おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)

彼はこういう。

お酒を買ったらお金を払う。
お酒というモノ。
飲みすぎると誰でも記憶をなくしてしまう。
危険な水。
記憶をなくしてお金も払わず、
そのままお店を出てしまったら。
君は記憶だけじゃなく、
自負心というとても大切なものまでなくしてしまうだろう。
記憶をなくしても、心とプライドをなくさぬために、
飲む前にその分のお金を払っておかなくちゃいけないんだ。
それが大人というモノなんだよ。
‥‥、と。

なるほど。
ボクはズボンのポケットから
マネークリップでたばねた紙幣をクシャッと出した。
このカクテルが一体、いくらなのかわからずに、
それで一ドル紙幣を何枚か。
より分けるようにしながら、
いくらですか? と聞こうとした。

すかさず一言がボクに向かって、飛びます。

目の前の酒を、夢のある飲み物としてたのしみたいのかな?
それとも、3ドル50セントの飲み物として、
腹の中に流し込みたいのか、
君はどちらのためにココにいるんだい?

なるほど値段は聞くな、ということでありましょう。
確かに、値段を知らずにおきたいモノの代表が
お酒であろう‥‥、と思います。
酒を値段で飲む人もいる。
酒を値段でしか判断できないから、
そんな哀しいことをしてしまうのだろう、とそう思い、
ならば値段を知らずに飲むということ。
それもシアワセ。
なにより、値段を聞かずとも
程よき値段で満足させてくれるような店を
知っているということ。
これほどステキなことはあるまい、と思います。
そうしてここ。
隣の友人の確固たる姿勢をみるなら、
そう信用するに足りる店であろう、ということですな。

どうすればよい?
ボクのお札を握り締める手は、動きを止めます。
どうすればよい?

彼はボクの手の中の小さな札束の中から
10ドル紙幣を一枚とりだし、
それをカウンターの上に置く。
ボクの目の前。
バーテンダーの手に届く位置に、そっと一枚。
お札をおいた。

さあ、準備完了。
乾杯の栄誉に預かってもよろしいでしょうかな‥‥、
小さな友人。

そう促されて、二人はおのおののグラスを掲げて、
小さく会釈。
初めて飲んだ、ブランデーアレクサンダーは
思った以上に甘くてトロン。
まるでデザートのような味わいだった。

ボクがそのカクテルに満足したことを確かめるようにして、
リッコはその10ドルをそっととります。
レジに行き、それからお釣りを持ってくる。
ボクがそのお釣りをもらおうと、
手を伸ばそうとすると咳払い。
彼は小さく手を伸ばして、ある方向を指差します。
指の方向には、1ドル札が何枚かと、
それを押さえるようにコインが数個。
重石のようにして置かれてた。

お前もこのようにしろ‥‥、というコトでありましょう。
なんでだろう?
と思いつつも、いわれたとおりにお釣りを
そのままカウンターに置く。
で、何気なく20人ほど座れる長いカウンターを
端から端まで眺めてみると、
お客様の前には必ず何枚かのお札とコイン。
そして灰皿。
当時のニューヨークのバーといえば、
紫煙たなびく喫煙天国でまだあったのでありますね。

隣の紳士。
手にしたグラスをひときわ、
ググっと傾けて、飲み干します。
そして一言。
リッコ。
マンハッタンで一番おいしい
マンハッタンを作っておくれよ。

おじさん、少々、ご機嫌なようであります。
マイフェアボーイなるミュージカルがあったとしたらば、
彼の役どころは確実にヒギンス博士であって、
まあ、ボクはていよき酒の肴であった‥‥、
というコトでしょう。

グラスが来ます。
彼の手がグラスをそっと持ち上げて、
鼻を近づけ香りをかぐ。
そしてススッとひと啜り。

小さな紳士君。
2杯目はぜひ、このマンハッタンにすることをお勧めするね。
でないと、君は一生、後悔するだろうから。
と、目を細めながらそういって、彼はグッと飲む。
リッコはそこにある彼のお釣りの中から、
1ドル紙幣を3枚と25セント硬貨を1枚とって、
そしてそれをレジにしまう。

なるほど、2杯目からはここにおかれたお釣りの中から、
バーテンダーがお代をとっていってくれるんだ。
面倒がない。
しかもまるでこの席を、借り上げたようなそんな贅沢。
親密を感じられる。
おもしろい。

ボクは急いで甘ったるくてしょうがない
ブランデーアレクサンダーを片付けて、
マンハッタンというマンハッタンをたのんでのんだ。
ひとすすりして、あまりの辛さと
ガツンとくるアルコール分に、おおっ‥‥、と思い、
ボクの目の前のお札の山から、
そっとお札が消えてなくなる。
まるでお酒の魔法のような、
そのたのしさにボクはウットリ。
思わず、隣でボクにバーの
さまざまを教えてくれた新たな友人のことを
すっかり忘れて、ひとり、ウットリ、お酒を飲んだ。

時差ボケもあり、しかも強いお酒の魔力も手伝って、
意識が気持ちの良いどこか遠くに行ってしまいそうになる。
ああ、どうしよう。
と、そんな夢と現をさまようボクの、
耳にガツンと音がする。
何かでカンカン、木の床を勢い良く叩くような音‥‥、
でした。

 
2007-07-19-THU