きっかけは、あるテレビ番組のなかで、
羽生結弦さんが『MOTHER2』のファンだと
おっしゃっていたこと。
そこからこの夢のような対談が実現しました。
「夢のような」というのは、
ありふれた決まり文句じゃなくて、
思い返してみるとほんとにそう感じるんです。
仙台にあるスタジオで、昨年の12月、
ふたりは約2時間、たっぷり話しました。
それをこうしてお届けできることを、
とてもうれしく思います。

>羽生結弦さん プロフィール

羽生結弦(はにゅう・ゆづる)

1994年生まれ。宮城県出身。
4歳からスケートをはじめ、
14歳で世界ジュニア選手権チャンピオンに。
その後、グランプリファイナル4連覇、
全日本選手権4連覇を達成。
そしてソチオリンピック、平昌オリンピックにおいて
2大会連続で金メダルを獲得。
2022年7月にプロのフィギュアスケーターに転向。
現在は自身が主演するアイスショーの
プロデュースに専念している。

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第3回 被災地からの声を背負って

少年時代ミラーニューロン天と地とどせいさん
バレエ年表ホームシック宇宙ジョニー・ウィアー
リセット東日本大震災ピカソ捻挫パラレルワールド
名刀と妖刀プロデュース鉄腕アトム音楽ネス
15歳ロミオとジュリエット金魚お昼寝アスリート
ゆとり世代アルプスの少女◯◯ジ得点レコード
末っ子あれヒップホップモーツァルト
ジレンマアイスショー

羽生
東日本大震災が起こってから、
ぼくは、ひとりのアスリートであるという以前に、
「被災地の人間」として、
すごく注目されるようになったんです。
当時は、ぼく自身、実力がだんだん伸びていって、
4回転も安定していった時期でもあったので、
ようやく世界でも戦えるようになってきた、
っていう自負があったころだったんです。
だからこそ、そのころは、
フィギュアスケーターとしてではなく、
「被災地代表」ということを背負って、
自分の演技や表現以外のところで、
たくさんの人たちからなんとなく応援されている、
ということに反抗的になってしまうこともあって。
糸井
ああ、なるほど。
羽生
ぼくはただただ練習をがんばって、
ようやくスケートがうまくなってきて、
結果が出るようになってきたのに、
なんか、被災地の人間だからがんばってて、
それで結果が出せるようになってる、
みたいな感じで扱われてしまうことが、
ちょっと嫌になっていたというか。
糸井
そのころは何歳でした?
羽生
16歳、17歳ですね。
だから、自分で言うのもあれですが、
多感な時期だったんですよ。
糸井
そうですよね。
だから、まさに、いろんな意味が、
競技以前にできてしまった。
羽生
そうなんです。
もちろん、それは大切なことですし、
だからこそがんばらなきゃいけない。
でも、やっぱり、それって、
ひとりが背負うとしたらすごく重いことですし、
その状況でなにも考えずにスケートするなんて、
やっぱり、かなり難しくて。
糸井
そうでしょうね。
羽生
そういう感じでいろいろ考えながら
スケートをしていたんですけど、
最終的に、そのシーズンのフランス大会
(※フランスのニースで開催された、
2012年世界フィギュアスケート選手権)で、
一番いい演技をすることができたんです。
そのときに、やっと、みなさんが
応援してくださっていることを
本当の意味で感じることができて、
その声に背中を押してもらって、
その力で自分はスケートができているんだ、
ということを実感できたんです。
糸井
意味を乗り越えたというか。
羽生
はい。だからぼくは、
いろんな意味を削ぎ落とさなきゃいけないけれども、
まわりにはちゃんと応援してくださる方々がいて、
その応援してくださる方々の期待とか、
自分からの視点で言えば
プレッシャーだったりとか、重さだったりとか、
そういったものが、
自分を一層強くしてくれるための
原動力になってるんだということを、
それ以来、考えられるようになりましたね。

