
みんなの記憶に残る夏でした。
2006年、夏の甲子園決勝。
引き分け再試合を制した早稲田実業で、
マウンドに立ち続けた斎藤佑樹さん。
その夏から「ハンカチ王子」と呼ばれ、
つねに注目を浴び続ける人生を歩みました。
思い描いていた成績は残せなかったものの
「今度こそは!」と期待させる魅力があって、
糸井重里も、関心を寄せていたひとり。
「株式会社 斎藤佑樹」を立ち上げ、
自身の可能性を模索中の斎藤さんのもとを
糸井が訪ねて対談をしました。
斎藤さんの人生にはいつも、
野球とハンカチが交わっているんです。
斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)
- 糸井
- 野球をするにも人数の足りない中学校から
強豪の早稲田実業に入って、
高校のレベルはどうだったんですか。
- 斎藤
- まず驚いたのが、3年生の先輩に140キロを投げる
ピッチャーが2人いたんですよ。
プロ注目のダブルエースです。
高校に入って、そのおふたりを見て、
「うわっ、この先輩たちみたいにならないと
甲子園には行けないんだ」と思ったんです。
でも、その先輩たちでも甲子園には行けなかった。
ということは、その先輩たちよりも、
もっと頑張らなきゃっていう衝撃を受けました。
- 糸井
- それで、どうしようと思うんですか。
- 斎藤
- まずは、スピードですね。
高校3年生の春までに145キロは出ていないと、
甲子園で優勝どころか、
出ることすらできないって考えました。
そのためにもいっぱい食べて、
トレーニングもいっぱいして‥‥、
本当に漠然と、それしかなかったです。
- 糸井
- スピードを上げる方法を
知っているわけじゃないんですか。
- 斎藤
- いや、知らなかったんですよ。
知っていたら、みんながそれをやってますから。
- 糸井
- へえー、おもしろいですね。
方法はわかってないんだけど、
いっぱい食べて、いっぱいトレーニング。
練習量の総体が欲しくなるんですかね。
- 斎藤
- この練習をしたから
絶対に成功するってわけじゃないんですよね。
人によっても適正は違いますし、
それを早く自分で見つけないといけません。
しかも、先日まで中学生だった野球少年が
そんな方法を見つけられるわけがなくて。
- 糸井
- ああ、たしかにわかりませんよね。
それでも、ピッチャーグループには
望みどおり入れたんですよね。
- 斎藤
- はい、ピッチャーグループに入りました。
ピッチャーの練習メニューがあって、
自主練の時間にフォームを見直したり、
トレーニングしたり、ランニングしたり、
瞑想したりする選手もいましたね。
- 糸井
- ピッチャーの先輩達を横で見ていると、
ただ食べて、走ってるだけじゃ
ダメだよなって思いますよね(笑)。
練習メニューを考えてくれる人は、
今の高校だったらいるんですか。
- 斎藤
- 今だったらいると思いますね。
今なら、投げたボールの回転数や回転軸、
スピードを調べることができて、
そのデータからフォームの特徴が出せるんです。
それがあった上でここを鍛えようとか、
練習メニューにつなげられるんですが、
ぼくが高校生だった2006年には、
まだそれが一般的ではなかったんです。
- 糸井
- スポーツ科学の進化って、
きっと、そのあたりからなんでしょうね。
- 斎藤
- 自分が何を取り組むべきかを知ることって、
スポーツの課題だと思うんですよね。
ただ、効率化だけを求めてしまうと、
得られるものも得られなくなってしまいます。
がむしゃらに走るとか、理不尽なことをやるとかは、
ぼくも経験したことです。
でも、効率だけで鍛えていると、
自分だけがよければいいのか?
ということになってしまうなと思っていて。
そこも含めてチームワークといいますか、
野球人としてのあり方を学んだ気がします。
- 糸井
- 肉体の鍛錬だけじゃなく、
精神的な部分も含んでいますよね。
- 斎藤
- おっしゃる通りですね。
- 糸井
- WBCで、ダルビッシュさんが早く来日して
練習に参加していましたよね。
あの行動には心の意味づけがあって、
そのすごみは、みんなに伝わりましたよね。
「えーっ、いま来るんだ!」って。
- 斎藤
- メジャーリーグとの契約もあって、
ちょっと早く行かせてほしいっていう
交渉もあったはずです。
日本中の方たちもあの行動を見ていて、
野球選手のダルビッシュさんだけじゃなく、
「人間・ダルビッシュ有」のことを
すごいと思ったんじゃないでしょうか。
- 糸井
- ダルビッシュ選手って、もともとは
荒々しくてやんちゃなタイプでしたよね。
どんどん野球をやっていくうちに、
ああいう人になっていったんだって思うと、
ほんっといいですよねえ、スポーツって。
- 斎藤
- 野球にはそういう要素があると思いますね。
ぼくがよく言われてきたことで、
「高校で甲子園優勝したんだから、
そのままプロに行ったらよかったじゃん」と。
でも、ぼくがそのままプロに行っていたら、
野球人として大事なところが欠けたまま
プロになっていた気がするんです。
早稲田大学の4年間で得られた経験は、
野球人としてすごく大きかったと思います。
- 糸井
- それをはっきり言えるのは、とてもいいですね。
斎藤さんの大目標はメジャーリーグでしたけど、
その途中にある「甲子園優勝」は、
出場していた選手のみんなが
願っていただろうけど、本当にやれちゃった。
「やれるかな?」だったところから、
どうやって「やれちゃった」になるんですか。
- 斎藤
- 最初は本当にハッタリといいますか、
言ったらなんとかなるかなって思うくらいで。
で、目標を掲げてやっていくうちに、
ストレートのスピードも速くなっていって、
高校3年の春にセンバツに出られました。
そこで初めて、全国大会を感じられたんですよ。
自分たちのレベルを春の時点で把握して、
夏に優勝するためには何が足りなくて、
何をしないといけないかを考えるんです。
甲子園予選まで残り3か月しかないのですが、
もっとスピードを上げたいとか、
もっとスタミナをつけたいとか課題を出します。
それでも3か月で筋肉を増やすのは難しいんで、
フォームをちょっと変えるようにしたんです。
本当にいい形で流れができていましたね。
- 糸井
- その3か月って、めっちゃ短くないですか。
- 斎藤
- 短いですね。
ボディビルダーでさえも、
筋肉量は1年間で3、4キロしか増えないって
言われているぐらいですから。
栄養もちゃんと摂れているかわからない高校生が、
3か月で筋肉を増やそうとしても無理な話です。
だから、なにかきっかけをつかめるような
投球フォームに変えたんですよ。
- 糸井
- 誰かのアドバイスではなく、自分の判断で?
