新年の訪れの日に、
能登半島を大きな地震が襲ってから1年。
そのあとも、さらなる余震、そして水害と、
つらい出来事が続きました。
ほぼ日も、少しずつ、できることを続けています。

そして、2025年の元日。
あれから1年が経った能登のことを、
なにかコンテンツにしたいと思い、
全国の旧市町村を旅している写真家、
「かつお」さんこと仁科勝介さんに声をかけました。

かつおさんは大学時代、
全国の全市町村をバイクでまわり、
それぞれの場所を写真に収める旅に出ました。
その後、東京23区内のすべての駅を訪れるなど、
「実際に現地を訪れる」計画を実行し、
2023年からは、合併以前の市町村をめぐる、
という長い長い旅をいまも続けています。
もちろん、能登にも何度か足を運んでいます。

かつおさんは、能登について、
いま、なにを思っているのだろう?
地震から1年が経ったいま、かつおさんに、
能登についての思いを書いてもらいました。
かつおさんが能登で撮った素敵な写真とともに。

>かつおさんプロフィール

かつお|仁科勝介(にしなかつすけ)

写真家。1996年岡山県生まれ。
広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2020年の8月には旅の記録をまとめた本、
『ふるさとの手帖』
を出版。
2021年10月から2022年8月にかけて、
東京23区の490ある全て駅を巡る
プロジェクト「23区駅一周の旅」
を完遂。
そこで撮影した、東京のささやかな日々を
まとめた写真集『どこで暮らしても』
2022年11月に自費出版。
2023年4月から、
平成の大合併で合併した約2000の旧市町村と、
20都市ある政令指定都市の区を巡っている。
かつおさんのサイト「ふるさとの手帖」

■かつおさんのほぼ日のコンテンツ
能登に行ってきました。写真:仁科勝介
神田の写真。
書いて学んで撮るかつお。初めてのほぼ日手帳
若い3人、気仙沼へ行く。

  • 土地を愛する人がいる限り、
    その土地は生き続ける。

    2024年の年の瀬が近づいてきた頃、
    私は珠洲市役所で働くTさんに電話をかけた。
    Tさんと初めて出会ったのは、
    珠洲市の「海浜あみだ湯」という銭湯で、
    9月に大きな水害が起きてしまった後だ。
    一年の間に同じ地域で二度も巨大な災害が起きて
    しまったことは、とにかく心がねじれるほどに悲しい。
    私は友人のツテを頼りに、あみだ湯に
    ボランティアで一週間滞在させてもらっていた。

    出会う方たちとは初対面だった中で、
    Tさんは仕事終わりによくあみだ湯へ来ていて、
    私が外の隅っこで泥のついた子どもの靴を洗っていたときに、
    わざわざ声を掛けにきてくれたり、
    大人数で食べる夕食用の鍋の味に困っていたとき、
    颯爽と現れて絶品キムチ鍋にアレンジしてくれたり、
    慣れない私を気にかけてくれた、
    やさしい一児のお父さんだった。

    そんなTさんに電話をかけたのは、
    どうしても話を伺いたかったからだ。
    何日もずっと考えていたけれど、どうしても分からなかった。
    もうすぐ震災から一年が経とうとしている中で、
    能登に直接深く関わる人たちにとって、
    どんな感情が心の中にあるのかということが。

    ただ、そのような質問はとても無礼だし、
    寄り添えているとは言い難い。
    また、どうしても聞かなければ分からないと感じた、
    自分の想像力の欠如を最初に詫びた。
    それでも、Tさんはこの後ろめたさに
    そっとうなずいてくれた。
    Tさん自身、一月一日は珠洲を離れていた。
    それはもちろん命の観点からすれば
    良かったと言えるだろうし、
    それでもそのときその場にいなかったことによって
    理解できない感覚があることは、
    なかなか寄り添えない気がして、役に立たない気がして、
    負の感情になるとTさんは仰った。

