せをいただくのですけれど、
そんな時、いつも私は、この幼かった頃の
話をさせていただきます。
今年も本当にお疲れさまでした。
来年も良いお年を、お迎えください。
令和5年12月吉日 惠谷 太香子
広い居間に集まった大勢の職人たちに
祖母が上座から声を張り、年納めの宴が始まります。
内側を向いて二列にずらりと並んだお膳。
皆の懐には「足代」と記された茶封筒が
大事に仕舞われています。
脇には真新しい下着の包み。
ふだんは強面で、滅多に優しい顔を見せずに
力仕事をしている職人たちの顔が、
この日ばかりはほころんで、
一年を無事に終えた安堵とともに、どこか誇らしげ。
そんな彼らのようすを見るのが、
小さい頃の私の楽しみでした。
そんな12月31日が、
もう、50年以上も前のことだなんて、
なんだか信じられずにいます。
明治41年、瀬戸内の島で生まれた祖母は、
尋常小学校を出てすぐに、
天保の頃から畳問屋を営んでいた
尾道の家にやってきました。
丁稚奉公頭だった祖父は、
跡継ぎがいなかったこの家の
仕事を継ぐことになり、
十代半ばで女中頭になっていた祖母を
妻として迎えました。
私が小学生の頃、金婚式を挙げたのを覚えていますから、
ふたりが結婚したのは大正年間のこと、
真面目で仕事のできるふたりに
商売の才覚を見いだした先代が、
家業を託したのでしょう。
戦前、戦中、そして戦後。
個人商店から株式会社になっても、
職人たちの陣頭指揮を執った祖父。
そして家で帳簿を預かっていたのが、祖母でした。
大晦日は一年の帳簿を締める日で、
お足(儲け)が沢山出るようにと験を担いで
百足のかたちをした彫金の帯留をつけた着物姿の祖母は、
算盤を弾きながらしばらく帳簿に向かったあと、
「ふぅ」と息を吐いて帳簿をぱたんと閉じ、
用意していた新札を数えて丁寧に茶封筒に入れ、
職人たちに新しい下着とともに手渡すのです。
今で言うボーナスでしょう。
そして正月はこれで故郷に胸を張って帰りなさい、
という意味もあったのだと思います。
「今年もほんま、おつかれさんじゃね」
と皆に向かって言う祖母の顔には、
頰に赤みがさし、安堵とともに
誇らしげな表情が浮かんでいました。
その凛々しい笑顔を、かっこいいな、と、
あぐらをかく祖父の膝の上に座っていた
小さな私は思ったものです。
ひょっとして祖父もまた、
同じ気持ちだったのかもしれません。
職人たちと一緒の宴会が終わると、
私はもう寝る時間。
風呂場に行くと、
脱衣籠には私用の新しい下着が入っています。
次の一年が健康で
楽しい年になりますようにという願いをこめて、
惠谷家の全員が、
それぞれの新しい下着で元旦を迎えるのです。
下着の神様がいるとしたら、
古い下着に感謝することだって喜んでくれるはずだし、
見守ってくれているのではないかと考えた私は、
脱いだばかりの、ちょっとくたびれた下着に、
祖母のマネをするように
「ほんま、おつかれさんじゃね」と言いました。
今でも私は年末に下着を新調します。
心新たに心地良く新年を迎える準備です。
「下着の捨て時がわからない」と、
良くお問合せをいただくのですけれど、
そんな時、いつも私は、この幼かった頃の
話をさせていただきます。
今年も本当にお疲れさまでした。
来年も良いお年を、お迎えください。
令和5年12月吉日 惠谷 太香子