おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)
ほぼ準備万端整ったグレープフルーツ。
それを前にして、ボクをみつめてニコッとします。

そうして‥‥。

シェフは残り上半分の実を手に取り、
ボールに盛った下半分にかざします。
そしてギュッと軽く搾った。
明るい黄色の物体は、
ジュワッとジュースをほとばしらせる。
下にはお客様に提供されるであろう
グレープフルーツの断面があり、
そこにタップリ吸わせるようにサッと搾って、
これがほんとの出来上がり。

あまり強く搾りますと、
苦味が混じってしまいますので、ほどほどに‥‥。

と、そういいながら、
ボクの方にお皿をそっと差し出した。

なるほど、ハーフカットのグレープフルーツは、
半分に切ったグレープフルーツ一個分であって、
グレープフルーツ半個分ではなかった‥‥、
ということなのです。
感心をした。

なぜ、ボクがここで食べるグレープフルーツが
驚くほどにみずみずしいのか?
なぜ、ここのグレープフルーツは苦味が少なく、
甘味が際立つ味なのか?
そして、なぜ、グラス一杯分の
フレッシュグレープフルーツジュースより、
ハーフカットグレープフルーツの方が高いのか?

そのすべての疑問の答えを一瞬にして手に入れた。
まさに魔法のような出来事だったのでありました。


果たして世界のさまざまな場所で、
グレープフルーツのハーフカットが
このような手間をかけて提供されているか?
というと、決してそうではないのでしょう。
たとえばアメリカ。
熟した果実を当たり前に半分に切る。
ただそれだけで、
まな板に果汁があふれ出さんがばかりの
グレープフルーツが当たり前であって、
こんな工夫などしなくてすむのが普通でしょう。
理想的な素材が手に入れづらかったからの知恵。
いつも同じ水準の素材を
手に入れることが難しかったからの工夫。
それをボクらは調理とよぶようになったのだろうなぁ、
と思ったりもする。

わたしたちは上等な店において、
知らず知らずに用意周到を食べている。
ということを、そのとき、ボクは教わりました。

食べやすいこと。
味わいやすくできあがっていること。
しかも、ある素材のおいしいとこだけを丁寧に、
えらんで食べさせてくれること。
それこそが贅沢。
稀少で高価な食材を使いさえすれば
贅沢な料理ができるのではない。
稀少で高価な食材にふさわしいだけの、
丁寧と用意周到な手作業こそが、
その稀少で高価に恥ずかしくない
堂々とした料理をつくる。
その食材が、稀少や高価なものでなく、
普通のどこにでもある素材であっても、
用意周到な調理をすれば、それは上等な料理となる。
ということもでもあろうかなぁ‥‥、
と思ったのでありました。


その気になればいろんなところに
こうした用意周到が待っています。

たとえば、さざえのつぼ焼き。
身をあらかじめ殻からはずして、
一口大に切り分けて、それから再び殻に戻すという丁寧。
しかも、わざわざそうした手間をかけて、
西洋料理ならその手間をこれ見よがしに誇るため、
手間に応じた特別な器に移して提供するのが普通でしょう。
でも日本の料理。
手間をかけたことを、まるで恥じるように器に盛らず、
自然な姿にもどして供する。
ああ、日本の人のすばらしいこと。

たとえば、京都を代表する朝粥がおいしいので有名な店。
その朝の定食に必ずついてくる魚の煮付け。
身を丁寧に骨からはずし、
食べやすいようにしてくれている。
朝。
寝ぼけ眼で魚を食べて、
骨を喉に刺してしまうような面倒がないように‥‥、
という思いやり。

食べやすいよう。
おいしいように、姿かたちを整えるという調理の形。
それをみるにつけ、食べる人の立場にたって
考えることのすばらしさに、にっこりとする。
感謝であります。
すばらしい。

そしてなにより、言葉がもっている本当の意味。
ハーフカットのグレープフルーツは、
グレープフルーツ半分だけという意味ではないんだよ、
というコトを知るということ。
その大切さを教わる出来事でありました。

さて、ならば。
ボトルキープ、っていったい、どういうことなのでしょう。
ちょっと考えてみましょうか。
 
2007-06-21-THU