おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。




ホテルのメインダイニング、
あるいは洋食レストランでの朝食の楽しみ、
といえばおいしいパン。
焼きたてのトースト。
出来立てのクロワッサン。
甘やかな香りを立てて色とりどりに
バスケットを飾るペストリー。
普段、朝はやっぱり炊き立てご飯じゃなくちゃね、
という人でもホテルが用意してくれる
「焼きたてのパン」の魅力には
なかなか抵抗できないのじゃないか、と思います。
何しろ、ホテルで一番最初に目を覚ますのは、
多分、パンを作るキッチン、であろうと言われますしネ。

しかしながらこの「パン」を
上手にいただくということは
非常に悩ましい行為である。
いささかの罪悪感を禁じえないことが起こってしまう。
いやいや、起こってしまうのではなくて、
私達自身が起こしてしまう。
なんでしょう? それは。

完璧なホテルの朝食の景色に
1点の曇りがあるとするならば。

ホテルのメインダイニングおける完璧なる景色、
というものをまずイメージしてみましょう。
なくてはならないものがいくつかあります。
そこにはまずピカピカに磨き上げられ、
オレンジジュースを待っている
足高のゴブレットがなくてはならない。
朝の光をはねかえして、
ピカピカに輝く磨き上げられた
ナイフフォークが並んでいなくてはならないし、
その横には真っ白なお皿が置かれてなくちゃいけない。
香りの控えめな花が一輪、飾ってあればなおさら良いし、
ジャムやマーマレードの小さなボトルが
いくつか置かれてあればほぼ完璧に近くなる。
そして、それらすべてのものが
真っ白なテーブルクロスの上に乗っている。
チリ一つ無く、シワ一つ無く、
まぶしいくらいに真っ白なテーブルクロス。
これが素晴らしい朝食が始まる瞬間の光景です。

ジュースが注がれコーヒーが運ばれ、
注文を滞りなく済ませるとパンが運ばれ、
ボナペティ、ということになる。
パンを手に取り、ザクッとちぎる。
とその瞬間に、完璧な朝食の景色が台無しになる。
テーブルクロスの上にパン屑が散る。
どんなに注意してもそのパン屑は盛大で、
ワタシってこんなにお行儀悪く
食事する人だったんだろうか? と、
心配になるほどそこが散らかる。
ちょうど左手首を中心に半径10センチほどの場所が、
まるで子供が何かを食べ散らかしたかのように
なってしまうんです。

朝食は、ホテル滞在の最後のイベント。
だからサービス係も、気が抜けないんです。

パン屑が散らかる。
それはランチでもディナーでも、
パンが手元にあるときには
必ずおこる出来事なのだけれど、
中でも朝ご飯のかたわらにあるパン。
曲者です。
トースト、ブリオッシュ、デニッシュペストリー‥‥、
これらはまるでパン屑を出すのが仕事のように
欠片をこぼす。
クロワッサンにいたっては、
そもそも構造そのものが崩れるためにあるようなもの。
散らかるのはテーブルクロスの上ばかりじゃなく、
膝の上のナプキンまでが明るい茶色のブチ模様になる。
バゲットではここまで散らかるということはない。

その屑は、どうすればいいのでしょう?
ホテルを楽しむ、ということは
一連のサービスの流れを楽しむ、
ということに他ありません。
レストランを楽しむことも、
同じようにサービスの流れを楽しむことであるのですが、
レストランの流れは精々2時間。
ホテルはほとんど丸一日という時間の中で
サービスのあれこれを楽しむという点で、
究極のレストランである、
ということができるかもしれません。
それらのサービスの流れの中で、
終わりはいつか? というと、
たいていの場合、それは朝食。
お客様である私達にとって一日をはじめる朝食が、
ホテルにとってはサービスの終わりである、ということ。
ちょっと不思議ですよね。
終わりよければすべてよし。
最後の印象次第で、
その滞在の良し悪しまで決まってしまうかもしれない、
だからお客様に喜んでもらおう、と一生懸命になります。

ところでお客様に喜んでいただく一番イイ方法は何か?
それは「お客様が嫌がること、面倒だと思うことを
代わりにやって差し上げること」。
例えば、本当だったら自分で作らないと
いけない料理を作ってあげる。
これがレストランの存在意義であるように、
お客様がしたがらないことをして差し上げる。
例えば「散らかったテーブルを、
嫌な顔一つしないで片付けて差し上げること」。
これもお客様を喜ばせる、とてもよいこと。
そう思って、お店の人は
あなたのテーブルの上を眺めているのです。

パンくずでちらかったテーブルを
じょうずにフォローする一言は?

テーブルクロスの上に
パン屑一つ落としもしないクロワッサンを
もしサーブしたとしたら。
哀しいことです。
テーブルクロスの上が、
見事なほどにパン屑で散らかっているということは、
それほど今日のパンの出来が良かったということと、
それほどお客様が無心にパンを
楽しんでくれたコトに違いなく、
そうしたテーブルを片付けることは無上の喜び。
つまり、散らかす、あるいはテーブルの上を汚す、
という感謝の仕方があるということ。
ただ食事が終わったころあいを見計らって、
「他にご注文はございませんか?」
と近づいてくるウェイトレスさんに、
ちょっと一言、言っておくとステキかもしれない。

「ごめんなさい、散らかして。
 あまりにおいしかったものだから、
 無我夢中で食べちゃいました」

彼女の笑顔はその日、一日のスタートを
輝かしいものにしてくれるほど
素晴らしいものになるに違いない。

きんきんに冷えて固まったバター。
‥‥それは、よろしくない、ですネ。

ところで最後に、
テーブルを汚すパン屑の中で一番厄介で、
できれば無い方がいいだろうなぁ?
というものが、バターを塗るときに、
スプレッドナイフがガリガリ削り取ってしまう
トーストの屑。
あれは厄介。
厄介である以上に、トーストの一番おいしい部分、
つまりキツネ色に焦げて香ばしくサクサクになった
パンの表面を、わざわざこそげ落としてしまう、
というとても勿体無い行為でもある。
なんとかならないのでしょうか?

実は良いホテルの良いレストランでトーストを頼むと、
それに添えられるバターは
必ず室温で柔らかくなったものである、のです。
スプレッドナイフをバターの塊の表面に置いた瞬間、
グスッと自重で皿まで落ちて
あっけないくらい簡単に掬い取れる。
そうしたバターが提供される。
柔らかいバター、というおもてなし。
トーストと一緒にやってくるバターが
カチカチであったり、
わざわざ氷の上で縮こまっているような店は
信用できません。
柔らかいバターなら、
ガリガリせずともトースト一面に行き渡る。
格好はよくても凍っていたり、
型に抜かれて固まっていたりするバターでは、
本当のトーストを堪能することは出来ないし、
不必要な屑が出る。
そうしたバターを目の前にしたら、
迷わずこういいましょう。
「すいません、ワタシのトーストのために、
 バターをちょっと温めて
 柔らかくしていただけません?」

柔らかくなったバターは使い残しても二度と再び、
使われることはない。
とても贅沢な存在。
でもささやかではあるけれど、
さりげない贅沢にこだわる生活とは、
とてもシアワセなものであります。
朝の贅沢。
かけがえのないものであると思います。

illustration = ポー・ワング

2005-04-14-THU


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