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樹 今日から新連載、「樹の上の秘密基地」第5弾は
3月21日に発売された64ソフト
「ポケモンスナップ」の開発チーム
「ジャックアンドビーンズ」のお話です。
新しいゲームソフト開発チームのメンバー全員を
広告によって一般公募するという試みは、
どこから生まれたものだったのか?
応募し、採用されたスタッフたちには、
どのような苦難が待ち受けていたのか?
プロジェクトの生みの親である宮本さん、岩田さんと、
スタッフたちそれぞれに、同時に語っていただきました。

第1回目は、スタッフが選ばれ、チームが誕生するまでを
お伝えします。


(第5回の1)
「ジャックの豆の木計画、始動する。」


ハル研究所代表取締役社長
 岩田 聡さん
 以下岩田)
まず、なぜ、今回、私がこの「ジャック」
チームを「ほぼ日」で紹介してもらいたいと
思ったかを、お話しします。

「ポケモンスナップ」の完成、発売までに、
チーム結成から3年半という歳月が
かかりました。
ゲーム1本作るのに3年半もの時間をかけて
「ジャックチームはなんて恵まれた環境で
ゲームを作ってきたんだろう」
と思われて
いる方も、なかにはいらっしゃるかも
しれません。
ポケモンキャラクターの写真を撮る、
新しくて面白いゲームを作ったチームだと
言われていますし、いきなり第1作目からの
大ヒットにもなりました。
さぞ順風満帆かのように取り上げられがち
でもあるのですが、彼らが歩んだ道のりは
決して平坦なものではなかったんです

商品が完成して、ヒットして、
多くの方に遊んでいただいている今こそ、
この間チームのメンバーがどんな苦労をして
どんなトラブルがあって、それをどのように
乗り越えてきたかを伝えたいと思いました。
決して全員が最初に思い描いた夢どおりでは
なかった、という部分も含めて、
そういうものとして、この
「ポケモンスナップ」は出来た
ということを
伝えたらどうか、と思ったんです。
外部のメディアじゃない「ほぼ日」だから
話せると思ってるんですよ、全部。

岩田さん (岩田さん)

 


ポケモンスナップ・パッケージ





任天堂 情報開発部長
 宮本 茂さん
 以下宮本)
ジャックチームのメンバーも、そう思って
くれてると嬉しいですね。

岩田:もちろん、彼らがすすんで
「3年半のあいだにたまっていた感情を
吐き出したい」って望んだわけじゃ
ありませんよ。
でも、ジャックというプロジェクトの結果が
このように出てから、
スタッフひとりひとりが次のステップに
それぞれ上がるためには、
ひとりひとりの考えもこの時点で
整理されるべきだし、
このプロジェクトの在り様が総括される
うえでも「ほぼ日」にとりあげてもらう
ことが大事だし、必要なプロセスだと思う

と言ったんです。

宮本:なるほど。わかりました。
最初、この話の始まりというのは、いろんな
会社で働いているゲームクリエイターが、
決して物づくりに満足しているわけでは
ないよね
、ということでしたね。
当時、スーパーファミコンのソフト作りを
進めていくなかで、開発してる当事者が
満足できていないクオリティでの商品を
無理やりに出させられたりしていて、
現場は辛いんだよ、という声があった。
任天堂はいいけれども、よそでソフトを
作ってるところはみんな辛いぞ、っていう
声を耳にしていたんです。
そういう人たちに対して、
何か任天堂がサポートできないか、という
ことが始まりでした。
たぶん、ぼくが糸井さんの事務所に行った
ときに岩田さんも一緒にいて、みんなで
雑談としてそういう話をしてたんじゃ
なかったっけ。

岩田: そうでした。
そのあと京都で、糸井さんと私が山内社長に
お目にかかっていた折に、わたしがその時
感じていたことを口にしたんです。
それは、今、ゲームを作っている多くの
ソフトハウスが、いかに悲惨な状況で
仕事をしていて、先の展望も難しくて、
開発者にとっては非常に辛い状況に
なっているか、という時代認識の話を
させていただいたうえでね、
「今、新しいものづくりへのチャレンジを
呼びかけてみるのはどうでしょうか?」

提案したんです。
そしたら山内社長も、まさに膝を打って
「それはいい」とおっしゃってくださった。

山本洋一
ディレクター

3年半のあいだ岩田さんに言われて
きたのは「洋一はオーディションの
面接のときから、コーヒーはおかわり
するわ、タバコは吸うわ
」。
「あのとき、あの場で、そんなこと
したのはお前だけだよ」って。
確かに、それほど緊張もしてなかった
のは事実ですが。

