第1回 「はぐれているやつ」は誰のこと?
重松 糸井さんご自身の青春時代に、
僕が「成りあがり」に出会ったような、
今の糸井さんの中に残っているような本や言葉には
どんなものがありましたか?
糸井 重松さんにとっての「永ちゃん」のように
気持ちよくいい切れる物語が僕にはないんです。
さっきね、イントロダクションでの
重松さんのお話の中で、
自分のことを豊かじゃなかったと
おっしゃってましたけど、
僕の場合は豊かではなかったけれども、
困っているほうでもないという、
そのふたつの中間をブラブラしている人でした。
本当に何の特徴もなくて小生意気なことを言ってる。
そういう人間にとって
何かひとつだけというものってないんですよね。
たとえば、おもちゃがひとつしかないときは
そのおもちゃをどういうふうに遊びます?
重松 それしかないのだから、
しゃぶりつくすように遊びますよね。
糸井 そうですよね。
でも、ある程度の数の
好きなおもちゃがあるというのが
中産階級の子の暮らしで、僕もそうでした。
自分が決意を表すときに、平気で「死んでも」とか
「感動した」とか言うじゃないですか。
それって中産階級の子特有のしゃべりかたで、
何かを物語化するのには命まで持ち出さないと、
自分の平凡さを脱せられないからなんです。
重松 自分をむりやり追い込むわけですね。
糸井 本当にしゃぶりつくすまで読んだ本とかって、
バイトして自分で買ったんですよ、
くらいの思いがないと
言い切れないと思うんです。
だからそういった意味では
少しはずれてしまうんですが、
北杜夫や星新一、生意気になってからは
大江健三郎だとかマルキ・ド・サド、
渋澤龍彦なんかを無理矢理読んだりしてました。
あとは「花田清輝が‥‥」なんて言いたいから
書いてあることがよくわからないなりに
読んだりしましたね。
重松 僕がなんで糸井さんの
青春時代の読書を知りたいかというと、
「ほぼ日」で谷川俊太郎さんとか吉本隆明さんという、
糸井さんの青春時代に出会っていたであろう人たちに、
若いあこがれというか尊敬の念を持って
対談しているじゃないですか。
若いころからその思いがあったのか、
それともこの年になって出てきたのか
どっちなんですか?
糸井 うーん、両方ですかね。
矢沢永吉という人が社会に登場するときって、
重松さんにとっては、
兄貴と呼べる存在だったのでしょうけど、
ちょっと大学出て生意気なことを
言っていた人にとっては劇画の主人公みたいな
登場のしかただったんです。

東大全共闘が安田砦で玉砕したのち、
俺たちはどうやって生きていけばいいのか、
みたいなムードがあったんですけど、
その当時はいまだ農村が中心の時代で、
大学生の数なんて少なかったんですよ。
つまり、そんなことで悩んでいない
人の数のほうが多かったんです。
もっと具体的に言えば、
学生のデモ行進を「邪魔だ」と
思っている人のほうがだんぜん多かった。
重松 うんうん、むしろそっちのほうが
ふつうだったわけですね。
テレビや新聞では伝えられませんからね。
糸井 そう。社会の相対というのは、
学生が考えているような
頭の中の社会ではなく、
もっとあたりまえに生活としてあったんです。
そういう社会の流れを知ってしまったいま、
なんか俺って話をただややこしくしていただけ
なんじゃないかな、って思えてきたんです。
で、どうすればいいんだろうとか、
ロックとかヒッピーとか言ってるときに
「アイ・ラブ・ユー・オーケー」ですよ。
重松 (笑)。
糸井 英語としてなんかもう、
わけがわからないじゃないですか。
それがもう、かっこよかった。
そういうことをひっくるめて、
「成りあがり」という物語の中には
自分への戒めという意味があるんです。
「はぐれているやつに読んでほしい」
と書いたのも、
「本当にはぐれていたのはおまえだよ」と
僕への言葉だったりもするわけですよ。
重松 それ、すごいわかるのは「成りあがり」の中にも
「この確立された社会」という
言いかたがあるんですね。
新しいもの、おもしろいものって、
必ず突破口を開いてくれるし、
広げてくれるものがおもしろい。
だから、高校生なら高校生の思っていることを
狭めてしまうようなものはつまらなくて、
こんなのもありかよ、これもいいじゃんって
広げてくれるものが、多分新しいものであり、
出会うものであると思うわけです。

たぶん、80年代の若者の文化を象徴している言葉は
ふたつあると思ってて、
ひとつは「なめんなよ」っていう言葉。
で、もうひとつは糸井さんのコピーの
「不思議、大好き。」だと思うんですよ。
団塊の世代までの人々は、何かを好きになるときに
何かしらの理由があったはずなんです。
しかも大学生あたりに難しい本を読んだ人なんかは、
不思議のままの状態でいられない。
ただ、このコピーは、
不思議のまま、
あるいは不思議にまた別の意味をつけて、
それを大好きと言ってしまったわけです。
糸井 大好きというのと、不思議をもっと知りたいと思って
追求することは矛盾しないと思うんです。
だけど、追求したいと思う人は、
大好きと言わずに
冷静に解剖したくなっちゃうんですよね。

(つづきます)
2008-07-15-TUE