世界で600万部のベストセラーになった
『嫌われる勇気』の著者古賀史健さんが、
文章を書くことについて、
「聞きたい人がよくわかるように」教えてくれる。
ライターとは?取材ってなに?
しっかりと気持ちの伝わってくる授業です。
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業
一部を読みものでご覧ください。

>古賀史健さんプロフィール

古賀史健(こがふみたけ)

ライター。
株式会社バトンズ代表。1973年福岡県生まれ。
九州産業大学芸術学部卒。
メガネ店勤務、出版社勤務を経て1998年に独立。
最新刊『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』のほか、
著書に『嫌われる勇気』
『幸せになる勇気』(岸見一郎共著)、
『古賀史健がまとめた
糸井重里のこと。』(糸井重里共著)、
『20歳の自分に受けさせたい文章講義』などがある。
構成に『ぼくたちが選べなかったことを、
選びなおすために。』(幡野広志著)、
『ミライの授業』(瀧本哲史著)、
『ゼロ』(堀江貴文著)など多数。
2014年、ビジネス書ライターの地位向上に
大きく寄与したとして
「ビジネス書大賞・審査員特別賞」受賞。
編著書の累計は1100万部を数える。

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株式会社バトンズ

  • ライターは文章のプロ?

    今日は、「書かない人のためのライター講座」
    というタイトルでお話しします。

    これは、けっこう矛盾するタイトルで、
    「書かない人」と「ライター」というものは、
    ぜんぜん別の話のように聞こえると思います。

    「将来、ライターになりたい」とか
    「今、ライターとか編集者をやっている」とか
    そういう人たちではない、
    一般的なお仕事されている方々に対しても、
    役に立つような内容にしたいと思います。

    もう少し具体的にいうと、ライターたちが持っている
    「目」や「耳」を持つと、
    いろんなことに役立つし、
    大きく言うと、もっと人生が面白くなるよ、
    というお話ができればと思っています。

    まず「ライターって、なんだろう?」という
    話をしたいと思います。

    ライターとは、文字通り「書く人」で
    プロのライターとは「文章のプロ」である。
    こういうふうに思われるんですけど、
    ぼくは厳密に言うと、
    「ライター=文章のプロ」だとは思ってないんです。

    文章がどんなに上手で、
    きれいな言葉を並べることができても、
    文章のプロとは言えません。
    文章は、アートではないからです。

    文章は、ただの「言葉の連なり」で、
    もっと言えば、「記号の連なり」でしかありません。
    それだけでは、プロとしてお金を得ることは、
    できないんです。

    たとえば音楽だったり絵画だったりは
    ものすごくきれいな音が出せたり、
    ものすごくきれいな絵が描ければ、
    それで対価が発生するプロに、
    なれるかもしれません。

    でも、少なくとも文章に関しては、
    きれいな言葉を並べることができるからといって、
    それでお金を得ることはできないんです。

    プロの文章書きというのは、
    文章が上手であるっていうことにプラスして、
    それとは別のところで、才能や技術、
    そういうものが必要になります。

    小説家の方々にしても、文章が上手だから
    小説家としてご飯を食べられているわけじゃない、
    と思います。

    物語を作ることができたり、
    キャラクターを生み出せたり、
    それをおもしろく動かすことができたり、という
    言葉そのもの意外の能力の価値を認められて、
    たくさんの人から支持されたり、
    それで原稿料をもらったり、
    ということができているんだと思います。

    そう考えると、ライターも
    「文章のプロとはちょっと違うぞ」って
    いうのが第一点です。

     

    ライターの価値とは?

    では、ライターとは、何のプロなんでしょう?
    いったい、ライターって何なのか?

    「書かない人のためのライター講座」
    というタイトルを説明するにあたって、
    まず「ライターの価値とは何か」という
    お話しをします。

    基本、ライターの一番大事な価値というのは
    「取材」にあると思っています。

    自分が話を聞きたい人にインタビューするとか、
    どこかに出かけて行ってその土地のことを調べるとか、
    図書館に行って文献を調べるとか、
    取材にはいろんなものがあります。
    それらの取材のプロというのがライターであって、
    言葉や文章は「取材したことを、どのように伝えるか」
    という段階でのツールでしかないと思います。

    「文章が上手に書ける書けないっていうのは
    ライターの本質的なところとは、それほど関係がない」
    というのがぼくの考えです。

    究極、「取材のプロがライターなんだ」
    という定義で考えると、
    「書かないライター」というのも
    大いにあり得るんですよね。

    ぼくが「書かないライター」っていう時に
    真っ先に思い出すのが、淀川長治さんです。

    テレビの日曜洋画劇場で解説をされていて、
    一応肩書きとしては、映画評論家になるんでしょうけど
    淀川さんは、たくさんの映画を見て
    たくさんの監督さんや俳優さんに会って
    取材をして、お話を聞いて、
    何かを文章にして評論するというよりも、
    毎週、テレビ番組の中で、
    ひたすら紹介に徹してましたよね。

    この作品は良いとか悪いとか、
    上から評価を下す人としてではなく、
    「この映画は、こういう映画なんです。
    この監督は、こういう監督で
    こんなところが素晴らしいんですよ!」
    っていう紹介に徹していた。

    ああいう淀川さんの姿勢は、
    ブラウン管の中のライターだし、
    ブラウン管の中の取材者だったんじゃないかな、
    と思っています。

    だからこそ、淀川さんの言葉は
    ぼくたち視聴者にとてもよく響いたし、
    「淀川さんがこういう風に言ってるから、
    見てみようか」っていうふうに
    その後じっと、チャンネルを変えることなく
    ブラウン管を見つめるっていう時間が
    あの時代にはありました。

    それと同じように、文章を直接書かなくても、
    みなさん自身がライターになることはできるし、
    ライター的な「目」や「耳」を持って
    世の中を眺めて、取材していって、
    それを自分なりに咀嚼して、誰かに伝えることが
    できると思います。

     

    取材ってなんだろう?