糸井
じゃあ、転換点は、ほんとうに、
そのフランスでの滑り。
羽生
はい。
糸井
それは、具体的にどういう演技だったんですか?
羽生
じつはその試合の前の練習で、
ぼくはケガをしているんですよ。
コーチが今日はこのへんでやめていいよ、
って言ってたのに、そのときぼくは
内容的にちょっと心配だったので
4回転ジャンプを跳びに行って、
捻挫してしまうんですね。
そんな状態でショートプログラムに
出場したんですが、
そこで4回転が跳べてしまったんです。
でも、最後の簡単な3回転ジャンプで
ミスをしてしまって、けっきょく7位という、
よくないスタートになったんですけど、
それでもぼくは、4回転を跳べたことで、
なんとなく有頂天になったんです。
「ケガしても跳べるじゃん!」みたいな。
「やっぱりがんばってきたからじゃん」って。
そんな感じになってたときに、母から
「いや、それは違う」って喝を入れられて。
捻挫をして、そこから4回転が跳べるまでに、
どれだけの方が支えてくださったのか、
どれだけの方が応援してくださったのか、
それを当然のことのように考えちゃだめだ、と。
糸井
ああー、すごいですね。
羽生
それを聞いて、ああ、そうか、
いろんな人たちの支えがぜんぶ
自分の演技につながっているんだって思えて。
いつも応援してくださるファンの方々だったりとか、
被災地から応援してくださってる方々の声を思い出して、
感謝しながらフリーを滑ったんですね。
そしたら結果としてすごくいい演技ができた。
そこがぼくの、いろんなもの背負うことについての
ターニングポイントだったのかなと思います。
(※7位で迎えたフリーの演技は
『ロミオとジュリエット』。
前半のジャンプを完璧にこなしながら、
つなぎ部分で転倒し、両手を氷についてしまう。
しかし、そこからのジャンプの完成度と
エモーショナルな表現が圧倒的で、
転倒すら、ロミオとジュリエット、
あるいは羽生結弦が乗り越えるべき
障害としての演出だったのではないかと
感じられるほど観客を魅了し、
大歓声のなかで演技を終える。
結果、シーズンベストスコアを叩き出し、総合3位。
世界選手権初出場ながら、17歳3か月で
日本人男子最年少メダリストとなった。)
糸井
つまり、背負ったものを、
下ろすんじゃなくて受け入れたというか。
羽生
はい。応援してくださる方々の
重みも感じたまんま、背負って向かっていく、
背負ってるからこそ強くなれる、
みたいな自分のスタイルが、
あのときにできたのかなと思います。
糸井
つまり、言ってみれば、
鉛筆の芯の先のところに羽生結弦がいて、
もちろんそこが文字を書いて、
表現をつくっていくわけだけど、
鉛筆本体がなかったら字は書けないわけで。

羽生
はい。
糸井
いろんな人が羽生さんを支えている
ひとつのチームなんだけど、
団体競技みたいなわかりやすい関係ではない。
きっと、羽生さん本人は、
支えてもらっていることを意識しながらも、
滑ってるときは孤独を感じることもあるだろうし。
羽生
ああ、そうですね。
糸井
とんでもないものだと思うんですよ。
そういうことをわかって、
受け入れていくっていうのは、
なんだろう、意志だけじゃないですよね。
羽生
まあ、そうですね。
ただ、何度も言うようですけど、
ぼくはすごくいろんなことに恵まれてきて、
もちろんつらい経験もありはしたんですけど、
そのなかでも、たくさんいい経験を
させてもらえたなって思ってるんですね。
糸井
うん、うん。
羽生
だから、きっと、振り返ったときに、
この経験があったから、
こういうふうに強くなれたんだな、
って思えるようなことがきっとたくさんあるし、
そういうことは、これからも増えていくと思う。
だから、やっぱり、
恵まれているんだなって(笑)。

少年時代ミラーニューロン天と地とどせいさん
バレエ年表ホームシック宇宙ジョニー・ウィアー
リセット東日本大震災ピカソ捻挫パラレルワールド
名刀と妖刀プロデュース鉄腕アトム音楽ネス
15歳ロミオとジュリエット金魚お昼寝アスリート
ゆとり世代アルプスの少女◯◯ジ得点レコード
末っ子あれヒップホップモーツァルト
ジレンマアイスショー

(つづきます)

2024-03-03-SUN

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  • 撮影:矢口亨
    衣装協力:tk.TAKEO KIKUCHI