ひとりでビルを建てる男。
ひとりでビルを建てる男。
岡啓輔さんの、
蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)ができるまで。
最新の記事 2006/10/18
 
【12】高山建築学校で身につけたこと。


今回は岡さんが毎年、夏になると出かけている
高山建築学校について説明しておきます。
岡さんの建築づくりは
この学校から非常に大きな影響を受けているからです。
岐阜県の飛騨地方の山中に
ある農家を改造した建物があります。
これが高山建築学校の拠点です。


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学校といっても文科省に認定された正式な学校ではなく、
夏の一定期間だけ開催される私塾のようなものです。
しかし、1970年代の半ばに始まって以来、
さまざまな有名講師が訪れて、
激しく情熱的な議論を戦わせたりしていたことから、
建築界ではちょっとは知られた存在でした。
建築家の石山修武さん、
建築史家の鈴木博之さんは
毎年のように訪れていましたし、
建築探偵で有名な藤森照信さんや
美術家の川俣正さんが来たこともあります。
哲学者の木田元さんをはじめとして、
建築以外を専門とする一流の学者が多数、
来校するのも大きな特徴でした。
そこでは、建築を
自分たちの手でつくっていくことも続けられました。
それは決して完成することのない営みでしたが、
用途もよくわからないセルフビルドの構築物が、
敷地内には数多く散らばっています。
建築をつくるということを、
身体で感じられる場が、この建築学校でした。


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■「教えてくださいよォ」とすがる

高山建築学校に岡さんが通うようになったのは
1980年代の終わりからです。
当時の岡さんは、高専を卒業して、
勤め始めた住宅メーカーも辞め、
一年のほとんどを様々な建築現場で
働いて過ごしていました。

「建築をわかりたいと思っている僕にとって、
 高山建築学校しか行くところがなかったんです」

でも毎年通っても
「これが建築である」という極意は
つかみ取れなかったそうです。
当時の高山建築学校は、
法政大学の講師を務めていた倉田康男さんが
校長として全体を仕切っていました。
岡さんは倉田先生にすがったそうです。

「建築について教えてくださいよ、先生」

でも倉田先生には
「まあ、いいじゃないの」という調子で
いつもはぐらかされてしまうのでした。

1990年代の後半、倉田先生の身体は
徐々に病魔にむしばまれていきました。
岡さんはますますしつこく
「教えてくださいよォ」と迫ります。
が、倉田先生の答えは「絶対に教えねえ」でした。
当時のことを岡さんはこう振り返ります。

「ウソでもいいから『建築はこうだ』って
 言い切ってほしかった。
 そうしたら、それを信じて
 原理主義で突っ走ろうと思っていました。
 悩むのに疲れていたんです。
 だれかになにかを言い切って示してほしかった」

■ようやく見えてきた高山の意味

倉田先生は2000年に亡くなります。
岡さんにとって、その日が来るのは
わかっていたことでしたが、
それでも唖然としてしまったと言います。
どうして倉田先生は
岡さんに教えることを拒んだのでしょう。
それについて、高山建築学校のある先輩は、
倉田先生からこんな話を聞いたそうです。

「ある一定レベルまでは
 教育で引き上げてやることができる。
 でもそれを突破してさらに上の建築家になるには、
 教育ではできない。
 わけのわからない飛び方を
 自分でしなければいけないんだ」

岡さんならそれができる、そう考えたから、
中途半端に教えることをしなかったんだろう、
とその先輩は推理します。
それを聞いて岡さんは少しうれしくなりました。
でも「じゃあ、どうやって飛んだらいい?」。
それはわからないままです。
それを考えるために、倉田先生のいなくなった
高山建築学校にその後も通い続けています。

「自邸のセルフビルドを始めて、
 ようやく高山でこれまでやってきたことの
 意味がわかりかけてきた」

そんなふうに今、岡さんは感じ始めています。


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写真=丸井隆人
 
 
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