あれから20年ほどが経ち、私のいよいよ30代の入り口に差し掛かった。ここに来るまで、私にそれなりにいろいろな経験をしてきたと思う。小学生の私が知ったら嬉しいこともあるだろうし、逆に「しょうもない大人になったな」と軽蔑されそうなこともある。ちいさい頃の私は、今よりももっと頭が固くて、自分の人生に間違えなんて許されないと思っていた。私の考えることは常に正しくなければならないし、誰かの顰蹙を買うようなこともしないようにして、誰もが納得してくれる答えを出さなければいけないと思っていた。それでも私は人間で、そのうえもしかすると、まぁまぁ人よりポンコツだった。間違えるたび、間違えたことを認めたくなくて、胸のどこかから湧き上がってくる後悔を見て見ぬふりばかりしていたような気がする。「これでよかったんだ」と気持ちを押し切って、振り返ろうともしなかった。
後悔できない人生は苦しい。失敗だったと自分で認められなければ、そこに生じたひびは塞がれないままどんどん大きくなっていく。理想の自分と現状の自分が少しずつズレていく音を聞きながら、なんでもないように崩れかかった家で無理やりくつろぐにも限界があるというものだ。これを書きながら、ほとんど横倒しになった家の中で飲もうとしたアツアツのお茶を顔面に浴びる自分を想像する。昔の金のかかったバラエティ番組みたいで、それはそれで結構面白い気がする。失礼、話がそれました。
とにかく、私が今顔面にお茶を浴びずに生活できているのは、どこかの私が、ある種の弱さをおぼえて潔く曲がることができるようになったからである。私が間違ってたとか、あのときはどうかしてましたとか、命を取られるような駆け引き以外では、素直に後悔できるようになったからである。間違えてもいいや、なんて思いながら生きれているわけではないにせよ、あの頃よりはだいぶ気楽だ。その一方で、自分のやりたいことを真っ直ぐにやる力はどんどん強くなる。歳を重ねたことによる図々しさによって、自分が持っている欲を悪いことだとは考えなくなったのである。フードを裏返されただけで泣きそうなほど恥ずかしかったはずの私は、いまやひとりで好きな時間に映画館に行くことができるし、ひとりで中華料理屋さんに入って、好きなものを好きなだけ食べられる。嫌いだと思っていた人ごみもそれなりに楽しんで、嫌いだと思っていた人とも意外と楽しくおしゃべりできる。好きだった人と別れることもできる。誰かを必要として、誰かに必要な人でありたいと思う。