小説が文字で描く物語なら、編みものは毛糸で書く物語。
編みものが知りたくて、たくさんの洋書で学んだ時代からの
ストーリーを語ってもらいました。
彼女にとって、編むこととは生きることそのものでした。
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業
一部を読みものでご覧ください。

>三國万里子さんプロフィール

三國万里子(みくにまりこ)

編みもの作家。
1971年、新潟生まれ。
3歳の時、祖母に教わったのが編みものとの出会い。
早稲田大学第一文学部(仏文専修)に通う頃には
洋書をひもとき、ニットに関する技術と
デザインの研究を深め、創作に没頭。
大学卒業後、古着屋で働き、
ヴィンテージアイテムにも魅了される。
いくつかの職業を経た後に、ニットデザイナーを本職とし、
2009年『編みものこもの』(文化出版局)を出版。
以降、書籍や雑誌等で作品発表を続ける。
2012年より「気仙沼ニッティング」のデザイナーも務める。

『編みものともだち』
『アラン、ロンドン、フェアアイル 編みもの修学旅行』
『うれしいセーター』『I PLAY KNIT』など著書多数。

2020年冬には福岡の美術館「三菱地所アルティアム」
大規模個展を開催。
渋谷PARCOほぼ日曜日でも
「編みもの けものみち 三國万里子展」を開催した。

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『ミクニッツ 大物編 ザ・ベスト・オブ Miknits 2012-2018』(文化出版局)
『ミクニッツ 小物編 ザ・ベスト・オブ Miknits 2012-2018』(文化出版局)
『うれしいセーター』(ほぼ日)

  • わたしの編みもののはじまり

    わたしが初めて編みものをしたのは
    3歳ぐらいのとき。
    景色をよく憶えてるんです。

    家の居間が雪に降り込められて暗くて、
    すりガラスがあって、
    牛乳配達を終えたおばあちゃんが、
    ご飯食べた後で編みものをしてるんです。

    わたしもそれをやりたいから、
    「貸して」って言って。
    最初にかぎ針を教えてもらって、
    飽き足らなくなって、棒針も教えてもらって。

    それが「しあわせな孤独」というか、
    「しあわせなひとりぼっち」というか、
    そのシーンがわたしの編みものの始まりです。

     

    不幸な孤独を逆転させていく

    その後、ちょっと時間が経って、
    小学校2年生で転校しました。

    晴天の霹靂のようだったんですけど、
    とてもちっちゃい学校で、
    学年20人のクラスなんですけど、
    知り合った子に言われたんです。

    今度、引っ越してくる子は頭がパーだって
    先生が言ってたと。
    でも、まりこちゃんお勉強できるじゃない?って。

    なぜだかわかんないんです。
    先生がなんでわたしのことを、
    何にもできないパーの子が来ると
    みんなに言ってたのか。

    その少し後にわたしは、
    「はばちょ」になっちゃうわけです。
    すごく閉鎖された社会の中で、仲間外れにされて、
    自分としては、意味がわかんないわけです。

    そこから、わたしのもうひとつの物語が始まるんです。
    どうやって人に受け入れられていくか。
    自分の価値を明かすことで、人の中に入っていく。

    まりちゃん本当はいろいろできるじゃない、
    と知ってもらったときに、
    みんなの心が少し、わたしに向かって開くんです。

    わたし、もっとこんなことできる、
    編みものもできる、本だって読める、
    文章だって上手に書けるよ、
    ということを明かしていくこと。

    不幸な孤独を逆転させていく、
    それがわたしのふたつ目の物語なんです。

     

    思春期というハードル

    ただ、子どもの間では、
    そんなに深くわかり合う必要はなくて、
    ある程度、受け入れられたら、
    それで大丈夫なわけです。

    ただその後、思春期という、
    もうひとつのハードルがやってきて、
    そのとき、わたしはまた引っ越しをしたので、
    すでに女子グループができている中に、
    入って行けなくなったんです。

    自分の言葉が通じなくなったような、
    何を話しかけていいかわからない、という経験をして、
    その時に、またひとりになり直したんですね。

    それが思春期とも重なったので、
    大きくダメージも受けたんですが、
    自分を作り直す契機にもなったんだと思います。

    家には文学全集的なものがあったので、
    何でも読みました。
    川端康成や夏目漱石などを、ひと通り読んでいました。

    本を読んでいくなかで、
    わたしだけじゃないんだと、
    人と通じ合わないのは基本なんだと
    思うようになりました。

    作者が深く自分の中に降りていって、
    孤独になることで、
    深い部分で通じ合うことができる。
    わたしも、そういう形で人と通じ合おう
    ということをしはじめたんだと思います。

    物語の中に入ることで。
    自分の物語の種を持ちながら、それを育てていく
    ということをしはじめたんだと思います。

    小学校のときの「わかる」というのは、
    人から承認を得るために、例えば、
    自分は上手に作文を書くとか、
    自分は上手に絵を描くとか、
    人が「本物だ」と言うのはどういうことか
    という点で「わかる」という意味です。
    だから、好きかどうかとは別なわけです。

    わたしにとって、子どもや、
    こだわりの強い大人のことを考えるときに
    思うことは、「本質は何か」ということ。

    本質とは何かを問う気持ちが、わたしの中で、
    子どもから大人に繋がるときに、失われずに残った。
    だからわたしは、
    大人になっても子どもっぽいんだと思います。

     

    フランス文学を専攻するきっかけ

    わたしには、おもしろい叔父がいまして。
    ムーミンに出てくるスナフキンみたいな人で、
    ずっと、グルノーブルとか富山の立山とか、
    山にこもってスキーをしてる、叔父なんです。

