雑誌『Sports Graphic Number』に
掲載されているスポーツ写真は、
どうしてあんなに胸を打たれるのでしょう。
1980年の創刊号から一貫して掲げている
「スポーツグラフィック」の魅力について、
『Number』とともにキャリアを積んできた
3人の写真家さんに語っていただきました。
競技の魅力を深堀りしたような写真も、
背景のストーリーを物語るような写真も、
現場を知る人の語りで魅力が深まります。
『Number』創刊40周年、通巻1000号を記念した
ほぼ日のオンライン企画、続編です。

>藤田孝夫さん プロフィール

藤田孝夫(スポーツカメラマン)

香川県三豊市出身。
小学、中学、高校と、野球に明け暮れる中、
TVで観たオリンピックのアスリートたちに心奪われる。
スポーツの現場に対する憧憬を捨てきれず、
後にスポーツカメラマンを志し上京。
1985~1990年(株)フォートキシモト在籍後、
1991年フリーランスとして独立、現在に至る。
オリンピックは1988年カルガリー大会から
2018年平昌大会まで夏冬17回連続取材中。

Number Webでのスポーツコラム

>近藤 篤さん プロフィール

近藤 篤(フォトグラファー)

愛媛県今治市出身。
上智大学イスパニア語学科卒業後、中南米へと渡り、
ブエノスアイレスにて写真を始める。
1993年に帰国後、
エディトリアルの世界を中心に活動中。
現在はスポーツから料理まで、撮影対象は多岐にわたる。

Number Webでのスポーツコラム

>榎本麻美さん プロフィール

榎本麻美(カメラマン)

東京都出身。
日本大学芸術学部写真学科卒業後、
文藝春秋写真部に入る。
『Number』でスポーツ選手のポートレートを
撮影するようになったのがきっかけで、
スポーツ写真にも興味を持ち撮るようになる。

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(7)浅田真央だけを照らした光

榎本
次に紹介するのは『Number』で
レイアウトされてよくなったものです。
こちら、平昌オリンピックのフィギュアで
写真自体は大したことない写真ですが。

Asami Enomoto Asami Enomoto

Asami Enomoto Asami Enomoto

ほぼ日
ザギトワ選手とメドベデワ選手。
榎本
ロシアのメダリストふたりの写真で
見開きページを作ってくれました。
これはデザイナーさんの
レイアウト勝ちと思ったんですよね。

Sports Graphic Number 947号 Sports Graphic Number 947号

藤田
フィギュアは背景が氷だから
レイアウトしやすいだろうね。
榎本
この写真、どちらも真ん中に入ってるから、
1枚だと使いにくい写真なんですが、
レイアウトで生きた写真だなと思いました。
文字が入ったほうがカッコよくなる写真って
あるじゃないですか。
藤田
あなた、正しい。

Asami Enomoto Asami Enomoto

榎本
これは使ってくれて嬉しかった写真。
ソチ五輪のエキシビションです。
藤田
これ、おもしろい写真だよね。
真央ちゃんのところだけ光が当たってる。
近藤
すごい!
榎本
ここに誌面では文字が入ることで、
真央ちゃんがさらに目立ってくれました。

Sports Graphic Number 848号 Sports Graphic Number 848号

藤田
でも、やっぱりそういうのはすごく考えてるね。
文字のフォントもそうだけど。
これいい写真。偶然性も必要だし。
近藤
これ自信作やろ。
榎本
やった!
近藤
俺、いろんなベテランの人の写真見てきたけど、
こんなレベルの写真ないですよ。
ほんとこれいい写真。
榎本
ありがとうございます。

Number
榎本は今日まで、
藤田さんと近藤さんに挟まれて
しゃべるのをずっと嫌がってまして。
近藤
嫌いなの? 
俺たちのことが嫌いなの?
榎本
いやいや。
だって、こんな大先輩たちと
写真で比べられると思ったら怖くて(笑)。
続いて、『Number』では
採用されなかった写真です。

