おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(三冊目のノート)

シンイチロウ少年が少年から青年に変身する寸前、
日本中で流行ったのものに
ステーキレストランというのがありました。

ステーキ、といえば当時はもう憧れのお料理で、
来週の金曜日はステーキを食べに行く、
と決まるとその一週間はワクワクドキドキ。
明日はその日、という前の晩、
ベッドに入って目を閉じると
目の前にお皿に乗った分厚い肉の塊りが
ポワンと浮かんで見える、ほどに盛り上がる、
楽しみに満ちた食べ物でした。
今でもステーキと言えばご馳走かもしれないけれど、
当時のそれは別格。
なにしろ「大人だけが楽しむことが出来る贅沢」
だったのですから。
まだ子供椅子が必要な妹たちはおうちで留守番、
が当たり前でしたから。



◆田舎町のステーキレストランで。


薄暗い照明。
真っ白なテーブルクロスの上にロウソクのほのかな灯り。
分厚いじゅうたん。
手に吸い付くような銀色のナイフフォークがずらっと並ぶ、
不思議の景色。
その特別で不思議な景色の中でも最もひときわ、
特徴的な景色がありました。
それが「ブース席」。
大きなテーブルをぐるりと
固定式の椅子が取り囲んでいる、あのブース席。
ボクが生まれてはじめてみたのは小学校の5年生。
街一番のステーキレストランが改装をして、
連れて行かれて遭遇をしたのです。
ボクはそのとき、身長155センチで
体重80キロになろうかという肥満児でした。

「奥様は魔女」のような
アメリカのテレビドラマでしか見たことがなかった
そのテーブルは、子供心にも色っぽくて大人っぽくって、
あそこにボクが座るんだ‥‥、と思うとワクワクしました。
まるで今、自分が立っているのは
日本の田舎町のレストランじゃなく、
アメリカの都会のお店じゃないかと思うくらいに
ワクワクとしました。
黒服の背のしゃんと伸びた給仕係のおじさんが
テーブルをさっと引いて、
人一人が悠々と入れるだけの通路を
テーブルと椅子の間に作ってくれる。
どうぞ、と彼に促され、ボクはブースの正面奥に陣取った。
ボクの右側には親父が、そして左側にはお袋が、
目の前にはそのお店の大きすぎない程度に
親密な空間がバン!
つまり一等席にボクは座らせてもらった、というわけです。

田舎町の新装オープンのレストラン、というのは
まるで小さな社交場のようになります。
親父は親友の顔をちょっと離れたテーブルに見つけて、
挨拶がてらに席を立つ。
母のかたわらには取引先の人が近づいて、話を始める。
たちまちボクは手持ち無沙汰。
退屈を紛らそうとテーブルクロスの
しわの本数を数えながら足をブラブラさせていたら、
なんと靴がスポンと脱げました。
脱げた靴、ポトンとその場に落ちてくれれば
良かったのだけど、ブラブラ揺れるブランコ効果で
驚くほどに遠くに飛んだのです。



◆靴を探さなくちゃ!


靴は、ボクらのテーブルを覆い囲んだ
テーブルクロスを潜り抜け、勢いあまって
テーブルの向こうにゴロンと転がります。
ビックリしました。
唖然、呆然、クチ、アングリ。
誰かに見られてはいないかと、
周りの大人を見るのだけれど、
幸い、みんなおしゃべりに夢中で気がついてない。
なんとかしなくちゃと思うのだけど、
足を伸ばして届くような場所に靴は無く、
それでボクはそろりそろりと体を動かし、
手を伸ばしてその靴を取ろうともがいた。
デブです。
おなかがテーブルにつかえます。
思ったように体は動かず、
それでも靴に向かって必死に手を伸ばそうとして、
気づけばおなかがテーブルクロスを引きずっていた。
ボクのおなかが引きずっていたものが
テーブルクロスだけなら
問題でもなんでもなかったのだけれど、
クロスの上に乗っかっていたありとあらゆるものも、
当然、ボクのおなか目掛けてにじり寄ってくる。
ああ、危ない、と思うのだけど、ボクの体は止まらない。
ズルズルズルズル。
とうとうフォークが一本、床の上にガチャンと落ちた。
木の床とフォークが熱烈にして
激しいキスをする音に気づいた母が、
反射的に片手でバンっとクロスを押さえ、
クロスは止まりました。
ボクは情けなく宙ぶらりんな状態で、
片手に靴、片手にクロスの端を握って震えてた。

