第3回 アメリカに行きたかった

ほぼ日 何度かお話にもあがりましたが、
沼澤さんはロサンゼルスの音楽専門学校の
ドラム科(P.I.T)に留学されて、
アカデミックなドラムも習われてますよね。
その後、P.I.Tの講師も務められますが、
そのときに『リズム&ドラム・マガジン』で
コラムを連載してましたよね?
沼澤 あー、懐かしいね。
してました、してました。
ほぼ日 当時、ぼく(西本)が
『リズム&ドラム・マガジン』を読んでいたとき、
P.I.Tはとにかくすごい技術が学べる学校で、
ものすごく興味深く読んでいたのを覚えています。
あの、P.I.Tって、どんな感じだったんでしょう?
沼澤 まず、ぼくは、ドラムだけでなく
音楽の用語とか知識は
まったくない状態で留学して、
P.I.Tではじめてドラムを演奏しました。
ほぼ日 一番はじめっからアカデミックなドラムの教育を
めちゃくちゃ受けた、ということですね。
沼澤 そうです。
で、まず、先生陣がものすごかった。
ジェフ・ポーカロっていう、
TOTOのドラムで、
セッション・ミュージシャンとして
有名な人がいるんだけど、
そのお父さんであるジョー・ポーカロが
先生でいたんです。
ほぼ日 TOTOのドラムのお父さん!
沼澤 そう、お父さん。
この人は、
「スティックをこう握ると、
 こういう動きができるようになりますよ」
というスティックの握り方とか、
自由にプレイするためには、
こういう練習方法がありますよ、とか、
身体の動きとして基礎的な部分を教わりました。
あと、ラルフ・ハンフリー。
この人は、フランク・ザッパのバンドにもいながら
アル・ジャロウやマンハッタントランスファーなどの
80年代のAORのアルバムのクレジットに
いっぱい入っていたドラマーですね。
ほぼ日 とにかく、ものすごい方だと。
沼澤 ラルフ・ハンフリーが担当していたのは
スタジオ・ドラミング・クラスっていって、
パッと譜面を渡されたときに
それをどう解釈してレコーディングをするのか、
または、その曲に合うドラムにするためには、
ドラムのチューニングをどうするのか、
そういうスタイルで望むのか、
といった授業でしたね。
ほかにも、サイト・リーディングとか
ライブ・パフォーマンス・クラスとか、
もう、いろんな授業がありました。
ほぼ日 P.I.Tには、世界中から
テクニックを求める人が
集まっていたんですよね?
沼澤 アメリカだけでなく、世界中から、
プレイヤーが集まってました。
日本人は、ぼくぐらいでしたけど。
ほぼ日 たしか、卒業のときに、
人気投票で賞をとってませんでしたっけ?
沼澤 あぁー(笑)。
ヒューマン・リレーション・アワードですね。
先生が投票してひとりをえらぶ部門と
生徒がえらぶ部門があって、
ぼくは全校生徒の人気投票でえらばれっちゃって。
ほぼ日 これって、コミュニケーションができないと
とれない賞だと思うんですけど、
英語はもともと話せたんですか?
沼澤 ううん、全然話せなかった(笑)。
でも、アメリカにいるとね、
しゃべれるようになっちゃうんですよ、これが。
お茶とってほしいけど、なんていうかわかんないとき、
「ね、『お茶とって』ってなんていうの?」
っていうことを、
なんとか伝えようとするじゃないですか。
すると、相手も
「ん? どういう意味?」って聞いてくれて。
知ってる単語と身振り手振りで伝えると、
「あー、そういうときは、こういえばいいんだよ」
って教えてくれる。
で、次はお茶を「ペン」に変えて、
「ペンとって」っていってみたりして。
ほぼ日 お茶を、ペンに。
そうやって、ひとつずつ覚えていったんですね。
沼澤 あと、ルームメイトも外国人だったから、
やっぱり、自然に身に付いていきました。
ほぼ日 学校には、どのくらいの期間
通ったんですか?
