写真提供：NHK交響楽団

──

これまで大阪フィル、読売日本交響楽団、京都市交響楽団、
広島交響楽団、NHK交響楽団などで
指揮を続けてきました。
下野さんが「指揮者でよかった」と思う瞬間は
どんなときですか？

下野

この25年間、指揮者をやってこられたのは、
「音楽が好き」というシンプルな思いがあるからです。
やはり何があっても音楽が好きだし、
こうして日々、音楽を奏でられることに感謝しています。

20世紀中盤ぐらいまでは、ザ・マエストロとでも呼ぶべき、
絶対的なリーダーである指揮者がいましたが、
今はそんな時代ではない。
指揮者は絶対的な存在ではありません。
自分の中で演奏曲について熟考してリハーサルに臨んでも、
オーケストラから「そのテンポは違うのでは」と
言われることもあります。

リハーサルではそんなふうに演奏者と
キャッチボールをします。
私は「A」の球を投げたけれど、
向こうからは「B」が出てきて、
それが混ざって「C」になるかもしれない。
指揮者の示した「A」になれば
よい演奏会になるかというと、そうでもない。

演奏は“ナマモノ”ですから、
本番でも不確実性があります。
お互いに目指すところは「C」あたりだよね、
と確認しながらも
すべてをきっちり決めておかないほうが、
本番で面白いものが生まれる。

そうして、演奏中に自分という存在も意識しなくなって、
会場全体が「この曲はすてきだね」という空気に
満たされたときが、
指揮者をやっていてよかったなと思う瞬間です。
そこには指揮者のエゴもなく、
オーケストラの反発もなく、あるのは純粋な音楽だけ。
そんな奇跡的なことは、
年に一度あるかないかですけれど‥‥。

──

まれにしか起きないんですね。
その「奇跡の瞬間」は最近だと、
どのコンサートで訪れたのでしょうか？

下野

それが振り返るとあまり覚えていないんです。
そして、めったにないことなんですよね。
本番ではなくリハーサル中に訪れることもあるんです。
だからといって本番で同じ演奏ができるかというと、
できなかったりもします。

もちろんプロですから、
毎回本番でのホームランを目指しているんですよ。
それでもなかなかできるわけではない。
反省点が出てきたら、
演奏会が終わって楽屋に引き上げてから反省する。
その繰り返しで打率を上げようとはしています。

──

いい演奏をするためにも、
指揮者とオーケストラの演奏者は
普段から仲良くしていたほうがいいですか？

下野

そうとは限りません。
たとえオーケストラの人に敵対されても、
その人を愛する包容力は持っていなければならないし、
かと言って、仲良くなりすぎてもいけない。
指揮者はむずかしい立場ですよね。
ただ、やっぱりオーケストラとの信頼関係は大切です。

尊敬するチェリストさんから言われたことがあるんです。
「われわれ演奏者は指揮者の表面を見ているのではなく、
指揮者の背中の向こうに
何があるんだろうというのを見ます」と。

指揮者がこれまで何をしてきたのか、
演奏者が知らないものを
どこまで知っているかに興味がある。
だから、実際の指揮の動きを
見ているだけじゃないと言うんです。
それは真理だと思います。

──

指揮者は経験がものを言う仕事という感じがしました。
経験が少ない若い指揮者は大変で、
経験を重ねていったほうがやりやすいですか？

下野

そうですね（笑）、若い人は大変かもしれません。
ただ、高齢の指揮者なら、
無条件に尊敬されるかというと、そうではありません。
それに若さというのは武器にもなる。
パッションを表現することで
応援してくれることもよくあります。

私は55歳で、指揮者としてはまだ若いほうですが、
師事した秋山和慶先生も小澤征爾先生も亡くなられ、
自分が先生たちから教えてもらったことを
若い指揮者に伝えていく立場になってきました。

私にも弟子のような人たちはいます。
本気で指揮者を目指している人たちは
しっかり勉強していますから叱る必要もないけれど、
それでも私が若いころは、
師匠たちから「それじゃダメだ」
「今のは良くない」とビシッと言われてきたわけです。

──

やはり師匠にあたる先生から
叱られることもあるわけですね。

下野

もちろん、厳しく言われることもありました。
怖かったですが、それはとてもありがたいこと。
ただ、今は時代が変わってきています。

私は生徒が間違っていると思うときは
「間違っているんじゃない？」と言いますが、
一喝するなんてことはしません。
音楽の世界だけでなく社会全体、
どの職業でもそういう変化が起きていると思います。
師弟関係が成り立ちにくくなった。
だから、教える側がアップデートする必要があります。

そこで気をつけなければいけないのは、
単純にノウハウを提供するのではなく、
教える人と教えられる人が
一緒になって「本質的を見よう」とすること。
そういう信頼関係を粘り強く作ること。
でも、それ自体が面倒になっているところもあるので、
むずかしいところですが、
今のところはできていると感じています。

──

技術を伝えることが難しくなっているということ、
ビジネスの世界でも音楽界でも共通点がありますね。

下野　

そうですね。一見違うように見える仕事でも
共通点がありますね。

いまは、自分が信じる音楽の魅力を
10年、20年後の世代につなげられたらと思っています。
いや、100年先にもつなげて
いかなきゃいけないんですよね。
これからも、ときどきは
ちょっとふさげたようなこともしながら、
音楽の継承を目指して、
タクトを振っていきたいと思います。