みなさま、おひさしぶりです。
2000年(まだ20世紀!)に始まった
「新宿二丁目のほがらかな人々。」。
連載の3シリーズ目「ゴージャスって何よ?」から
2015年の68シリーズ目「結婚って言われても。」まで、
ジョージさん、つねさん、ノリスケさんの3人で、
ほがらかなトークをお届けしてきました。
その後、ジョージさんとは「ほぼ日」で
いろんなお仕事をご一緒してきましたけれど、
最近はめっきり3人での登場がなく、
「どうしているかなぁ」なんて思ってくださったかたも
いらっしゃるかもしれません。
また、あのトークが聞きたいな、と、
「ほぼ日」も思っていたのですけれど、
残念なおしらせをしなければいけなくなりました。
2020年4月23日、木曜日の朝、
ジョージさんのパートナーであるつねさんが、
亡くなりました。
56歳でした。
そのときのこと、そしてつねさんのことを、
この場所でちゃんとおしらせしたいと、
ずっとそばにいたジョージさんが、
文章でお伝えすることになりました。

イラストレーションは、ジョージさん、つねさんと
とても親しかったイラストレーターの
おおたうにさんが担当してくださいました。

なお、「ほぼ日」には、これまでの、
アーカイブも、たーーーーっぷり、残っています。
ほがらかにおしゃべりする3人に、
いつでも、ここで会えますよ。

文=ジョージ
イラストレーション=おおたうに

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その3 パパとおとうさん。

彼が亡くなった日、遅くなってから、
朝からなにも食べていなかったことに
やっと気づいたボクでしたが、
といって、料理を作る気にはなれませんでした。

キッチンには、昨日、彼が夜食に作った
ナポリタンを作った鍋や、
食べ終わった食器がそのまま並んでいます。
冷蔵庫の中に封を切ったばかりの牛乳があったので、
手鍋で沸かして、
ホットミルクを作って飲みました。

お腹の中に、
ポッと明かりがつくようなあたたかさ。
自然な甘みに、思わず、
「おいしいね‥‥、おとうさん」
そうつぶやいたら涙が出てきました。

おとうさん。
ボクは彼のことをそう呼んでいました。
そして彼はボクのことを
「パパ」と呼ぶのが常でした。

男同士のパートナーって、
互いをどう呼ぶか悩みます。
夫婦というわけじゃないから、
あなた、お前、じゃ、ちょっとおかしい。
名字や名前から一文字、二文字もらって
それに「さん」とか「くん」とか、
あるいは「ちゃん」とかをつけたニックネームで
呼んだりすることもあるけれど、
それはちょっとボクたちには
「らしくないな」と思っていました。

付き合いはじめた当時、
彼はペットを飼っていました。
気まぐれな小動物で、
でもその子がとてもかわいらしく、
ボクもたちまち虜になりました。
その子は女の子で、彼は「娘」とよく言いました。
それで、彼女をあやしながらボクは何気なく
「そろそろおとうさんに代わってもらいましょう」
と、その子を彼に手渡しました。
「パパ、ご苦労さま」と彼は自然に彼女を受け取り、
それからボクはパパ、
彼はおとうさん、になったのでした。

さすがに人前で、パパ、おとうさんとは言いません。
彼はボクの苗字に「さん」、
ボクは「くん」をつけて呼び合っていたけれど、
それがなんだか他人行儀で
くすぐったくってしょうがなかった。
たまに気持ちがゆるんで
「おとうさん」「パパ」と呼んでしまうことがあって、
そんなときには笑ってごまかしました。
ただ近所のスーパーでは、
どうもボクたちが、パパ、おとうさんと呼び合う
不思議なおじさんカップルとして有名みたいで、
先日も彼がどこにいるんだろうと探していたら、
「おとうさんなら魚売り場にいましたよ」
なんて言われましたっけ。

会社や家族や友人たちにはしたカミングアウトですが、
世間に向けて「ふたりはパートナーです」と
強く言いたいと考えたことはありません。
身近な人が言いにくそうに「そうですか?」って
訊いてくれば、否定はしませんでしたが、
自分たちからそういうことを言うのは
見当違いだろうと思っていたから、
わざわざ告白なんてしなかったのです。
けれど、振るまいや、ふたりの距離感、
接し方を見ればみるほど、
この人達はどういう関係なんだろうと、
不思議に思う人は多かったに違いなかったことでしょう。

馴染みのお店ではボクはお兄さん、
彼は弟さんと呼ばれることも多くありました。
ふたりで頻繁に、
しかも仲良さそうに食事に来る、
いい歳をしたおじさんたち。
年齢も近そうに見えるふたりの関係性を表わすのに、
もっとも差し障りがなくて居心地のよい答えが
「兄弟」というものだったのでしょう。
それに実際、顔の造りを含めて、
ボクと彼はよく似ていました。
注意深く比較すれば
決して似ているわけじゃなかったけれど、
雰囲気だとかムードが似ていたのです。
20年以上もずっと一緒にいると、
不思議と人は似てくるものなんですね。