    書く書かないっていうのは、案外二の次の話で
    取材をするっていうところに力点を置いて、
    今日の話を進めたいと思っています。

    ライターの目を持って、世界を眺めてみると、
    多分たくさんの発見があると思うんです。

    何回も取材って言葉が出てきましたね。
    取材って、ライターとか編集者以外の方々にとっては
    なかなか馴染みのない言葉で、
    ちょっと特別な行為のように思われるかもしれません。

    「取材って何だろう?」って考えてみます。
    取材って言葉を聞いたときに思い浮かべるイメージって
    インタビューするとか、記者会見に参加するとか、
    図書館に行って何か調べるとか、
    フィールドワークみたいにどこか現地に行って
    徹底的にその土地のことを人に話を聞いたり
    いろんなことをして調べまくったりする、
    っていうような具体的な映像を
    思い浮かべがちだと思います。

    ただ、もっとシンプルに
    取材の一番の基本にあるのは何か、
    っていうのを考えて欲しいんです。

    取材の基礎にあるものは、
    「何かを知ろうとする態度」なんですよ。

    「何かを知ろうとすること」が、
    すべて取材だと、ぼくは思っています。

    自分がまだ知らないこと、
    もっと知りたいこと、
    ちょっと興味が湧いちゃったこと。
    そういうことを知ろうとして、
    そこに目を向けたり、目を凝らしたり
    耳を傾けたり、手を伸ばしたり
    そういうふうにしていくことが
    すべて取材だとぼくは考えています。

     

    取材と勉強の違い。

    何かを知ろうとすることが取材だとしたら
    取材と勉強の違いはどこにあるの?
    って思うんですね。

    何かを勉強するっていうのも知ろうとする態度だし
    知ろうとする行為が勉強だし、
    取材と勉強とどこがどう違うんだろう、
    と考えるかもしれません。
    でも、これは簡単です。
    勉強っていうのは、基本的に自分のために
    やることなんですよね。

    自分がそれを知る。自分がその知識を仕入れる。
    そこで一旦完結するものが、ぼくは勉強だと思います。

    取材で一番大事なのは、そこで仕入れた知識とか情報を
    誰かに伝える、ということです。
    誰かに伝えるために、何かを勉強しに行く。
    それが取材です。

    たとえば、ぼくが糸井重里さんの話を聞く。
    これは、どこにも発表することのない
    プライベートのおしゃべりなんだ、
    あるいはプライベートの学びの機会なんだ
    って思っていたら、
    それは取材じゃなくて勉強かもしれません。
    でも、ここで糸井さんから聞いた話を
    ぼくが誰かに伝えたい、みんなでシェアしたい、
    って思った瞬間に、
    そこでのやりとりは取材になるんです。

    誰かに伝える、っていう前提で話に耳を傾けると
    まったく違うんです。
    自分だけがわかっていればいい、っていうもの
    ではなくなって、自分以外の、別の目や耳をもって
    話を聞くことになります。
    今、自分はこういう風に理解したけど、
    もしかしたら、
    これからぼくが伝えたいと思ってる読者の人たちは、
    こういう疑問を持つかもしれないな、
    というふうに、ちょっと糸井さんを
    ながめるカメラの数が増えるんです。

    自分1人だったら、
    1台のカメラでまっすぐ糸井さんを見て
    その言葉を吸収して、
    「あぁ、なるほど。おもしろいなぁ、すごいなぁ」って
    話は終わっちゃうんですけど。

    自分の後ろに読者がいる、あるいは
    この話をぼくは誰かに伝えなきゃいけない
    っていう前提に立つと 、
    カメラの数が圧倒的に増えるんですよ。

    たとえば、ぼくは、もうすぐ50歳になる男性ですけど
    「20代の人はこう思うかもしれないな」とか
    「女性ならこんな疑問が出てくるかもしれないな」とか
    カメラが増えることによって、
    糸井さんに聞くべき話も変わってくる。
    糸井さんの話をどう咀嚼して、それから
    今の話をどうやって次の質問に展開していくのか、
    っていうのも変わってきます。

    こういう話をしていますけど、
    今日のこの話を「誰かに伝える」っていう前提で、
    これから聞いてほしいんです。

    家に帰って家族の人に伝える、だとか
    来週友だちに会ったときに
    「ほぼ日の學校で、こういう話聞いたんだよ」
    っていうふうに話をするとか。
    そんなふうに、誰かに伝える前提で
    今日の話を聞いてもらうだけで、
    そばだてる耳の大きさが、全然変わってきます。

    自分1人理解すればいい、っていうのと
    あるいは自分1人だったら、
    理解しなくても構わないんですよね。

    伝える義務というか、
    それを言語化する義務がなかったら、
    わからなかった話、わからなかった言葉は
    そのままスルーして大丈夫なんだけど。

    誰かに伝えるっていう前提に立つと、
    そうもいかなくなって
    「今の言葉分からなかった」、
    「今の話どういうことなんだろう?」
    というふうに思って、もうちょっと突っ込んで聞くだとか
    あるいは家に帰ってから、
    「あのとき言ってた何々っていうことは、
    どういう意味なんだろう?」ってネットで調べる、とか
    本を読んで調べる、とか
    その後、いろんな調べ物が増えてきます。

    そういう目で世の中を見て、人の話を聞くだけで、
    物事の深度、奥行きが、全然変わってくるんです。
    ぜひ、やってみていただきたいな、と思います。

     


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