往復4時間歩いてでも、こどもたちは学校に行きたい。
学ぶということが、
じぶんたちの未来をつくるなによりの材料だから。
ネパールで生まれ、日本との架け橋になった
シャラド・ライさんは、故郷に学校をつくりました。
そんなシャラドさんにネパールでの暮らしや、
ネパールで起きている深刻な問題について伺いました。
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業の一部を
読みものでご覧ください。

>シャラド ライさんプロフィール

シャラド ライ(Sharad Rai)

NPO法人YouMe Nepal代表理事。
1987年生まれネパール・コタン出身。
2011年APU卒業、2014年東京大学大学院卒業。
APU在学中にネパールで日本型教育を教える学校
”YouMe(夢)School”を設立。
15年には2校目をクラウドファンディングなどで
出資を募り開校。
8名の生徒から始まった学校は現在360人に。
現在は東京大学博士課程在籍し、
東京とネパールを行き来しながらパラレルワークを実施。

Twitter
NPO法人YouMe Nepal

  • ネパールでの暮らし

    みなさん、ナマステ〜
    ネパールから来た、シャラド・ライです。
    よろしくお願いします。

    本日は、なぜ私たちがネパールの故郷に
    学校を作ったかについて皆さんにお話ししたいと思います。

    ネパールは、
    インドと中国の真ん中にある国です。

    僕はいつも、国の大きさを動物に例えます。
    もしインドがトラだったら
    (インドにはベンガルトラがたくさんいますので)、
    中国はライオンです。

    大きな国々の真ん中にあるネパールは、
    猫ではなくてネズミですよ(笑)。
    今までよく生き残ってきたな、という感じです。

    内陸なので、経済活動は難しいです。

    僕の故郷は、国の東にあるコタン郡というところにあります。
    未だに家には電気がきていません。

    ですので、夕方の8時頃になるとみんな寝ています。
    僕も子供の時は早くに寝ていました。
    そして朝は4時半から5時頃に起きます。

    自分の家にはガスもありません。
    ご飯は、ジャングルの中にある木材を持ってきて作ります。

    子供の時は、水汲みが一番最初の仕事でした。
    朝、片道1時間半から2時間かけて水汲みに行きます。
    この「水がない」という大きな問題は、今も続いています。

    故郷は自然と隣り合わせなので、
    家の近くまでベンガルトラなどが来ることが普通でした。
    チーターなども来ています。

    故郷から2キロほど下に行くと、
    ガンジス川の上流があります。
    子供の頃はガンジス川の上流まで、
    泳ぎに行きました。

    遊び道具はほとんどなかったので、
    ヤギや水牛を川まで一緒に連れて行ったりとか、
    水牛の上に乗って口笛の練習をしたりして遊んでいました。

    1時間半かけて山の上にある学校まで通います。
    その場所からはエベレスト山が見えました。

    その後また1時間半ぐらいかけて
    家に戻っていました。

    ネパールの学校には、今も給食の文化はありません。
    お金持ちの子供が通う私立学校には
    給食がありますが、自費です。

    政府が運営している学校には給食はないので
    朝ご飯を食べ、学校に行った後は
    夕方頃に帰ってきてからご飯を食べるのが普通でした。
    大変だとは全く思いませんでした。
    給食という概念を知らなかったからですね。

     

    人生が変わる大きな奇跡

    僕が10歳の時、人生の中で大きな奇跡が起きます。

    その頃、首都カトマンズにある
    教科書にも載るような素晴らしい学校が
    入学試験を行っていました。

    僕は1日かけてお父さんに試験場まで連れて行かれ、
    試験を受けました。

    でも合格なんて想像できませんでした。
    その学校は、雲の上の存在だったんです。
    これからの自分の人生で、この世界で、
    よい教育を受けることはもうないだろうと思っていたんです。

    でも、奇跡的に合格することができました。

    全国で約1万人ほどの子供達が受験し、
    99人だけが特待生として選ばれました。
    国がお金を出してくれたため、
    僕も学校に通うことができました。

    毎朝7時にニュース番組があり、
    5分前になると、国が全国に放送したいニュースが流れます。
    その時間だけ、試験の合格者として
    自分の名前が呼ばれるかを聞いていました。

    ある日、自分の名前が呼ばれた時は
    とても嬉しかったです。
    これから人生が変わるのだと感じました。

    首都カトマンズへ行くには、
    3日間歩いてバス停まで
    行かなければなりませんでした。

    ガンジス川の上流を1日中
    ずっと歩いて行きます。
    その後、小さな川を58回ぐらい渡ります(笑)。

    7、8時間ほどかけて、
    3000メートルの山を登ったりもしますね。

    3日間かけて、やっとバス停まで着きます。
    それからお父さんに連れられて、カトマンズに行きました。

    これから先の自分の人生に、
    少し重さを感じていました。

    国が僕に国費を払ってくれるので、
    ある意味では自分への
    出資のようだと思っていました。

    学校は全寮制で、ベッドや朝ご飯、制服など
    高校を卒業するまでにかかる全てを
    国が支払ってくれました。

    ただ、カトマンズから自分の家には
    年に2回しか帰れませんでしたね。

    長いお休みの時に帰るのですが、
    そのバスの切符代や3日間歩くために必要な費用まで
    国が支払ってくれました。

    国は本当に自分の親と
    同じような気持ちだったんだと思います。

    自分の家に帰るまでの道のりも、
    アドベンチャーのようでした。
    当時10歳でしたが、1人で家まで向かいましたね。

    カトマンズから家の近くのバス停まで
    14時間夜行バスに乗り、
    そこからまた3日間家まで歩かなければなりません。

    途中にホテルやレストランなど、
    泊まれる場所はもちろんありません。

    夕方になるとどこかの村へ行き、
    全然知らない人の家に
    「今日、泊まらせてください」と頼みます。

    ヒンドゥー教には、
    「夕方に来るお客さんは神様のような存在である」
    という文化があります。
    よくその文化を使いました。

    しかし、それで終わりません。
    ジャングルの中からトラなどが出てくる恐れがあるので、
    知らない大人の数十メートル後ろを
    ついて歩いたりしていました。

