おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(三冊目のノート)

今日はサカキシンイチロウ少年の数年後、
青年の入り口の頃のハナシであります。

年の頃にして17歳。
季節は冬。
つまり、大学受験の冬のこと。

当時、ボクらは東京から
かなり遠い郊外住宅地に住んでいました。
田舎からその町に出てきて1年少々。
東京都心の受験会場に行くのに
2時間ほどの時間がかかる‥‥、そんな郊外ですネ。
東京近郊に住んでいる人にとって、
この程度の移動時間は当たり前の通学時間、
というコトになるのでしょうが、
田舎暮らしが長かったボクらにとって、
2時間という移動時間は、移動じゃなくて旅行です。
もしものことがあったらどうしよう。
そんな気持ちで、受験日の前の日、
受験会場の近くのホテルで準備しよう‥‥、
ということになりました。
父がひいきにしていたホテル。
つまり、ボクがフレンチレストランデビューを
めでたく果たした店を
メインダイニングとするホテルに一部屋、予約。
贅沢この上ないことでありますが、
ああ、大切に考えてもらってありがたいなぁ。
でも一人で朝、起きられるかなぁ‥‥、
とボソッといった。ら‥‥。
母がそれを聞き逃しもせず
「あら、私が一緒に泊まってあげるわヨ」。
すると親父が「いや、オレが一緒に泊まった方が、
シンイチロウも気兼ねしなくていいだろう‥‥、
男同士なんだから」。
いや、女の私の方が機転がきくから。
いやいや、何かあったら男の方が力がでるから。
‥‥、とワケのわからぬ言い争い。
「ねぇ、結局、ホテルにお泊りしたい
 だけなんじゃないの‥‥?」
と、妹にたしなめられるように言われる始末。
ご機嫌で脳天気な一家であります。

結局、手短なる家族会議の末、
ボクと一緒に泊まることになったのは父親で、
それが決まると早速に親父がしたコト。
これがあきれたことに、
ホテルのレストランに電話をかけて
二人分のテーブルを予約することでありました。
「一大事の前には、旨いものを食って、
 元気をつけなくちゃ負けてしまうからな」
とは、なんと息子思いのコトでござりましょうや。
内心、ボクも、めったに泊まれぬ
東京のホテルというところに泊まることが出来る、
というワクワクに、受験日は来てほしくはないけれど、
受験日の前日は早く来ないか‥‥、
となんだかその日が待ち遠しく思う。
まあ、お調子者のサカキシンイチロウ‥‥、
というところですネ。



◆チェリージュブリー? それいただきます!


そうして当日。
ホテルで最後の準備をしよう、
と参考書をかばんに詰めて、
父と一緒にホテルに向かう。
案内された部屋の、窓辺の大きなデスクに
持ってきた教材をズラリと並べて、
さて、これから受験準備の総仕上げ‥‥、
と勉強をしようとしたその瞬間。
「おい、まずは腹ごしらえだ‥‥」
と、父の掛け声とともにおなかがグーッ。
腹は減っては戦は出来ぬ、
とあらかじめ予約しておいたレストランに
二人で行きました。

英国風のローストビーフの専門店でした。
すばらしい料理とすばらしいサービス。
旨いものを食べると、不安な気持ちが消えてなくなり、
不思議な満足感と闘争心が一緒に
体の中を満たしてくれるような気持ちになるんですネ。
よし、がんばるぞ‥‥、と思うボクに、
デザートはいかがされますか? とウェイターが言う。
アイスクリームでもいただきましょうか?
と言うボクたちに、彼はこんなサジェスチョンをしました。

「でしたら、チェリージュブリーでも
 おつくりしましょうか?」

それはどんなの? と聞いてみると、
ダークチェリーをチェリーブランデーと一緒に
フランベしたモノを、アイスクリームにかけたものです。
ワタクシがお客様の目の前でおつくりしましょう‥‥、
いかがでしょう?