    その人が、たまに山から降りてきて、
    母と膝を突き合わせて、いろんな話をするんです。
    「フランス人には哲学が必要だけど、
    日本人は哲学は必要としないよね」とか。

    わたしは子どもながらにそういう話を聞いて、
    「文学部」ということが頭に染み付いたんです。
    おじちゃんが言ってるようなことを、
    わたしもっと知りたいんだと。

    中学のころ、わたしは叔父とたくさん話をしました。
    「わたし、まわりの人と話ができないの」
    と言ったら、
    「まりちゃん、まず早稲田の仏文行けよ」と。
    「きみに合ってるから。その後フランス行くといいよ。
    フランスには、言葉で思考を伝えるような、
    そういうことができる人たちがたくさんいるから。」
    そう言われて、へぇーと思って(早稲田大学に)行きました。

     

    アンティーク小物が教えてくれたこと

    文学と同じく、三國さんを
    編みものへと導くきっかけになったのが、
    アンティークジュエリーの存在でした。

    当時のジュエリーは、
    ひとつひとつオーダーする人がいて、
    作る人はそれに込められた思いを聞いて、
    予算を聞いて、技術的なことも考えて合わせて、
    いろんなものが詰まった複合的なアートなんです。

    アンティークのジュエリーについて、
    知らないながらにとても惹かれるものを感じました。
    「物を通して作った人と通じ合う」
    という意味では、本と同じなんですね。

    現実世界では、なかなか友達ができないけど、
    でもその代わり、物を作った人と、
    ストンとわかり合えるようなところがあって、
    「ああ、それでいいじゃん」
    と思うようになりました。

    物に耽溺すると言うか、
    物をじーっと見てわかり合うと言うか、
    わたしにとって古い物というのは、
    そういうことなんだと思います。

    昔から「わかりたい欲」が強くて、
    小学生のときに、ピカソだのマチスだの、
    アートというものについて、
    どうやったらわかるんだろうと思って、
    画集を見るために図書館に通ってたことがあるんです。

    最初のうちは、わからないんです。
    でも、何十巻と見てるうちに、
    本物ってどういうことかが、
    子どもながらに、わかってくるわけです。

    「念ずれば通ずる」みたいに、
    見ているうちにわかってくる。
    言葉に置き換えなくても。

    言葉というのは本当に便利で、
    言葉があるから
    いまもお話ができてるわけなんだけど、
    言葉以外にも、人にはいくつもツールがあって。
    とはいえ、言葉の豊かな世界にわたしは育てられて、
    そのお返しとして、わたしは編みもので、
    わたしの使える編み棒や毛糸で、
    人にお返ししている。

    それがいま、
    わたしのコミュニケーションの一番前に
    形としてあるわけです。

     

    受け手が現れて冒険をはじめられた

    わたしは、いろんなことが苦手で、
    レジとか混乱してうまくできないタイプなんです。
    レジ打ちもできないような人間が何ができる
    って言ったら、ものを作ることしかできなくて。

    最初、ちょっと作って売ってみた。
    それが思いの外よろこばれたんです。
    で、調子に乗ったんです。
    調子に乗って続けるうちに、
    だんだんお客さんが増えていくんです。
    即売会みたいなものでは、
    「次は、いつやるんですか」と言われて、
    そのときに、受け手の姿が見えたんですよ。

    自分が差し出すものを、
    受け取ってくれる世界が現れたとき、
    わたしは冒険を始めることができたわけです。

    そして、仲間が少しずつ現れて、
    最初は、妹が手伝ってくれたんです。
    妹っていい奴なんですよ。
    その後に、編集者の人が現れ、ほぼ日の人が現れ、
    そうしていくうちに、最初は、
    作ったものを売るというお金の話だったのが、
    徐々に表現の話になっていって、
    表現とお金の広がりが、
    わたしの想像のつかないところで、できていく。
    つまり、わたしを使ってくれる人が現れたんです。

     

    人を幸せにするために編む

    2011年の東日本大震災の後、
    糸井重里が被災地の気仙沼で
    手編み産業を地場産業にしようと思い立ったとき、
    そのプロジェクトに三國さんも参加します。

    編みもの産業は、1950年ぐらいに、
    世界中でもう終わってるんです。
    みんな敗北したわけです。
    敗北でもあるし、
    編みものをしなくても稼げるようになった
    という意味では、女性たちの勝利でもある。
    編み手の人たちは、救われたということでもある。

    それを2010年ぐらいから、
    また始めてしまった人がいて。
    糸井重里という人です。
    そこで、また新たな形で「編んで仕事にする」
    ということを見せてもらった。
    それは自分ひとりでは、とてもできないことだった。

    気仙沼ニッティングでのわたしの役割は、
    一回敗北した人だから、
    できたことでもあるんだと思うんです。

    編みものの「手で編んで売る」ことの
    お金の稼げなさを、とことん10年間
    やり続けた経験がわたしにはあって、
    それは稼げないけど、
    ものすごくよろこびのある仕事だったんですよ。

    気仙沼ニッティングを始めるにあたって、
    糸井さんが大事にしたことのひとつが、
    編む人がしあわせになるような仕事、
    よろこびのある仕事を作りたい、と。
    何でもいいわけじゃない、
    仕事というのはよろこびがないといけないと。

    その「よろこび」の部分なら、
    わたしは助けになれることがある、
    自分が参加する意味もそこにあると思った。

    「稼ぐ」という部分を考える人が現れて、
    わたしは「よろこび」の部分を考える。

    編むことのよろこび、物を作ることのよろこびを、
    渡すことができる。
    そこが気仙沼ニッティングでの、
    わたしの冒険の段階でしたね。

     


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