    大変でしたが、本当にいい思い出もたくさんありました。

     

    人生とは何かを考えた中学時代

    一番苦しかった時期は、
    中学校1年生か2年生ぐらいの時です。

    カトマンズの学校で、
    人生とは何なのかを考えて、
    ずっと本を読んでいました。

    ブッダについて書かれた本も
    読みましたね。

    その時僕は日本だと中学校2年生の頃で、
    ブッダのようにはなれず、
    世界の全てが分かりませんでした。

    人生ってなんなのか、生きるってなんなのか、
    人間ってなんなのか、と、分からないことばかりで。
    ブッダみたいになりたいと、ほぼ決めていたんです。

    校長先生とは毎晩、人生について議論していました。
    先生から、
    「国のために何かをやりたい気持ちがあるのであれば、
    自分だけの幸せしか考えないのは、
    わがままかもしれないよ。
    いつかネパールを出てもいいけれど、
    今、少しでも国のために何かをしたいのであれば、
    よく考えた方がいいんじゃないか」
    と、国を出ることを止められたことがありました。

    その気持ちは、今もずっと心の中にはあります。

     

    日本からネパールを見つめ直す

    日本に留学する1年前、
    ネパールから、日本の外務省に
    学生大使として招待されます。

    東京や京都、広島などのさまざまな日本の文化や、
    日本という国を見てほしいというプログラムでした。

    その時はまだ、日本語は全くできませんでしたが、
    日本を見て本当に素敵な国だなと思いました。

    当時、僕はもともと
    アメリカに留学することを考えていました。

    でも、日本に訪れたことをきっかけに
    日本に行きたいと思い、
    立命館アジア太平洋大学に留学しました。

    日本に来てから、自分の国のことを
    より考えるようになりました。

    国のことが、鏡のように自分の中に出てきましたね。
    自分の国は何なのかとか、自分は誰なのか、とか。
    世界から見た自分の国を
    客観的に見ることができましたね。

    自分の国について調べていきました。
    そして調べていくうちに、衝撃的な情報を発見します。

    それは、ネパールから国外に出稼ぎに行く人々の数です。

    ちょうどそのタイミングで、
    故郷の友達たちが何をやっているかについても
    調べていました。

    その時はFacebookが流行っていたので、
    Facebookを使って彼らを探しました。

    その結果、彼らのほとんどがネパールにいなかったんです。
    出稼ぎに行っていました。

    彼らに、働き先のこと、
    そもそもなぜ働きに行かないといけなかったのか、
    出稼ぎに行ってからどのような仕事を行っているのか、
    話を聞いてみました。

    すると、彼らのほとんどが高校を卒業することが
    できなかったことが分かりました。

    中学校すら卒業できない人が多かったのです。
    しかし、彼らのほとんどは既に結婚していました。

    仕事について彼らからより詳しく聞いているうちに、
    過酷な労働をしていたのだということを
    直接聞くことができました。

     

    出稼ぎ労働のかなしい現実

    驚いたのは、毎日12時間以上働いている
    ということです。
    それも、1週間休まずにです。
    中には1年間、1日も休まずに働いていた友達もいました。

    僕の故郷だけの問題かなと思っていたのですが、
    調べてみたらネパール全体の問題だったんです。

    その当時、1200人ぐらいが毎日出稼ぎに行っていました。
    そして3人から4人が、そこで命を落とし、
    遺体で戻ってくることもあったのです。

    これを聞いて、すごく悲しい気持ちになりました。
    出稼ぎに行った後、遺体で戻ってきたという話が
    どこか別の村の話なのかと思っていたら、
    自分の故郷でも実際にあったんです。

    10歳まで一緒の学校に通っていた友達2人が亡くなり、
    彼らも遺体で戻っていたということが分かりました。

    本当にこれはネパールのどの村も
    経験していることなんだなと思いましたね。

    その時、みんなが
    「好きだから」「趣味のため」
    「そういう人生を送りたいから」
    という理由で海外に行っている
    わけではなかったと気づきました。

    彼らには選択肢はなく、
    行かなければならなかったのです。

    結婚して子供が生まれる日の直前に
    出稼ぎに行く人々もいましたし、
    行って帰れなかった人々もたくさんいます。

    そもそも、彼らが出稼ぎに行く前には
    大きな問題が一つあります。

    海外に行くためには、やはりお金が必要ですよね。
    多くの人はお金を持っていないので、
    村の中でお金を持っている誰かから
    借金をしなければなりません。

    借金をすると50%から60%の
    利子をつけられるんです。
    そうなると、出稼ぎに行ったとしても、
    利子を返すだけで終わってしまうんです。
    彼らはそれで絶望してしまいます。

    海外に行く前は
    「海外に行ったらお金をたくさんもらえて、稼げるんだ」
    と自信満々です。
    しかし、そんなに簡単ではありません。
    実際に行ってみると、大変だということに気づきます。

    このように、
    たくさんのかなしい現実があったということがわかりました。

     


    シャラド ライさんの授業のすべては、
    「ほぼ日の學校」で映像でご覧いただけます。


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