佐々木俊尚 × 糸井重里  メディアと私。  ──おもに、震災のあと。


第8回 いくつかのきっかけ。

糸井 佐々木さん自身は、新聞社という
大きくて古いメディアの出身で、
そこから独立されて、いってみれば
情報発信の当事者じゃない状態から、
かなりの当事者になったわけですよね。
佐々木 そうですねぇ。
糸井 その大きなきっかけのひとつが
震災だと思うんですけど、
それ以前にもいくつか曲がり角が
あったんじゃないかと思うんですが。
佐々木 そうですね‥‥まず、大きかったのは、
ブログで批判されるという
洗礼を浴びたことですね。
糸井 あ、そうなんですか。
佐々木 ぼくは2005年くらいにブログをはじめたんですが、
2006年に、わりと名前の知られていたブロガーが
オウム真理教の在家信者だったということがあって、
その人のブログが大炎上したんですね。
でも、その人は、
信者だというのは間違いないけれど、
逮捕されたり起訴されたりしたわけでもなく、
犯罪に荷担してるんじゃないから
べつにいいじゃないかというスタンスでいたら、
ものすごく批判されたわけです。
じゃあ、なぜ彼はオウムに入信し、
社会とどうコミットしていたのか知りたいと思って
インタビューしてそれをブログに掲載したら
また、大炎上した。
それで、当時、ぼくはすごく腹を立てたんです。
というのも、1999年に毎日新聞を辞めて、
アスキーという出版社に2003年までいて、
そこから独立した2年後くらいですから、
自分がメディア側の人間だ
っていう意識がずーっとあったんですね。
だから、自負もプライドもあるし、
それこそ、文体も固いし。
そういうなかで読者だと思っている人たちから
突然批判されるっていうことが、
ものすごくショックだったんですね。
糸井 なるほど。
佐々木 それと、あと、もうひとつ、
それよりは小さな出来事なんですが、
ある雑誌でやった取材も
メディアについて考え直すきっかけになりました。
ある有名な原作をもとにした
ハリウッド映画があって、
その日本語字幕が変だって
原作のファンから批判されたんです。
ま、簡単にいうと、翻訳者は
一般のお客さんを意識して字幕を書いて、
コアなファンはそれを許せなかった。
それで、翻訳者を変えろっていう運動を起こして、
ウェブページをつくって、監督に直訴して‥‥
っていうことが起こったんです。
それをぼくが記事にすることになったので、
ウェブで反対運動をしている人にメールして、
取材させてくださいって言ったら、返事が来て、
「言った言わないの話になっちゃうから、
 対面や電話の取材は不可です。
 メールでのやり取りならOKです」と。
いいですよ、って返したら、
「ただしメールでのやり取りについても、
 一問一答すべて、ウェブの掲示板に
 掲載させていただきます」
って言われたんですね。
糸井 うん。
佐々木 いまだとそんなに
めずらしいことじゃないと思うんですけど、
当時、そんなこと言ってる人は誰もいなくて、
こっちは、取材経過なんて見せないのが
常識だと思ってたから、
それを公表されるなんて、
すごく不快だったわけですよ。
糸井 あー、なるほど。
佐々木 基本的に新聞の記事って、
紙面に載ったものこそが完成品で、
それ以前にどんな取材をして
誰とどうやり取りしたかなんて、
一切出さないものでした。
それをすべて公にしろって言われて、
びっくりしたんですね。
取材が可視化されるっていうことが、
すごく衝撃的だったんです。
つまり、これまでのように、
新聞記事であるという特権を振りかざして、
ブラックボックスのなかで仕事するやる方は
もう、終わっていくだろうなと。
すべてのプロセスが丸裸にされて、
見えるようになる時代なんだなと。
糸井 つまり、最初の炎上の話も、いまの字幕の件も、
送り手と受け手の格差がなくなって、
フラットになったことのとまどいというか。
