おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。



トイレが一つしかない店で、
混み合ったトイレを待つのに
スマートな方法ってないんでしょうか?

小さくて親密な空気が流れるレストラン。
サービスが行き届き、
厨房の中で出来上がったばかりの料理が
出来上がったばかりの状態で提供される、
とてもシアワセなレストラン。
なのですけれど、そうした店の数少ない弱点の一つが
「お店の中にトイレが一つしかない」
ということであろう、と思います。

トイレに行かずに我慢できるだけの
強靭な肉体と精神を持ち合わせているのであれば
それもたいした問題にはならないでしょうが、
特に女性にとってはこれは忌忌しき問題であろう、
と思います。
なぜなら女性にとってトイレというのは、
単に用を足す場所にあらず‥‥、だから。
トイレは別名、パウダールーム。
つまり化粧直しをして、
いつも美しくあるための場所でもある、ということです。
男のボクでもお好み焼き屋さんに行ったときには、
食後、トイレに駆け込んで歯に青海苔がくっついて
とんでもない状態になっていはしないかどうか
確かめるくらいですから、トイレの役割は重要です。

ところが小さなレストランには往々にして
トイレが一つしかない。
とはいえ、当たり前に考えれば
20席かそこらの小さな店ならば、
トイレが一つしかなくても支障はないのだけれど、
運命のいたずらというのか、
不運な偶然と呼べばいいのか、
その一つのトイレに何人ものお客様が
ほとんど同時に殺到する、
というようなことが起こってしまう。
たまたま同じくらいの時間に
数組のお客様が食事をはじめ、
これまたほとんど同時に食事を終えると、
たちまちトイレが大混雑、というような事態が起こる。
困ったことです。

とある和食店で遭遇したこんな光景。
さてあなただったらどうしますか?

先日、ものすごい光景に遭遇しました。
隠れ家風の小さな和食のお店での出来事です。
普通、レストランのトイレは入り口近くとか、
厨房の近所といった店の端っこ、
入り口がわかりづらい程度の場所に
ひっそり置かれるものです。
ただその店はおそらく建物の構造上、
そうする他なかったのでしょう、
ダイニングホールに面して
トイレの入り口が作られていました。
高級店にはちょっと残念なそうした不都合を、
障子風のついたてで囲って
坪庭風のしつらえをして
不愉快でないような努力はしています。
小さな店、しかも都心のテナント店舗にはたまにあること。
みんな了解の上で、
トイレの入り口のある場所を
見て見ぬふりで食事は快適に進んでいました。

で、2時間ほどの、
幸せで甘露な食事が終わりを迎える寸前で
事件がおきました。
一人のお客様がトイレに入った。
見て見ぬ方向での出来事ですから、
しげしげとその人のことを見ていたという訳でなく、
ですから正確には
「誰かがトイレに入る気配を感じた」
と言ったほうがいいでしょう。
まあ気にする人は誰もいない程度の出来事でした。
ところがもう一人のお客様、
先ほどのトイレに立ったお客様とは異なる
テーブルの人でしたが、‥‥が立ち上がり、
トイレに向かいました。
ボクは「ああ、トイレは使われてるのになぁ。
気づかなかったんだな‥‥」と思いました。
多分、楽しいおしゃべりに夢中だったんでしょう。
あるいはあまりの美味しさに我を忘れて、
自分の周りで何が起こっているか
気づかなかったに違いない。
そう思いました。
20代半ばの女性でした。
彼女はまっすぐトイレまで行くと
ドアの取っ手を掴んで引っ張る。
当然、ドアは開かない。
なのに何度かガチャガチャ取っ手を引いた。
その不躾にまず驚きました。
開かないのがわかれば、
当然、客席に帰ると思った僕達の予想を裏切り、
彼女はそのままトイレのドアの前に陣取りました。
‥‥トイレ待ちです。
ビックリです。

中の人がすぐ出てくるとでも思ったのでしょうか?
彼女は悠然とトイレの前に仁王立ち。
見て見ぬふりなんてしてる場合じゃないほど、
僕らの視線は彼女に釘付けになりました。
仕方ないでしょう?
食事も済まして今日準備してきた
とっておきの話題もあらかた出尽くして、
みんな退屈し始める絶妙のタイミングで起こった
格好の椿事。
チラチラ彼女を覗き見ずにはいられなくなっちゃった。
彼女に背を向けて座っている奴なんか
「ああ、振り返ってでも見てみたい」
と、その席に座ったことを呪わしく思うほど
もう彼女に釘付け。
彼女は相変わらず身じろぎもせず仁王立ち。
挙句、手に持ったハンドバッグから
コンパクトを取り出して顔の様子を確かめ始める。
歯をむき出しにして口紅がついていないか
確かめる表情をするその人を見て、
僕の友人はこういいました。
「女の人って鏡の前では
 怒ったヒヒのような顔をするんだネ」
なかなかの見ものではありました。
そしてその景色が成田発ハワイ着便の、
到着1時間前のトイレ前の
とんでもない行列を思い出させて、
思わず笑っちゃいました。

気をつけましょう。
小さなレストランのトイレの前で
順番を待つようなことだけはしないよう。

しばらくしてトイレのドアが開き、
中から年かさの落ち着いたご婦人が出てこられました。
ところが何の気なしに開いたドアの真ん前に
いるはずもない仁王立ちした赤の他人の姿を発見して、
かなり驚いた様子でたじろぎました。
次の瞬間、そのあまりの不躾に
憮然とした表情で彼女のことをにらみ返したのだけれど、
当の女性はトイレに一直線に駆け込んで、
バタンとドアを後ろ手に閉めました。
レストランは期せずして沸きあがった
失笑で満たされたワケです。

笑顔で行って、笑顔で帰ってくるために。

小さなレストランでトイレを使いたくなったら
まずお店の人を呼びましょう。
そして小声でこういいます。
「今、お手洗いはあいていますか?」
彼は多分、こう答えるでしょう。
「ではお確かめいたしますので、
 少々、お待ちください‥‥」
ここからはワクワクと驚きの連続です。
まず彼が歩いてゆく方向を追いかければ、
その先にトイレがあります。
立ち上がって「トイレはどこですか?」なんて聞く、
無作法をすることがなくなります。
同席の人には、
すみません、ワタシはトイレに中座しますので、
と直接告げるような失礼をしなくてすむ。
スマートです。
しばらくして彼はあなたのテーブルに戻ってきます。
そしてこう一言。
「サカキ様、お待たせしました」
そういいながら、椅子を引いて立たせてくれる。
そして場合によっては
トイレまであなたを誘導してくれるでしょう。
たとえその店に行ったのが今日始めてだったとしても、
まるで開店当初からの常連のお客様のように扱われる。
ああ、なんてシアワセなひと時でしょう。
しかもトイレはピカピカ。
まるで今日初めてお客様をお迎えしました的清廉さで、
あなたを待っています。

今、トイレはあいていますか?
と聞かれてトイレに飛んでいったその人は、
トイレがあいているかどうかを調べに行ったのではない。
そのトイレがあなたをお迎えするのに
ふさわしい状態であるかどうかを調べに行った。
ということなのです。
あなたのことを待ってもいないトイレに
果敢にも一人で立ち向かうような
チャレンジ精神はこの際、キッパリ捨てましょう。
トイレに立って、あかないドアに失望をして
すごすご肩を落として帰ってくるような
情けないお客様にもならないように。
そして間違ってもトイレの前で行列をする
哀しいお客様には絶対にならぬよう。
トイレは笑顔で行って、
笑顔で帰ってくる場所であるべきですからネ。

illustration = ポー・ワング

2005-01-27-THU


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