おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。



基本的に料理は残すものじゃありません。
お店の人が気合いを入れて作ったものは
なるべく残さない。これに尽きます。
まあ、これは常識です。
常識なんだけれど、
なんかの都合で残さなくちゃいけなくなることがあります。
どうしても口に合わなくて残さざるを得ない状況に陥る。
こんな時は仕方ない。素直に
「ごめんなさい、思っていた味と違ったものですから」
と言えばいい。
「こんなまずい料理を出しやがって!」
みたいな態度は慎みたいですね。
美味しい、美味しくないというのは
本当に主観的なことがらであって、
ボクが今まさに突き返そうとしている料理を、
隣で美味しいって思いながら楽しんでいる人もいます。
それがレストランというパブリックな空間ですから、
大声で、こりゃ美味しくないわ、と言うのは
バッドマナーでしょう。
こんな料理をありがたく食べいる人の気が知れない!
みたいに聞こえたら、それこそ店中の人、
店中の人と言うことはお店で働いている人と
お店に来ているお客様を含んで、文字通り
「店の中のすべての人」という意味ですが、
店中の人に不愉快な気分を
まき散らすことになるのですから、やっぱりあくまで
「すいません、思っていたものと違いました」
これが正解。


悲しいのは、美味しくて美味しくて仕方ないのに
お腹が一杯になっちゃって、
もうこれ以上食べることが出来ない、
ごめんなさい、というような状況ですね。
ボクなんか仕事の関係上、
晩御飯が3回の一日、だとか、
昼御飯が2回に、おやつでとんかつを食べて、
晩御飯を2回、その上に夜食で焼き肉なんてことを
してしまうことがあります。
毎回、完全に一人前を食べていたら死にます。
医者からは「そんな仕事やめてしまいなさい」と、
精密検査の度にいわれるけれど、
生来の食いしん坊のボクは、
仕事だから仕方ない、をいいわけに、
そんな状況を楽しんだりしているから
どうしようもないのだけれど、
その分、「ごめんなさい、残してしまって」と言って、
嫌われない方法を一生懸命考える癖だけはつきました。
自慢できることかどうかはわからないけど。


あなたならどうしますか?
あるピッツァ屋での出来事。



東京には最近、ピッツァが美味しく楽しめる
イタリアンレストランがたくさん出来ました。
アメリカ風のピザじゃなくて、ピッツァ。
一枚じゃなくて、
一切れでお腹一杯になってしまいそうなほど
分厚くて頑丈なピザじゃなくて、ピッツァ。
日本では長い間、アメリカのピザが幅を利かせていました。
面白いものでアメリカの料理であるピザを
アメリカまでわざわざ行って勉強した日本人は
ほとんどいませんでした。
アメリカから来たピザを焼く人の作り方を真似て、作る。
その程度のことでお茶を濁したんですネ。
まあ大概のアメリカの料理なんて
見よう見真似でもどうにかなるくらいのものだから、
それでもよかったのでしょう。
そもそも誰にでも作れるように進化したのが
アメリカの料理ですから。
それはどこのどのような料理から進化したのか?
というと、当然、ふるさとはイタリアです。
イタリアにはお腹を満たすためではなく、
職人の手が作り出すマジックのような技を
楽しむためのピッツァがあります。
小腹が空いたら一枚。
ビールやワインが飲みたくなった一枚。
これといって食欲がなくても一枚、というような
気軽な、でも中毒性のある料理で、
何故、こんなにも美味しいのだろう、といえば
それは小麦粉が直火で
焦げる寸前まで加熱された皮が美味しいワケであって、
だからピッツァ職人は必死になって
最高の皮を作ろうと努力します。
厨房の温度が変わっても、
湿度が変わっても微妙に味が変わってしまうほどの
デリケートさで、だから気を抜かず、
だから一生懸命、粉を練り、
生地を伸ばしてピッツァを焼きます。

先日、そんな真剣さで素晴らしいピッツァを焼く
東京の、あるイタリアンレストランで、
ボクの横に座っていた女性のお客様がピッツァを頼んで、
3分の2ほどを食べてこう言いました。
「なんかお腹一杯になったわね」
「うん、粉物ってお腹が張るから。
 上具だけ食べて端っこは残しちゃいましょうヨ」
で、その通り、彼女たちのお皿の上には
歯形の残った三日月型のピザの生地が
小山になって残されていました。
この景色を見たピッツァを焼いた人は、
わかっちゃないな、と思うでしょうね。
お寿司屋さんで、お腹一杯になったからって
お寿司のネタだけ食べて、
しゃりを残したらどうなりますか?
それと一緒。
もし残すなら、本当に重たい具を残して、
出来ればパリパリの端っこの部分は全部食べる。
‥‥このくらいの理解と優しさが欲しかったネ。