当時、それまでの仕事では、ある程度
やりたかったことを達成した
タイミングでもあったので、
次に何か面白いことはないだろうか、
と思っていた矢先です。
ジャックの募集があったのは。

山本洋一さん

宮本: 僕自身でいうと、「64ビット機」の
立ち上げに向けて「マリオ64」を作ってる
最中だった頃かな。
マリオを作って、もちろんゼルダもやろうね
と部内では話していました。
それ以外にも、実験はしてましたよ。
「パイロットウイングス」や
「スターフォックス」など、いろいろと
そのときには動かしてました。

宮本さん (宮本さん)

 

編集部:その当時、宮本さんは新しいハード
に対応させるゲームをそれだけ作りながらも
なお、強い危機意識をお持ちだったという
ことですか?

宮本: そうですね。
僕も強かったし、山内社長も強かったです。
それと同時に「64」の開発ラインのなかに
ひとつくらい、長期的な投資をする
プロジェクトがあっても面白いな
、と
思ったんですよ。


岩田: その当時、宮本さんは
「これから新しくチームを作って
始めるんだったら、64の第一弾の商品と
しては時間的に間に合わないけれど、
第二弾、第三弾として、
DD(ディスクドライヴ)を使って
今までなかったようなソフトを作る、
ということをテーマにおいたらどうか」って
よくおっしゃってましたね。


宮本: ええ。
自分たちがふだんやってるのとはまた違った
切り口のゲームを、そういう人たちが
集まって作ってくれたら、
逆に自分たちには思いつかないような
面白いものが出来るんじゃないか、と
思ったんです。
ですから、組織の制約をなるべく受けずに、
自由にゲームを作りたい、という意識を
持っている人が、よそにどれくらいいるのか

見てみよう、ということであったし、
そのためには、任天堂が、中途入社での
採用募集という形ではないやり方で
プロジェクトをサポートできないか、と
思ったんです。
運営の母体や、開発の拠点などをあらかじめ
はっきり固定しないままで、
まずは呼びかけよう、となったんですよね。

川瀬シゲゾー
デザイナー

僕がジャックに応募したときは、
ちょうどフリーのデザイナーになろう
と考えているとき
でした。
しかし、フリーのデザイナーに
なるにはクライアントを3つくらい
持っていなければまずいだろうと
思いまして。
当時2つくらいはあったんですね。

もちろん、ゲームのことをちゃんと
知りたかったということもあって。
すごく昔からゲームを遊んではいたん
ですが、その当時、自分はゲームの
世界には向いてないな、と思っていた
んですよ。
そのころはゲームが3Dになるとは
思ってなかったから。

ところが、これだけ3Dが
もてはやされる時代になって
もしかしたら、自分でもできることが
あるかもしれないと感じ始めました。
それまで3Dしかやったことがない。
だから逆に言うと、2Dのドット絵
みたいなものをやったことがなかった
んで。
大々的に公募をしていたし、すごい
人たちがいっぱい集まるんだろうな、
という感じが強かったんですね。
だから、そのすごい人たちと一緒に
仕事することで、自分の技術も上げて
いきたいという思いが強かったです

川瀬シゲゾーさん

 

岩田: 山内社長は、
「それなら糸井さん、ぜひ実行委員長を
やってくれないか」とおっしゃって。
糸井さんから、山内社長にご提案したのは
チュンソフトの 中村光一さんもぜひ
サードパーティ代表として、
評議委員に加わってもらいたい、と。
「それがいいね」と了承していただきました。


64のハード自体は、まだ名前も決まって
いなくって、誰もその性能のすみずみまで
分かっているひとがいない、という
段階でした。
まさに、これから64を立ち上げようと
していた時期に、ぼくらも一緒になって、
新しいことを外の人たちとともに始めるんだ
という気持ちでやっていこうじゃないか
、と
いうのが、この話の発端だったんですね。


宮本: 実行委員長の糸井さんは、まず
このプロジェクトに名前をつけてくれて。

岩田: 名前をつけて、広告を作ってくれて。


猪ノ口幸治
ディレクター

「ファミコン通信」の裏側に載って
いた募集の広告を見て応募しました。
前の会社は、それはもう小さな会社で
自転車操業みたいに忙しいところ
だったんですよ。
ですから、広告の中身がすごく魅力的
に見えて、自分が作りたいものを
作りたい、という一心で

応募したんです。

猪ノ口幸治さん

ジャックの豆の木計画 コピー:糸井重里
アートディレクション :高田正治
デザイン:ラッキーナイス
        ↑
写真をクリックして、ぜひ広告コピーを読んでみてください。

 

編集部註:宮本さん、岩田さん、中村さん、
糸井の呼びかけに対して、550人(組)
越える応募がありました。
4名の評議委員は何日もかけて、すべての
応募書類に目を通しました。
第一次審査の書類選考を通過した約50人に
対して、ホテル会議室で2日間の面接試験が
行われました。

編集部:送られてきた書類をご覧になって
おふたりはどのように思われましたか?

