「日常にひそむデザインというものが、
 じつは、すごくたくさんあるんです」
という卓さんから見て、
デザインとは、どういうものだと思いますか?

デザインは、あいだをつないでいるもの

ふつうに生活するぶんには、
デザインを気にする必要はないし、
デザインだ、と意識させないようなものを
作りたいな、と思っているんですけど、

「デザインは、じつは身のまわりに
 すごく多く存在しているんですよ、
 ちょっと、一緒に考えてみませんか」

と意識化して見る機会を作れないか、
というのが、今回の展覧会の意図なんですね。

「デザインというのは、
 あいだを、つないでいるものだ」

ぼくは数年前に
あらためてこう思いました。

商品のデザインというのは、
そもそも、匿名でおこなう仕事ですよね。
本来、つなぐべきものが、既にあって、
対象と対象のあいだを、つなげばいい……。
「わたしが、つないでいます!」
と、伝える必要は、ないわけです。

そういう「つなぐこと」を、つくづく、
いろいろな場面で、やってきたんだな、
いろいろなことを、してきたんだけど、
ぜんぶが「つなぐこと」だったんだな、
ということを、再認識するようになりました。

再認識して、ラクになったというのもあります。
「自分が、
 何かを生みださなければならないんだ」
という意識ではなくていいな、
とわかったので。

既にある
何らかの場所の中に、入りこんでいく。
そこで、
「何か」と「何か」をつなげる方法を見つける。
そのぐらいの気持ちに、至ることができたので、
以前、負担や重荷と感じていたようなものが
なくなっていって、
やるべき仕事がもっとクリアになったというか……。
「ラクになった」
と話すとヘンな言いかたですけど、
自分の役割が、見えてきたような感じでした。

だから、基本的には何も変わらないんですけど、
社会の中での、自分のポジションというものは、
だんだん焦点があってきたようなところがあります。

「これをきっかけにして、
 より、チカラを抜けたらいいな」
こう思うようになった点では、自分は変化しました。


デザイナーは、環境から生みだされるもの

世代がちがうと環境がちがうから、
それぞれの世代なりのデザインの可能性を
あたらしく世の中に提示していく人たちは、
いつの時代にも、出てきているのだろうと思います。

ただ、これは
デザイナーだけの問題ではないと思いますが、
世の中のすべてのことが
すごく短いスパンで判断されてしまう、
という環境があるとは思うんです。

短いサイクルで、
いいかわるいか、成功なのか失敗なのか、
と判断をくだされることが多い……。
また、消費をする側も
そういうサイクルに慣れっこになっていて、
あまりにもはやいサイクルで
刺激を与えられつづけると、
次の刺激も、はやく欲しくなる……。
そういうことで
サイクルがとてもはやくなっているわけです。

そのことによって、
はやいサイクルにこたえることができる
デザインというものが、当然、求められていきます。
そういう傾向というものは、いいもわるいもなくて、
社会の大きな動きとしては
そうなっているのであって、デザインも
確実にそうなっているのではないかと感じます。
デザイナーというのも、
やはり、世の中から生みだされるもの
で、
どの仕事もそうなんでしょうが、
特定の環境から、生まれるものですよね。

たとえば、
戦争をしてしまっているような環境にいるときなら、
やっぱり、すごく深刻になるでしょう。
明日のごはんを食べることに、深刻になるときなら、
そこでは、もっと深刻なメッセージが求められます。

ガムのパッケージで
ペンギンが、手をあげているか、手をあげてないか、
なんていうことは、
とてもじゃないけど言えなくなるし、
そんな遊びが、
その環境では、何も機能しなくなる、
というような職業なのだとは、自覚しているんです。
今、実際に、そういう環境が、
世界中にやまほどあるわけですし。

つまり、
「環境がデザイナーを作っていくもの」なので、
今の若い世代がどうというよりは、
時代の大きな流れが、
若い世代を作っていくとも言えるわけです。

だからこそ、
「短いサイクルで
 モノのよしあしが判断されるのが、
 ほんとにいいか、このままでいいか」

ということは、よく思うんです。

だから、自分としては、
「ひとつの商品を
 非常に長い期間でメンテナンスしていくことは、
 ちゃんとやっていたい」とは思うんです。
十数年たずさわっているものがいくつもありますし、
「はじめの商品設計から、
 まず、チカラのある地面や環境を準備して、
 そこにチカラのある構造体を作って、
 その上で装飾性を兼ねそなえていれば、
 装飾がどんなものであれ、構造体は崩れない」
という仕事を実践してきているので、
そういうことを、世の中に知らしめて、
そのやりかたが、すこしでもプラスになることなら、
利用してもらいたいな、とは思うんです。


あたらしさって、なんだろう?

今は、開発の前に
「地ならしをする時間さえも充分に与えられない」
というような状況が、あちこちにあるようです。

地ならしをするというのは、
環境を把握するということで、
「社会の状況や、メーカーの状況を理解すること」
です。
ところが……メーカーの財産、つまり、
これまで培ってきたことを理解することもないまま
対処しなければならないような
短いサイクルで、仕事が、回転しているわけですね。

そうすると、
「そもそも、長く持つ必要がないもの」
を求められるから、
すぐに、ひとつのものを倒して、
次を建てればいい、と、
作るほうも、作らせるほうも、
受けとるほうも、そのサイクルになる。

たとえば、世の中の通信技術のインフラは
どんどん、あたらしくなっていくわけです。

それに合わせて、当然、
機能も、追いついていかなければならない。
すると、どんどん
デバイスを変えなければならなくなる……
技術も進歩するから、
携帯電話をさらに薄くできたり、
「使いやすくなる」
という売り文句とともに、
次から次にあたらしくなっていって、
その流れは、止まらないわけですよね。

もちろん、技術の進歩は、止まらないと思います。
それで環境がよくなることもあるのだし、
ダメだ、と言いたい気持ちはありません。
ただ、その技術の進歩に合わせて、
デザインが次から次に変わっちゃってもいいのかな、
と思うことはあるんですよね。


(次回に、つづきます)

2006-10-20-FRI

次へ

もどる