    振り返ってみれば、
    「ほかの人よりも自分は‥‥」という類の話は、
    能登でもよく耳にした言葉だった。
    特に、被害が誰かよりも小さかったり、
    もっと辛い思いをしている人がいると
    感じていたりする方の言葉の中には、
    いつも申し訳なさそうな含みがあった。
    そのことをつきつめていくと、
    能登の土地に思いを持つすべての人たちにとって、
    誰かと比較するような感情がつきまとってしまう。
    私は天災のもたらすもうひとつの悲しみは、
    誰しもが悲しみを抱くことはできても、
    ひとりひとりが異なるその悲しみの深さに、
    完全に寄り添うことができないことにあるように思う。

    そして、一月一日が近いことを尋ねた無礼を
    あらためてお詫びし、
    それでもTさんは真っ直ぐに答えてくださった。

    「いちばん思うのは、能登や珠洲に来てくれた人、
    住んでいる人、関わっている人、すべてのみなさんに対して、
    『一年間、ほんとうにお疲れさまでした‥‥』、
    『みんなでがんばって生きてきたね‥‥』と、
    ただそのことを、みんなでたたえ合いたいかなあ‥‥」

    この言葉を聞いたとき、
    これまで能登で出会った方々の顔がたくさん思い浮かんだ。
    私が能登にいた時間は、一年間のうちの
    わずかな時間に過ぎない。
    でも、能登にもっと長く関わっているみなさんは
    ずっと、ずっと、ほんとうにいろいろなことがあって、
    それでも生きてきて、私にも出会ってくれていたのだと。
    中でもあみだ湯で過ごした時間は長かった分、
    いろいろな時間が蘇ってくる。

    あみだ湯に訪れた初日、最初に気さくに接してくれたのは
    運営メンバーの北澤さんだった。
    木材とユンボを紐で結んで、そこに洗濯物を干していた。
    その隣には北澤さんの車があり、私はその状況を
    把握できていなかったけれど、あとであたりまえのように
    車中泊が続いているのだと知った。

    運営メンバーの中心にいたしんけんさんは、
    銭湯そのものの運営に心血を注ぎながらも、
    まちの中で困っている方たちの声をたくさん聞いていた。
    そして、たとえば私のようなボランティアを土砂の泥かきや
    ビニールハウスの解体先まで送り届けてくれて、
    しんけんさん自身もドロドロになって、
    最後まで作業を手伝うのだった。

    番台のえみーごは、
    銭湯にやってくる常連さんたちの名前を覚えていて、
    「◯◯さん、いらっしゃーい!」と
    気さくにコミュニケーションをとっていた。
    あみだ湯の館内はとてもアットホームな雰囲気で満ちていて、
    「ありがとう」や「またね」といった
    あたたかな言葉が溢れていた。
    えみーごやあみだ湯に関わる方たちを通して、
    あみだ湯の存在の大きさを肌で感じたのは、言うまでもない。

    時間があれば語らった。湯船の中でボランティア仲間と
    一時間以上語らったこともあったし、
    誘ってもらって大人数でテレビゲームもした。
    食事を囲った夜は長かったし短かった。
    とりとめのない話もたくさんして、たくさん笑った。

    ほかにも地元の高校生たちや、毎朝早くから
    何気なくあみだ湯を手伝っていた元漁師のお父さん、
    記録映像を残すチームの方たち、学校の先生‥‥
    ほんとうにいろんな人たちと話をしたし、
    今もそうした方たちが思い浮かぶ。

    でも、私が想像できる世界はきっとすごく狭くて、
    ほんとうは私の想像の及ばないたくさんの方々にとっての、
    ひとりひとりの異なる一年間の道のりがあったはずだ。
    そのことを思えば思うほど、想像力の及ばない自分に気づき、
    ありとあらゆることを一方通行の言葉でくくることは
    決してできないと思った。
    しかし、それでも、「お疲れさま」の言葉は、
    とにかくほんとうにそうだと思った。
    生きていくことの尊さを思えば思うほど、
    心の奥底から真に、能登に関わるすべてのみなさんに、
    「この一年間、ほんとうにお疲れさまでした」
    という思いでいっぱいになる。
    その思いはこれからも変わらない。