フランベ。
ボクは「グラハム・カーの世界の料理ショー」の
大ファンで、その中で彼がひときわ鼻高々な
派手なアクションでする「フランベ」という
あの作業を、一目見たくて仕方なかった。
それで小さく「ボク、それを食べたいなぁ」‥‥と。
父もたぶん、同じような気持ちじゃなかったんでしょうか?
‥‥、じゃあ、フランベしていただこうか‥‥と。

それはすばらしい手際でした。
磨き上げられた銅製の浅いフライパンに
大粒のダークチェリーがコロコロ、何粒も用意され、
それにチェリージュースを加えながらフツフツ、
沸騰させてゆく。
煮込みながら煮詰めつつ、
チェリーの表面がしんなり柔らかになるくらいの頃合で、
ブランデーがジャバッと注がれるんですね。
そうして長いマッチに火を点し、鍋の上に近づけた途端に、
その火がフライパンの上に燃え移り、
ユラユラ、オレンジ色の炎が陽炎のように揺れて行く。
おおっ、フランベ。
これがフランベ‥‥、満悦至極。
まだ火に包まれたままのさくらんぼのシロップ煮を、
バニラアイスクリームの上にトロトロかけて、
それをスプーンですくって食べる。

おいしかった。
甘酸っぱいダークチェリーのシロップ煮の味の片隅に、
ピリッピリッと鋭く舌を刺すようなアルコールの鮮やかな味。
熱々のさくらんぼで焼かれた舌を、
即座に冷ますアイスクリームのやさしい冷たさ。
大人のデザートだぁ‥‥、
と今日、このホテルに泊めてもらった
本当の目的をすっかり忘れ、
ただただ世界の料理ショーの一番最後に
試食で呼び出された幸運な人の気分になって、舌鼓。
大満足。



◆あらららら、目の前がグルグルと‥‥


で、食事を終えて部屋に戻ってさて勉強を始めようか、
と思ってデスクに向かいはした。
‥‥、のですが顔がポッポと熱くなり、
体がなんともダルく感じる。
頭がグルグルし始めて、
最後は目を開けていられる状態でさえなくなったのです。
つまり、酔っ払ってしまったワケです。
たまらずベッドに横になって、
気が付いたらばもう受験日当日の朝だった。
それも父に起こされるまで気づかぬほどの熟睡で、
「お前は大した度胸の持ち主だな。
 受験日前にあれだけ熟睡できる奴はそうはいないぞ」
‥‥、とお褒めの言葉をもらうほど。
あきらめるしかなかったですネ。
もう自分の実力を信じるしかない、
というような前向きなる居直りで試験にのぞみ、
結果はめでたく合格でした。

合格したから白状するけど‥‥、
と父とボクは母にこの日の出来事を告白して、
あんたたちは本当にバカ者よね、
とこっぴどくしかられたりした、ちょっとした失敗。



◆ちゃんと伝えられていたらよかったのに!


お客様としての自分を正しく伝えることを怠ると、
とんでもないことが起こってしまう‥‥、というコトです。
高校生なのに人一倍、体がデカくて
しかも態度が堂々としたオトコの子をみて、
お店の人は張り切っちゃったんでしょう。
別にボクを酔っ払わせようとしたワケじゃなく、
ちょっとしたサービス精神。
それが、小さな親切、大きなお世話になっちゃった。

お店の人がボクらのために豪勢にブランデーを注ぐ前に、
すいません、でもボクは明日、
大切な試験を控えてるんです‥‥、
とそう言うことが出来たなら、
たぶん、ちょっと控え目な
フランベにしてくれたに違いない。
それでも十分、ボクらは幸せになれたでしょうし、
その一晩を寝て無駄にするコトも無かったのでしょう。

お店の人に伝えたいコト‥‥、
自分の好き嫌い、あるいは食べたいモノだけではありません。

例えば、今日はおなかの具合がよくありません。
そういえば、軽やかでおなかにやさしい料理を
作ってくれるでしょう。
最近ちょっと元気がないんですヨ。
ここで元気になりにきました‥‥、なんて言ったなら、
それこそ勇気がみなぎるようなお料理と
飛び切り元気な笑顔でおもてなしをしてくれるに違いない。

お料理で人を幸せにするのが
レストランの仕事なのでありますから。

(つづきます)


Illustration:Poh-Wang


2006-06-01-THU

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