似た者夫婦ならぬ、似た物パートナーのボクらは、
兄弟と思われることを実は密かにたのしんでいました。
はじめて行ったお店で
ご兄弟ですか? なんてお店の人から訊かれると、
「はい」って答えて、
また訊かれたね‥‥、ってはしゃいだりした。
その日の装いや気持ちの置き方で醸す印象が違って見え、
年上のボクが弟のように見えることもままあって、
お店の人に、
どっちが兄だと思いますかと質問をして、
お兄さんと言われたほうが食事をおごる、
なんてゲームをしたりもしました。

夫婦ではなくパートナー。
互いを愛し、
仕事も生活もともにして、
兄弟のようでもあった大切な人。
あぁ、いなくなってしまったんだと、
ホットミルクを飲み終え、ため息をつきました。

この段階ではまだ
はっきりとした死因は特定されていませんでした。

彼の異変を発見し、
通報してから消防が到着するまでの時間。
それはそれは長く感じるものでした。

心臓が動いているかと左側の胸に耳を当てると、
脈打つような音がしました。
それで必死に胸を押し、心臓マッサージを試みました。
反応がないので、鼻をつまんで息を吹き込むも、
入った空気がそのまま出てきます。
再び胸に耳を当てると音はありません。
さっき聞こえた音はボクの心臓の音だったのです。
手首に指を置いても脈を感じることはなく、
あぁ、やっぱり手遅れなんだと、
それからしばらく後ろから抱きかかえるように
体をあわせてじっとしていました。

それがお別れのハグ。
人工呼吸がお別れのキスになりました。

遺体は病院に運ばれ司法解剖をされることになります。
もし入院中の死亡であれば
その原因は特定しやすく、
家で亡くなるにしても、高齢であれば、
やはりその原因の選択肢は
極めて絞り込まれるけれど、
まだ56歳という若さです。
しかも前日まで
普通に生活をしていたことからの突然の死。
死因不詳と書かれた調書には、
殺人の可能性も視野に入れて、と、
仰々しい一文が書き込まれていました。

時期が時期ということもあり、
すぐに解剖が行われることはなく、
死亡から一週間も彼の死因は不明のままで
ボクの気持ちも宙ぶらりんになってしまいました。

頭に浮かぶのは後悔ばかり。
彼の病気は死に至るほどに
深刻な状態だったんだろうか‥‥。
なにか彼にしてあげられることはなかったんだろうかと、
いろんなことを考えました。

彼はあまり持病のことを話したがりませんでした。
ボクを心配させたくなかったのかもしれません。
あるいは話すことで
ボクに負担をかけたくなかったのかもしれません。

会社が倒産して以降、
ボクの仕事は小さくなっていくばかりでした。
仕事に一番大切なのは信用です。
にもかかわらず経営に失敗して会社を潰すということは、
信用をおおいに損なうこと。
ボクはコンサルティングが仕事でしたから、
そんな人間に指導なんかしてもらいたくない、
と言われても当然です。
多くのお客様を失いました。

経営していた会社は大規模で、
60人ほどのコンサルタントに
40人近くの社員を抱えていました。
倒産にあたり、経営者として最大の責任として、
その後も彼らが食える状態を作らねばなりません。
スポンサーを募って別の代表を立て、
事業の継続とコンサルタント全員の
雇用の保全を試みるも、失敗。
コンサルタントのほとんどを、
お客様と直接契約をすることで、
食べられるようにしました。

ということは、ボクがコンサルタントとして
バリバリ活動していては、
彼らの邪魔をしてしまいます。
だからしばらく活動を控えました。
それでもボクを気に入ってくれるお客様がいて、
直接、仕事のオファーの連絡がきました。
けれどボクでなくてもできる仕事は、
みんな社員だったコンサルタントに任せ、
ボクは自ら営業することをしないと誓いました。

にもかかわらず、
20社ほどがボクと契約をしてくれました。
彼が経理を手伝ってくれたりもして、
ボクはなんとか食えるようになりました。
経費を払って家賃を払い、
ボクと彼の給料を出し、
ときおりちょっとだけ贅沢な食事も
出来なくはない程度の生活ができました。
けれど決して裕福というわけではなく、
売上は年々減り続けていきました。
なにしろ「宣伝をしない、営業もしない」
と誓った仕事です。

その状態を一番よく知っていたのが彼でもありました。
だから負担になりたくなくて、
ボクに正直に病気のことが言えなかったんだろうか。
病院の人が知らせようにも、
ボクはあくまで他人で、家族じゃない。
たとえボクが意を決して病院に押しかけ、
彼の体の状態はどうなんですか‥‥、
と訊いても、それは個人情報ですと、
教わることはできなかったに違いない。
「パートナー」とは社会の中で、
なんと儚くたよりない関係だったんだろう。

一週間して手渡された死体検案書の死因の欄には
「不詳」と書かれていました。
頭の真ん中、脳の部分に
大きな血溜まりがあったそうです。
その近くにも小さな血溜まりがあってそれは完治寸前。

「もしかしたら一度、
脳溢血の症状があったのかもしれませんね。
おそらく脳内出血が直接の死因だけれど、
それが果たして何が因果で発生したのかわかりません。
ただ苦しまずにお亡くなりになったでしょう」
‥‥、と、そのことばが救いとなりました。

泣きました。

(つづきます)

2020-06-14-SUN

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