そのときの母の鬼のような形相‥‥、
忘れることができません。
サービス係の人が飛んできて、
クロスを元に戻して皺をとり、
ナイフフォークを元の位置にキチンと並べ直して、
まるで何事もなかったかのような顔でニコッとする。
ホールを埋める他のお客様も、
何も見なかったかのように振舞っている。
ボクはおずおずブースの奥に座りなおして、
「ごめんなさい」って小さくポツリ。
席に戻った親父は大きな声で笑いながらこういった。
「おかあさんは凄いなぁ‥‥。
 バンッ!さすが卓球の国体選手だな。」
茶化すようにそう言う父を無視するように、母はこう言う。
「シンイチロウ、何でも一人で
 しようとするのはやめなさい。
 あなたが一人でやれることなんて
 たかが知れてるんですからネ。
 あなた一人で出来ないことを、
 手伝ってくれるために
 レストランにはいろんな人が働いているんですから。」

レッスンです。
レストランのテーブルから立ち上がるとき、
決して一人で立ち上がろうとしないこと。
あなたの周りのすべての人の了承と、協力の下に
「立ち上がらせてもらう」ということを心がけましょう、
ということです。
そもそも実はレストランのテーブルに一旦着席したら、
よほどのことがない限り立ち上っちゃ駄目。
だってレストランで中座する、と言うコトは
そのテーブルを囲んだ素敵な仲間との
楽しい会話を放棄する、と言うコトですから。
にもかかわらずどうしても席を立たなきゃならないとき、
そのときはちょっと一言、添えましょう。
「すいません、中座させていただきます。」
それからお店の人に目配せして、立ち上がりたい旨を
そっと伝えて椅子やテーブルをひいてもらう。
この手順をふみさえすれば、誰も不快に思うことはない。
この手順をふみさえすれば、
クロスと格闘するようなリスクを
なくすことも出来るでしょう。


◆紳士と接客係の秘密の合図。


ボクが親しくしていただいていた
非常にエレガントな紳士の思い出話をして、
今日の話の終わりにしましょう。
彼は非常なご高齢で、にもかかわらず
とても精力的に仕事をする人で、
食事の最中もしばしば「お電話が入っております」と、
呼び出されることが多かった。
携帯電話のない時代でしたから。
彼を知る共通の友人の印象は、忙しい人、‥‥でした。

ところが彼が愛した幾つかのレストランの、
中でも一番頻繁に利用していた店の支配人と
思い出話をしていたら、意外な事実を知ることになる。
実は彼、体を壊され頻尿を患っていたという。
だから食事の最中に何度も席を立たなくちゃならなくて、
そんな彼とお店のスタッフの間には
あるルールがあった、というのです。
右の眉毛をそっと撫でて、その手で顎をサラッと触ると
トイレに行きたい、という合図だった、というんですね。
その仕草を見つけたスタッフは
素早く彼の耳元に飛んでゆき、
「お電話が‥‥」とささやく。
彼は、失礼といいながらおもむろに立ち上がり、
電話を受けに行くふりをしてトイレに入る。
紳士然とした立派な老人と、
かしこまった表情でホールの片隅に陣取る
給仕係りの間で、
まるで草野球のブロックサインの応酬のような
やりとりが行われていたなんて、
ボクはその楽しい舞台裏に驚きました。

なんと言う洗練。
なんと言う気配り。
同じテーブルを囲むすべての人を不快にさせない、
こうした工夫こそが素敵な大人の食事の作法であろう、
と合点がいきました。
あのお爺様が紳士に見えた最大の理由。
それは「シアワセな企みの愉快な共犯者」の重要性を
誰よりも知って、それを大切にしたから、
というコトになるんでしょう。

さてさて靴。
少年、サカキシンイチロウは
その靴でまた別のとんでもない失敗を
しでかしたことがあるのです。

(次回につづきます)



2005-09-15-THU

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