おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(三冊目のノート)

大食い。
官能的で、
ある部分、不思議な達成感すらともなう甘美な習慣です。
特に、なにをどれほどたくさん食べても、
それが直接的に病気の原因になりはしない、
若い頃の大食いという習慣。
とても楽しいものであります。

もともと食べることに対する好奇心が
旺盛なところにもってきて、
アメリカで生活していたしばらくの間に、
ボクの胃袋はすっかり、
見知らぬ星から飛んできた未確認素材で出来た
伸縮自在の袋‥‥、のようになっていました。
ブラックボックス。
自分でも、この体の中のどこに
あれだけのモノが収まってしまったのだろう、
とあきれ果てるくらいの大食い小僧。
日本に帰ってくると、
どうにもこうにも一人前の分量が頼りなくて、
心もとなくて、注文はまず二人前から、
が基本になってしまった、‥‥のです。
ボクが20才代、後半のことでありました。



◆二人前のステーキを頼んでしまった大食漢のボク。


6月の終わりのとても蒸し暑い日。
梅雨のジメジメと、
夏のはじまり特有の頭の上を熱い空気が渦巻くような
暑苦しさが混じりあったうっとうしい一日で、
その憂鬱をおいしいモノでもたべて紛らそうヨ、
と友人たちと連れ立ってレストランに行きました。
大食いもうなる豪快な料理、で話題の店で、
ウキウキソワソワ。
さあ、今日は満足させていただきますぞ‥‥、
とメニューをながめ、
前菜にスープにサラダにメインディッシュを
それぞれしっかり人数分。
ついでに、ボクがたのんだステーキは
二人前になりますか‥‥? と、聞いてみた。

一人前でも十分にタップリとした分量ですが、
お好みとあらばお肉を分厚く切って
お出しも出来ます。

そうウェイターが笑顔で言う。
そりゃいいねぇ。
肉はやっぱり分厚く切ってジックリ焼かなきゃ、
本当のおいしさなんてわからない。
‥‥、なんていいつつ、お願いしますと注文をして、
ついでに焼き野菜の盛り合わせもいただきましょう。
なにしろアメリカ仕込の大食漢でありますから。
相当なボリュームになりますが、
それでもよろしゅうございますか?
と、念を押されはしたのだけれど、
いやいや、全然、大丈夫。
もし多すぎたなら持って帰ればいいんだから‥‥、
と口に出していいはしなかったけれど、
内心、そう思って注文しました。

食事がスタート。
それぞれの料理はなかなかタップリとしたボリュームで、
大喰らいたちの晩餐は
ごきげんに進んでいったのでありました。
が‥‥。
運ばれてきたメインディッシュのステーキをみて、
ボクは一瞬、気が遠くなりそうになったのでありました。

大柄な男性ウエイターが
両手で持たなくてはいけないほど大振りのお皿を、
覆いつくさんばかりの肉の塊。
人差し指の長さほどの厚さがあって、
厨房からボクたちのテーブルまで運ばれる間、
すれ違うすべてのテーブルのお客様がみんな、
唖然とした表情でそれを眺める。
一緒にテーブルを囲んでいる友人までが、
「どこのバカがあんなモノたのんだんだ?」
と言い出す始末。
ああ、やっちゃった‥‥、と思いました。

格闘です。
ナイフを右手にフォークを添えて、
必死に肉を切り出して行く。
そのおどろくべきサイズは別として、
その焼き加減は見事でした。
表面はカリカリ、なのに中は見事に真っ赤で、
外側の香ばしい飴色からロゼ色を経て
肉本来の赤色にいたるまでの、美しいグラデーション。
くらくらしてしまうほど。

シェフもすばらしく焼かせていただいて感謝します、
と申しておりました。

そう言われて、
ボクも本当に幸せな気分にはなったのだけれど、
逆に食べ切れなかったどうしよう、
というプレッシャーにもなりました。
それにしてもおいしかった。
牛肉を焼くとはかくあるべし‥‥、
と納得できるほどのおいしさで、
顎から舌から奥歯から喉にいたる、
ありとあらゆる食べることに関係する器官を
総動員してでも味わいつくせないほどの美味、でした。



◆食べ切れない! そんなときはドギーバッグだ!


が‥‥。
半分ほど食べたところで、後悔です。
あまりの量に体が
まったく受け付けなくなってしまったのです。
仲間にも手伝ってもらって
ちょっとでもお皿の上から片付けよう、
とするのだけれど到底無理で、
そこでドギーバッグを作ってもらおう、と思ったのです。

「これ、残った分をお持ち帰りには出来ないですか?」
何気なくボクはそういいました。
「少々、お待ちください。シェフに聞いてまいります」
明らかな困惑顔で、ウエイター氏は厨房の中に消えてゆく。

しばらくして戻ってきた彼はこう言います。
「申し訳ございませんが、
 お持ち帰りになることは
 ご遠慮いただきたいのですが‥‥」
ええっ‥‥、お持ち帰りの容器の準備もないの?
日本のレストランは親切じゃないよネ‥‥、
なぞといささか恥ずかしい
アメリカかぶれな一言とともに
とんがり口の不満顔になっちゃったボクをみて、
彼は再び厨房の中に駆け込んだ。

あのステーキハウスと
ほとんどまったく同じシチュエーションで、
出てきた答えは正反対。
ボクはいささか憮然として、
ふんぞり返って次の答えを待ちました。

そうしてしばらく、
どうなりますか? の緊張のあと、
厨房の中からシェフが出てきて、
お辞儀をしながらこういいました。

どうしてもこれをお持ち帰りになりたい、
とおっしゃるのであれば、
そのご用意は出来るのですが、
今日のこの天気を考えますと、
火を再びしっかり通さなくては
ならなくなってしまいます。
せっかくこれほど美しく焼けたお肉を
台無しにしてしまうのは、
あまりに忍びないのですが、いかがいたしましょう?

(つづきます)


Illustration:Poh-Wang


2006-06-15-THU

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