佐々木 そのとおりです。
だから、新聞記者が書いてたブログって、
ブログブームの初期によく炎上してたんです。
なぜかというと、
やっぱり、読み手を少し下に見ていて、
そこから反論が来ることを
素直に受け入れられなかったんですよ。
糸井 ああー。
佐々木 そういう事件が無数に起きて、
これはもう、いままでのような
メディアから発信する側と
それを受信するだけの関係っていうのは、
なくなったんだと如実に感じました。
‥‥そこからですね。
文体が変わっていき、取材のやり方も変わり、
発信のスタイルそのものも変わっていく。
糸井 その、新しい価値観とスタイルで
取材していこうって思ったとき、
ものすごく負荷がかかったでしょう?
佐々木 そうですよね。
糸井 でも、やろうと思ったんですね。
佐々木 やっぱり、ネットの世界で
信頼を得なきゃいけませんでしたから。
当時のインターネットの世界って、
いまよりもっと小さかったですからね。
そこで炎上ばかりしてるようだと、
ネットをフィールドにしての取材や
執筆なんてできるわけない、と。
糸井 新人のような気持ちで。
佐々木 そうですね。
実際、その世界では新人でしたし、
当時は社会政治問題について、
インターネットで活動して言及する、
プロのジャーナリストなんて
ほとんどいなかったんですよ。
糸井 逆にいうと、そこで勝負するんだっていう
決意はよっぽどのことですよね。
やろうと思えば、もう少しゆるいところで
やれないことはないわけだから。
佐々木 そうですね。
でも、ネットをフィールドにするほうが、
圧倒的におもしろそうだったんです。
糸井 つまり、好奇心。
佐々木 そうですね。
ほかに誰もやってなかったし。
糸井 新聞社に戻るっていう道はなかったんですか。
佐々木 うーん‥‥戻りたくなかったですね。
糸井 ああ、そういうものですか。
佐々木 ええ。
あと、ぼく、新聞社を辞める
きっかけになったのって、病気なんです。
糸井 「病気」。
佐々木 そうなんです。
1998年に、忘れもしない、
小渕恵三さんが総理大臣になって、
7月の終わりかなんかに
自民党本部の9階の大会堂で、
小渕総裁誕生バンザイってやってるときに、
突然、耳が「ピーン」と鳴って
聞こえなくなってしまったんですね。
で、翌日病院に行ってMRIを撮ったら、
ピンポン玉くらいの腫瘍が
頭の中にできてますって言われて。
放っとくとこれが大きくなって、
脳幹を圧迫して体が動かなくなりますって。
それで、1ヵ月ぐらい入院して、
頭開けて、耳の腫瘍を取って‥‥。
だからいまも片耳に聴力がないんですけど。
糸井 はーーー。
佐々木 けっきょく、3ヵ月ぐらい会社休んで、
呆然と日々を過ごし、そのあと、
暇な部署にちょっと移してもらってですね、
半年ぐらいぶらぶらしてたんですけど、
もう、どうしていいかわからない。
いままで、猛烈に忙しい記者をやっていて、
いきなり暇な部署に移って、
自分はこれからどうすればいいんだろうって、
いろいろ悩んだ挙げ句に
けっきょく辞めちゃったんです。
糸井 つまり、生物の進化戦略じゃないけど、
いられなくなった海から陸に上がったんですね。
弱い動物になった途端に、
次の進路が見つかるっていうパターン。
佐々木 そうかもしれない(笑)。
糸井 病気かぁ。
佐々木 病気なんですよ。
糸井 いや、どうも聞いてるとね、
単なる好奇心というだけではなくて、
もっと切実なものがないと、
やる気にならないだろうなと思って。
佐々木 そうですよね。
やっぱり、ずーっと10何年、
ほとんど事件記者でしたから、
いきなりそこから外れると
もう、途方に暮れてしまって。
糸井 はー、なるほどねー。


(つづきます)

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2012-02-01-WED