Asami Enomoto Asami Enomoto

ほぼ日
平昌五輪の羽生選手。
榎本
これ、わかりやすく五輪のマークが
後ろに入っているんです。
撮った時には、いい具合に入ったぜ
と思ったんですよ。
近藤
いいじゃん。
これ使うやろ、普通。
榎本
『Number』では使われなくて、
週刊朝日の五輪号で表紙に使ってくれました。
ほぼ日
他の媒体で使われることもあるんですね。
榎本
そうなんです。
オリンピックには
雑誌協会として行っているので。
藤田
いわば、代表枠ね。
榎本
『Number』が使ったのは
こちらの写真です。

Asami Enomoto Asami Enomoto

榎本
たしかに平昌の羽生選手って、
印象がこの顔なんですよ。
食いしばっているんですよね。
藤田
演技の最後のほうで、
勝ったことがわかった後の表情だから。
榎本
おそらく、羽生選手のファンの方の立場にたつと
整っている表情のがいいかなとは思うのですが、
『Number』はスポーツ誌なので、
必死になって多少顔が険しくても
私はいいと思っているし、
そういった写真も抜かずに渡しています。
最終的には編集部が選ぶことなんですけど。
ほぼ日
榎本さん、ありがとうございました。
では最後に近藤さんはどうやって、
スポーツ写真を撮るようになったんですか。
近藤
ぼくはふたりと全然違っていて、
人生の流れのなかで
たまたまカメラマンになったんですよ。
もともとサッカーは好きで、
大学の時からサッカー専門誌の
スペイン語の翻訳のバイトをやっていまして。
大学卒業する年に1か月半ぐらいブラブラして、
バックパッカーで南米にたどり着いて、
メキシコワールドカップに行って
現地の新聞記事とか訳して生活してさ、
プレスセンターの女の人ナンパしてた(笑)。
で、ある時からカメラマン。
カメラマンをやろうって思ったのは、
超退屈だったからなんだよな、ものすごく。

榎本
バックパッカーが退屈?
近藤
バックパッカーってやることなくて、
要はプータローだからつまんないんだよね。
南米でブラブラしてた時に、
コパアメリカっていう大会に
日本人の人たちが取材に来ていて、
そのうちのひとりから、
「写真でもやれば?」って言われたの。
ほら、カメラ持ってたら
声かけやすいってことがあるじゃない?
藤田
それは絶対あるよね。
カメラマンって、カメラを媒介することで
人見知りを克服してる人、いっぱいいると思う。
言い方を変えると口実にもなるから。
カメラを持って、ましてやそれが仕事になると、
絶対的にコミットしなきゃいけない。
そういう意味合いもあるんですよ。
近藤
俺は人見知りじゃないけどね。
まあそうやってカメラマンを始めたのが
1987年なんですけど、仕事が来たら受けて、
あとは自分の言葉でうまく騙しながら、
たいした写真が撮れてなくても、
撮れたふうな感じでやってたのが若い頃。
榎本
それ、近藤さんしかできませんよ(笑)。
近藤
今でも覚えてますけど、
「近藤君ってさ、スタジオ撮れるの?」って聞かれて、
「あ、できますよ!」って答えるんですよ。
でも、そんなことやったことないわけ。
だからアルゼンチンにいる
カメラマンとかに電話して全部聞いて、
ファックスでライティングの絵を
送ってもらって撮影してましたからね。
藤田
俺も似たようなことはあるな。
できるって言っちゃうんだよ。
スタジオ行ったら車を撮るような広い空間に
でっかい機材が置かれててさ、
そこで人物撮るんだけど、
部屋の隅っこのほう使って、
使い切れないからすごく恥ずかしいの。
近藤
できるって言わないと、
俺らの仕事なくなるからね。
そうやって騙し騙しやりながら
30年ぐらいやってると、
なんとなく一人前にはなれるかなって。
ほぼ日
サッカー以外のスポーツを撮るようになったのは
いつぐらいからですか。
近藤
南米いた時からボクシングも撮ったり、
ラグビーも撮ったりしてましたよ。
旅雑誌の撮影もやってたしね。
だから、スポーツカメラマンへの憧れとか、
カメラマンへの憧れみたいなものはなくて、
今もあんまり憧れはないですね。
今だったら料理とかも撮ってるし、
このふたりみたいに、
明確なラインを目指してたわけじゃないんですよ。

(つづきます)

2020-08-31-MON

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