    2025年も日々は続いていく。
    大きな出来事の区切りには、アニバーサリー反応という
    心身が不安定になる反応があることも、
    Tさんは教えてくれた。どうか急勾配の坂があれば、
    立ち止まってひと休みされてください。
    明けない闇があれば、それでも明けない闇はないと
    僅かでも信じられるまで、ごろごろとしてください。
    つくづく私は、ひとりひとりが抱えているかもしれない
    悲しみの根源に触れることができません。
    ですから、ほんとうは今のような知ったかぶったことを
    言う資格は一切ありません。
    ただ、それでもどうか休みたいときには休まれて、
    ちょっと進みたいときにはちょっと進むことが
    できますように。みなさんにとってのありたい選択が、
    大きくても小さくても、少しずつ積み重ねられますように。
    そう願うばかりです。

    そしてまた、日本中、世界中で暮らしている方々で、
    能登のことを思っている人たちもきっとたくさんいる。
    思いの距離感のようなものは、人によってひとりひとり違う。
    2024年3月11日、
    私は鹿児島県のとある武家屋敷通りにいて、
    時計の針を見て、東北の方角へ向かってひとりで黙祷をした。
    東北と距離は離れていたけれど、祈りを持ちたかった。
    ちょうどその1分間のうちにひと組の家族が通り過ぎて、
    「‥‥震災だよね」という悪気のない会話が耳に入ったとき、
    やり場のない気持ちになった。

    物理的な距離がある限り、
    違う土地に広がる世界を想像することは難しい。
    私が東日本大震災を意識するようになったのも、
    その土地を訪れる機会が増えたからであって、
    これまでに天災に見舞われたありとあらゆる土地において、
    同じ思いを持てているわけではない。
    だからやはり、距離感というものはむずかしく、
    人によって違うものだとつくづく思う。
    それでも、今、能登に思いを馳せることは、
    同じ時代を生きていく中での、
    確かな思いやりのひとつではないだろうか。
    思いやりの発露は、常に自分自身の心の中にある。
    無理のない範囲で、思いやりとありたい距離感を見つめて、
    そこに純なものがあることが、大切ではないだろうか。

    また、脱線かもしれないけれど、
    ひとりひとりのあたたかな思いが少しでも増えていくことは、
    巡り巡って、能登にとっても社会にとっても、
    良い方向へ進む兆しになるように感じる。
    それは、あみだ湯での滞在を通して
    今も手元に残っているものが、
    人のあたたかな心だからだ。

    ひとりひとり抱えているものが違う中でも、
    私は能登であたたかな思いにたくさん触れた。
    それは被災地だからという表面的なものでは決してなく、
    ひとりひとりの心の中に内包されているものだった。
    相手への思いやりだったり、親切だったり、
    譲り合いだったり、包容だったり、寛容だったり、
    明るい言葉だったり、受け取るとじんわりと
    心がうれしくなる、ささやかな瞬間がたくさんあった。
    極端かもしれないけれど、奪い合いや、責め合いなどとは
    正反対の世界が広がっているように思えた。
    あたたかな心は、人に渡しても減らない。
    そして引き継がれていき、残っていくものだ。
    そうしたあたたかさは、人を通して土地に根付いていく。
    だから、能登の土地はこれからもきっとやさしい。
    だからこそ、日本のどこで暮らしていても、
    あたたかな心が少しでも増えていけば、
    何が起きるか分からない世の中だとしても、
    みんなで良い方向を探していけるような気がする。

    2025年、無理せず進みましょう。
    すでに、2024年を過ごしてきたことは、
    どんなことよりもすごいことです。
    少しでもひとりひとりの生きる喜びが増えていきますように。
    あたたかな思いが増えていきますように。
    ありたいと願う方向へ進めますように。
    今日、どこにいても、能登の方角へ、
    黙祷をさせていただきます。

    2025-01-01-WED