- 斎藤
- 早稲田大学に進学する野球部のOBがいて、
スポーツバイオメカニクスを学んでいる
先輩方からいろんな方法は教えていただきました。
そこから自分で選んで試した結果、
スキルアップできました。
- 糸井
- そっか、大学と高校が系列になっていると、
そんな良さもあるんですね。
でも、甲子園直前の3か月でフォームを変えるって、
すごく勇気がいると思うんですよ。
それでも、やろうと思った。
- 斎藤
- 周りからも心配されましたね。
「春にセンバツに出られて、そのままのフォームでも、
チャンスがあれば優勝できるかもしれない。
なぜ、わざわざフォームを変えて挑戦するんだ」と。
でも、ぼくの中には迷いがないんです。
明確に、松坂大輔さんという目標がいたので。
- 糸井
- はあー、そうか!
- 斎藤
- 150キロを投げて、スライダーもキレキレで、
スタミナが抜群にあって。
その姿を想像していたので、
そこに近づくためにどうしたらいいんだろうって。
だから、迷うことはありませんでした。
- 糸井
- 松坂さんは、弾むような投手でしたよね。
プロに入ってからも、
「新人だから速いんだよ!」って思ったくらい、
若さがあふれ出していたんです。
本当は無数の技巧に囲まれているんだけど、
ただの元気のいいものみたいに見えて、
応援しがいがありましたよね。
- 斎藤
- はい、本当にすごかったです。
- 糸井
- 同じ頃にチームのみんなが力をつけていくのも
感じられたんじゃないでしょうか。
- 斎藤
- センバツに出場できたことで
バッターのレベルが知れたのもよかったですね。
早稲田実業は西東京の代表なんですけど、
同じ地区に日大三高という
前年の甲子園でベスト8の強いチームがいて、
そこに勝てるぐらい強くならないと
甲子園に出場することはできないんですよ。
で、その日大三高にはホームランを
20発以上打つ選手がいっぱいいたので、
「じゃあ、俺たちもそのくらい
打たないとだめじゃない?」みたいな。
- 糸井
- 言うだけで、できるわけじゃないのにね(笑)。
- 斎藤
- そう、そうなんですけどね。
それでも、早くに全国のレベルを知れたことで、
高い目標を設定できたんです。
みんながウエイトトレーニングをはじめて、
バットスイングの量を増やしたおかげで
甲子園に行くことができました。
高いレベルの人たちを多く見るっていうのは、
すごく大事なことかもしれないですね。
- 糸井
- それについてはぼくも
格闘技の選手と話したことがありますね。
ブラジリアン柔術の人たちが
次々と日本に来ている時代があったんですよ。
なんであんなに強いんだって聞いてみたら、
強い人たちが先にいると、
そこに集まってくる人たちが強くなるんですよね。
右向いても左向いても強いやつがいるっていう場所で、
同じことをしていたら強くなるんです。
それは応用問題として、頭の中にいつでも持ってます。
低いレベルじゃないものを、お互いに見合っている。
絵描きの友達がいっぱいいる環境でもそうだろうし、
それが高校野球のチームなら、
すごい影響力を持っていたんでしょうね。
(つづきます)
2024-02-01-THU
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2006年の夏に「ハンカチ王子」と呼ばれ、
ハンカチフィーバー、ハンカチ世代と、
大きな注目を集めた、斎藤佑樹さん。
甲子園の優勝投手であることよりも、
ひとり歩きしていったハンカチと、
いま、改めて向き合ったのだそうです。
斎藤ハンカチ店の店主、
斎藤佑樹さんプロデュースのハンカチ。
うっすらと文字が見えてくるハンカチは
贈りものとしてはもちろん、
じぶんに向けたメッセージとしてもどうぞ。