おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。



Moment of Truthという言葉が
接客の世界にはあります。
真実が明らかになる瞬間=
モーメントオブトゥルース。
お客様が店にこられた最初の瞬間が、
それから始まるであろう一連のサービスの
印象を決定づける極めて重要な瞬間なのだ、
というのがその意味です。
だからレストランの人達は
お店のドアをきれいに磨き上げ、
そのドアを開けるお客様のために
最高の「いらっしゃいませ」を用意して待っています。
だからお店に入ったら
お店の人の「いらっしゃいませ」に耳を傾けましょう。
お店の人の笑顔に目を向け、
雰囲気を味わう努力をしましょう。
まずその店の空気を体一杯吸い込む。
レストランには当然、いろんな料理の匂いがあって、
でもそれ以上にいろんな非料理的香りがあります。
店に染み付いた伝統の香りだとか、
他のお客様のムードだとか、
働いている人の気配だとか、
そんないろんなものがたっぷり混じり合った空気を
一杯に吸いましょう。
自分が今まで吸っていた外の世界の空気と
完全に入れ替えてやるぞ、ぐらいの決意で、
深呼吸したら、飛び切りの笑顔でこう言いましょう。
「予約していましたサカキです。」

さあいよいよお店に入りました。

モーメントオブトゥルースは
何もお店の側だけにあるのじゃない、
とボクは思っています。
お店を利用するお客様の側にも当然、
真実がお店に伝わる瞬間、
というものがあり、それは
「わたし達は今日、楽しい時間を過ごす準備が
 万端整っています…だからよろしくね」
という気持ちを込めて、
笑顔であいさつする瞬間でもあるのです。

お店の人が
「ああ、このお客様をお待ちしていて
 本当に良かった」と思っていただけるように、
背筋は真っすぐ、とっておきの笑顔と元気なあいさつ。
これが大切です。
すみやかにしてとどこおりなく、
あなたはテーブルに案内されるでしょう。

テーブルの前であなたは迷います。

さあ男性は女性の椅子を
引かなきゃいけないんだろうか?
女性が座るまで座っちゃいけないんだろうか?
女性や目上の人には
上座を薦めなきゃいけないんだろうか?
そもそも上座、ってどこなんだろう?
‥‥と、そんなあれこれを考え過ぎると
テーブルのかたわらで立ちすくんじゃいます。
ビジネスディナーなんかでの席順に関しては、
いろんなマナーブックで説明されているだろうから
ここでは割愛。
親密な、あるいはこれから親密になるであろう
男女におけるテーブルの囲み方を考えてみましょう、
ここではネ。

ごくごく一般的に女性には
壁に背をした席を薦め
男性は通路側に座るのが
マナー的に優れている、と言われています。
だいたい壁際の席は
通路側のそれに比べてゆったり出来ているし、
場合によってはベンチシートのようになっていたりして、
これがハンドバッグを置いたりするのに
とても具合がよかったりする。
後ろ姿を誰かにのぞき込まれる心配もないだろうし。
だからまず、大切な人には壁際を薦めます。


ただし壁際の席は‥‥

ただテーブルとテーブルの間があまり離れていない、
つまり客席がわりとギッチリと
押し詰められているような店では
この壁際の席、というのは曲者なんです。
例えば化粧室に行く。
立ち上がる。
隣のテーブルに遠慮しながら
カニがする横歩きのように不格好に
体をずらしながら通路まで出る。
格好悪い。
化粧室から帰って来る。
再び先ほどの行程を逆回しに行う。
格好悪い。

だからそのような店の場合は
一言、相手に確認しつつ
「今日はボクが壁際をもらおうかな、
 いい? それで」
と言いながら彼女をまず通路側に座らせてから
奥に入りましょう。
‥‥かっこいいね。ただその場合、
1時間少々はトイレに立たない忍耐力と
強靭な肉体を必要とするけれど。

もひとつ。
壁際の席というのは
相手の視線を独占することが出来る
幸せなポジションである、ということ。
これ重要です。
つまり男性が女性に
壁際席をプレゼントするというのは
イコール自分の注意を100%彼女に捧げる、
ということであって
最大のおもてなしであるのだ、ということなんだね。
しかも彼女は自分の背中の向こう側で起こる
さまざまな出来事を
存分に満喫するという自由を持っている。
ああ、あの人、付け合わせのグリーンピースを
ころころ転がしちゃったわ。
向こうのテーブルの人達って
もしかしたら不倫なんじゃないかしら?
あのソムリエさん、さっきから呼ばれてるのに
気づきもしないで
ウエイトレスとお喋りしてていいのかしら。
とかなんとか。
この人間観察こそがまたレストランで食事することの
醍醐味のひとつであるわけで、
その誘惑にさらされ
また誘惑のままに楽しむことを許された彼女に、
注目してもらおうと思ったら、
注目に値するよう容姿に気を配り、
注目に値する会話を用意しなくちゃならなくなります。
レストランにおける通路際の席、というのは
これほどに厳しく、
それこそが男性の置かれた社会的ポジションの厳しさ、
ということになるんじゃないでしょうか。
ややおおげさかな? でも多分、正しいですよネ。

それがなんらかのアクシデントで
男性が壁際を選ばざるを得なかった時には、
テーブル越しに広がる壮大なる舞台には
なるべく目をくれぬよう、
目の前の彼女一人に無制限の関心を
払い続けるべきです。これ、エチケットです。

実はボクの父のお気に入りの喫茶店が
家の近くにあって、そこにゆくと必ず父は
ボクに壁側の椅子に座るよう促します。
通路側の椅子は堅い座面の小さな椅子で、
一方の壁際のそれはフカフカのビロード張りで
座り心地も遥かに違うのに。
何度、固辞しても父は通路側にしか座ろうとせず、
これは彼の息子に対するいたわりであるのか、
と思いつつ恐縮することしきりでした。
ある日なにげなく母に、
こんなことがあるのだけれど
親父っていつからあんなに優しくなったのかなぁ?
と聞くと、吐いて捨てるように彼女はこう言います。
「あの店、壁が鏡張りになってるでしょう?
 あの人、ナルシストだから
 鏡に自分の顔映して悦に入ってるのよ」
果たしてその次、その店に行った時、
親父はやはり通路側に腰掛け、
壁に向かって右を向いたり左に首をかしげたり、
上目使いになってみたり舌なめずりしてみたりと、
まあ表情チェックに余念ないこと。
ボクに毎回あてがわれる上席は、
過剰なる愛情のなせる業ではなかったと安心しつつ、
人にとって快適なる席というもの、
それぞれの事情で決まるものであり、
一概に一つの法則でくくれるものでない、
と思ったりしました。

ところでもしあなたが案内されたテーブルが
思っていたようなものと違っていたとしたら、
あなたはどうしますか?
次回は「テーブル交換のお願い」
スマートにする方法を。

illustration = ポー・ワング

2003-10-09-THU

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