沼澤 P.I.Tは1年間のコースでした。
その1年にいろいろ教えてもらったんだけど、
それをしっかり練習することが
全然できてなかったんです。
ドラムを演奏することが楽しくてしかたなくて、
でももっと練習してうまくなりたいって思って、
学校のオフィスにいって
「なんとか学校に残れる方法はないですかね」って
相談したんですよ。
そしたら、半額でいいから、
あとは好きにやってていいよってことになって。
ほぼ日 直接相談しにいくところが、
すごい。
沼澤 そのころには、先生やオフィスの人たちとも
仲良くなってたから。
で、夏期講習のときに、
そのインストラクターをやらないかって
誘われました。
これは、初心者向けの補習授業をする
家庭教師のような役でしたね。
昼は練習して、夜は先生をする。
すると、次の年には
「お前、1年コースの先生やんない?」っていわれて。
ほぼ日 沼澤さんの教え方が、
わかりやすかったんですね。
そこからは講師として雇われるようになった、と。
沼澤 そうですね。
本格的に日本で活動するようになった
2000年までは、ドラムの仕事と兼務してました。
‥‥今振り返ると、
ドラマーになろうって思ってなかったから、
こういうふうにできたんだと思いますね。
ほぼ日 えっ、当時ドラマーになろうって
思ってなかったんですか?
沼澤 思ってないですよ!
そんな簡単にいくわけ、ないじゃない?
P.I.Tに入ったからドラマーになれるなんて、
思えるはずがない。
でも、そういう感覚は、
一度日本で大学を出てるからかもしれないですね。
そもそも、ぼくなんて
ドラムを演奏したこともなかったし。
ほぼ日 では、なぜP.I.Tへ‥‥??
沼澤 とにかく、アメリカに行きたかったんです。
アメリカに住んで、英語がしゃべれるようになって、
それで日本に帰って来れたらいいなーと思ってた。
ほぼ日 えっ、そうなんですか!?
沼澤 そうそう、そうなんですよ。
どうやってアメリカにいこうかなーって思ってたら、
自分が大好きなドラマーである
ジョー・ポーカロやラルフ・ハンフリーが
先生をやってる学校があるらしいと知って。
ほぼ日 それで、P.I.Tに。
沼澤 そう、それで行きました。
ほぼ日 今や日本のグルーブ・マスターという
沼澤さんの原点は「アメリカに行きたかった」。
うわぁー、衝撃的だった。
人生、おもしろいものですねぇ。
沼澤 ほんと、なにが起こるかわからない。
ギャドソンに出会ったことも、
ぼくの人生にとって
ものすごく大きな事件でしたから。
ほぼ日 グルーヴを教わる、ということで?
沼澤 うーん、というか、先生をしながら、
ドラマーとしても、だんだん
生活できるようになっていったんですけど、
やっぱり、半分は先生なので、
どうしても学校がメインにあるわけですよ。
でも、ギャドソンといっしょにプレイすると、
同じことやっても、なんか違うわけですよ。
その、「違うんだ」ってことを教わったんです。
どうやら全く別世界らしい、と。
学校にいたことで見えていなかった社会が
とつぜん、目の前に現れた感じです。
ほぼ日 社会という現実が、目の前に。
沼澤 はい。
ギャドソンのように、
社会に出て、責任を負って、
マイケル・ジャクソンとかのレコーディングをして、
そのレコードを全世界の人が買うっていう、
そのためのドラムって、どうすればいいのか。
それはギャドソンしか知らないんですけど、
彼はそういう説明ができない人だから、
自分で見て、分析をするしかない。
だから、とにかくいっしょに過ごしましたね。
いっしょに飯食ったり、ライブを見に行ったり、
そういうことだけだったんですけど、
「これが、マイケル・ジャクソンの
 大ヒット曲を演奏するっていう人の現実なんだ」
って、わかったんです。
もう、自分とは全然違う世界でした。
ほぼ日 先生を辞められて、
プロとして活躍している現在は、
沼澤さんも同じ世界に?
沼澤 いやいや、
もう、ギャドソンが築いてきた
歴史的な偉業とは全く別の次元です。
そして、これからもその次元でのプレイが
できないこともわかってる。
ほぼ日 はぁー。
ほんとうに、偉大な師匠なんですね。

(次回は、グルーヴ・マスターが
 「グルーヴ」について、語ります。)
2012-10-12-FRI