宮本:すでに手応えは 感じられましたよ。

岩田:私が一番感じたのは熱意、猛烈な
エネルギーです。
その猛烈なエネルギーが550人分詰まって
やって来たわけですよ

550の応募書類それぞれに、みなさん
すごい熱意を持って書いてきていましたから。
ほんとは最初の3ページを読んだだけでね、
応募者のおおよその力量っていうのは
分かるんだけれども、もしかして企画書の
最後の1ページに、自分をうならせる
すごいことが書いてあるかもしれない、
と思ってしまってね。
つい、最後まで読んでしまう不器用さが、
とくに私と宮本さんにはありましてね。

宮本:もう、まじめに読みましたよ(笑)。
ここ(ネズアナ)じゃなくて、
前の糸井事務所で見たんだった。
本当に大変でしたよね。

岩田:糸井さんは「萬流コピー塾」とかも
されていたから、一般のひとからの投稿に
目を通す経験をお持ちだったんで、
応募書類をさばくのが我々よりもはるかに
上手でした。
なぜそこで見切れるのか?っていうのが、
当時の私にとっては新鮮だったんです。
でも、糸井さんのその見立ては、
全く間違ってなくてね。
やっぱり、プレゼンテーションの成功と
失敗でいえば、読む相手のことを
考えられないプレゼンテーションをしている
時点で、それはすでに敗れているんですよ

でも、そのことを分かっているひとは、
実は非常に少ない。
それってすごく難しいことだしね。
そういう一次審査を経て40〜50人くらい
のかたと実際にお会いしたんだけれども、
それがまた、すごい濃い面接でしたね。

山本正宣
デザイナー

本音と建前がありまして(笑)。
本音で言いますと、前の会社はCGを
専門にやってる会社だったんで、
バブルがはじけてから経営が苦しく
なってたんですね。
だから次に働けるところを捜さなきゃ
っていうのもあったんです。
それ以外にリアルタイムとしてのCG
というものが、ゲームのなかで
これからもっと可能性が出てくるの
ではないか、と思っていたんですよ。
ちょうど任天堂さんが新しいハードを
出されるし、チャンスだと思いまして
応募しました。
そのとき、もし僕がそこで何か
できるんだったら採用してもらえる
だろうし、そうじゃなかったら、
また他を捜せばいいや、みたいな
気持ちで。
実はもう1社にも出してたんですよ。
そっちは断わられました

「うちは3次元はやりませんから」と
言われて、断わられたんですけどね。

山本正宣さん

宮本:濃かったですよね。
でもね、ぼくにとっては、あんなに楽な
面接もなかったんですよ

中村君と糸井さんと岩田さんがいて、
自分が聞こうと思ったことをぜんぶ他の人が
聞いてくれるなんて経験は、他にはなかった
ことなので(笑)。

宮本氏と岩田氏

岩田:面接会場だったホテルの部屋に、
任天堂の辻常務と今西取締役が陣中見舞いで
顔を出してくださいましたね

わざわざ京都から、様子を覗きにきて
くださったんです。
最終面接のときにもおいでいただいて、
我々も嬉しかったですよ。
最終面接のときには、横井部長
(任天堂開発一部長だった故・横井軍平氏)
も、同席してくださったんですね

宮本:またこのときも面白い面接を
したんですよね。

岩田:プランナーについては、二次の面接の
審査のときに採用者を決定できなくて。
プランナーだけを集めてミーティングする
「企画会議」をやってもらって、その会議の
模様を我々四名が後ろから見ている、という
ことをしたんですよ。
中村光一君の発案だったんですが、
あれはすごいことをしたと思いますね

やはり、その会議で、いろんなことが
分かりましたよね。

 



「ジャックの豆の木計画、始動する。」いかがでしたか?
こうして選ばれて集まったスタッフですが、はたして
無事に開発をスタートさせることが出来たのでしょうか?
では、第2回をお楽しみにね。


1999-5-13-THU


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