もし残すとしたら、
こうすべきでした。



ボクたちは案外、
勝手に食材のヒエラルキーをでっち上げて、
それをかたくなに信じて
行動しちゃっているかもしれない。そう思います。
穀物類より野菜の方が上。
野菜よりも動物関連の食材の方が上位にあって、
中でも牛肉、そして中でも和牛の霜降りが
食材ピラミッドの最上位に君臨している。
もし残すのだったらこのヒエラルキーの
なるべく下の部分のものを。
牛肉やお魚や、つまり原価の高そうな食材は
「勿体ないから」なるべく残さないで、
食べておきましょう。
‥‥と言うような考えで、料理を味わい、
お店の人が手間を惜しまず作った本当に美味しい部分を
残してしまうことこそ、勿体ない!

そのお店には釜を備えたオープンキッチンがあって、
そこで粉まみれになってピッツァをこね、
伸ばし、汗だくになって焼いているコックさんがいました。
ということは、粉を残さず食べてください、
というヒントをお店の人はお客様に発信していたわけで、
だから彼女たちはこう言うべきでした。
「すいませんが、もうお腹が
 一杯になり始めちゃいました。
 勿体ないのだけれど、
 デザートも楽しみたいので、
 ピザを残してしまいますね。
 本当に美味しくて、
 残念でしかたないのだけれど‥‥」
そう言って、手をつけずきれいに残したピッツァを
何切れか残したお皿を渡せば良かったんです。
彼女たちはちょっとしたミスで
お店の人と正しく対話することに
失敗してしまったわけです。
悲しいけれど。


お店の人は知っている。
どんなにおなかがいっぱいでも
これだけは食べるべきだってことを!



お店の人達は一生懸命、
何を食べて欲しいかということを
私達に伝えようとします。といって、
「これ気合いを入れましたから
 残さず食べてくださいよ」とは言いません。
それじゃあサービスとしてはあまりに稚拙すぎますから。
「このフォアグラのソテの付け合わせなんですが、
 乾燥イチヂクとクルミを
 キャラメルで焦がしながら焼き上げた
 シェフのオリジナルなんですよ」
とかなんとか言われたら、
迷わず付け合わせは残さぬ覚悟でお皿に向かいましょう。
フォアグラにキャラメル。
どちらも体に悪そうだけれど、
どうせ医者にしかられるのなら、
シェフが自慢したくなる物を
体の中に入れてからにしたいと思います。
フォアグラなんでどうせ焼いただけでしょう?
誰にでも作れるでしょう?
でもこの付け合わせの料理は
今ここに来たボクだけが食べれる物なんだ、
そう思いながら食べればいい。
お店の人のメッセージに耳を澄ませれば、
必ずや道は拓ける。
大袈裟かな?

そうは言いながらも、お料理のすべての部分が
素晴らしく良くできていて、
どれもが「残しちゃしょうちしないぞ」と
大声で叫んでいるような料理に出会うことがあります。
そんなときは正直困ります。
で、正直困ったときには正直になるのが一番で、
ボクは料理に手をつける前にこう言うことにしています。
「ああ、参ったな。これ全部を食べることは
 出来ないと思うんですが、
 この中で残すとシェフに叱られるものって、
 ありますか?」
料理に手をつける前に、というのが大切なところです。
自ら判断する能力をなくしてしまったと判断したら、
潔く料理を作ったシェフに自らの運命を委ねる。
まな板の鯉になる、ということです。
せっかくの料理を平らげることが出来なかったお詫びに、
どうぞ私を好きに料理して下さい。
へんてこりんなお客様からのへんてこりんなリクエストに、
大抵のシェフは厨房から出てきて、
あれこれ話をしてくれます。
自分なら絶対、このジャガイモだけは残さない。
大好きだから。
でも豚肉もいい状態だったし、
この茸は今朝、一番いい状態だったしネ。
とか、言ってくれるネ。
素敵な大人同士のギブアンドテークの関係の始まりです。
話を聞きながら料理をつつき始め、
気づけばあらかたお皿の料理がなくなって、
顔を見合わせて大笑いということになったりもするけれど、
そうやってボクは、いろんなシェフと知り合いになり、
いろんなシェフの名刺を貰ったりする
幸運に恵まれたわけです。

叩けよ、さらば救われる。
そういうことです。

次回は「積極的にあるものを残すとき」のお話です。


illustration = ポー・ワング

2004-03-11-THU

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