どうやら大貫妙子さんは、
デビュー50周年だとか、半世紀だとか、
日本の音楽界のレジェンドだとか、
そんなふうに言われてもね‥‥と思っているようなのです。
「だって、仕事を続けてる人が50年なんて、
そんな長くないでしょ」って。
でも、ずっと大貫さんの音楽、そして文章のファンである
渡辺真理さんにとって、50周年である今年は、
これまでの大貫さんの足跡を振り返りながら、
インタビューをする絶好のチャンス。
「ぜひ!」とお願いして、この対談が実現しました。
かねてから親交のあったふたりですが、
こうしてひざを合わせて話すのは久しぶりなんですって。
後半は、糸井重里も参加しての鼎談になりましたよ。
あっ! ここは「マリーな部屋」ですから、
もちろん、おいしいケーキも忘れずに。

取材・プロフィール写真=浅井佳代子
協力=株式会社ゆかい

>大貫妙子さんのプロフィール

大貫妙子(おおぬき・たえこ)

音楽家。東京生まれ。
日本のポップミュージックにおける
女性シンガー・ソングライターの草分けのひとり。
1973年、山下達郎たちとポップスのバンド
「シュガー・ベイブ」を結成、1976年まで活動。
同年、アルバム『Grey Skies』でソロデビュー。
以来、現在まで27枚のオリジナルアルバムをリリース。
『Shall we ダンス?』や『マザーウォーター』の
メインテーマを担当するなど、
映画音楽も数多く手掛ける。

芸術総合誌『ユリイカ』(青土社)の
2025年12月臨時増刊号では
50周年を記念して、
1冊まるごとの総特集が組まれた。

オフィシャルサイト

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その1 50年‥‥、そう?

真理
前回、妙子さんと対談させていただいたのは
調べたら、2015年の9月でした。
葉山のご自宅の近くでの撮影で
ご愛用のものをリクエストしたら、
小さな、でもかなり重いフライパンを持ってきてくださって。
「ものすごくおいしい目玉焼きができるの」って。
あれからちょうど10年が経ちました。

集英社『éclat』2015年11月号 渡辺真理さんの連載「暮らしの愉しみ」第6回で。 集英社『éclat』2015年11月号 渡辺真理さんの連載「暮らしの愉しみ」第6回で。

大貫
そっか、思い出してきた。
そのあと海の方まで歩いて行ったよね。
真理
はい。
「葉山って海のイメージが強いみたいだけど、山だから。
だって〝葉山″なんだから」とおっしゃって。
それからもお目にかかってはいるのですけど、
こうして対談できるのは、久しぶりです。
大貫
いっぱい会ってるような気がするね。
真理
いっぱい会ってます(笑)。
ご飯たべたり、おしゃべりしたり。
大貫
そうよね。
前に一緒に行ったあのレストラン、
もうなくなっちゃったけれど。
真理
はい、とても残念。おいしかったから。
おいしいって、一番記憶に残りますよね。
それでですね、
妙子さん、デビュー50周年なんですよね。
大貫
うん?
真理
記念すべき。
大貫
いちおう知ってます。
‥‥知らなかったんだけど。
真理
あ、やっぱり。 
50周年のインタビュー、
いろいろ楽しく拝読していますけれど、
ご本人は、特に数えてらっしゃらないだろうなぁ、と。
大貫
全然数えてないです。
真理
周りから言われて、「あ、50年か」と。
大貫
そうですね。でも、50年って、とくには。
真理
「あ、そう?」っていう?
大貫
仕事を続けてる人の50年って、
そんなに長くないでしょ。
真理
長くないですかね。
大貫
一緒です。
真理
一緒ですか。そんな境地には達してないけど、
おっしゃることはわかるような気も。
大貫
5年なんて、目が覚めたらすぐです。
ということは、50年だってすぐですよ。
真理
ふふふ。
ちなみに50年というのは、
1973年にシュガー・ベイブ(*)を結成してから
1975年にアルバム『SONGS』を出されて
プロデビューをなさった、というのが起点ですね。
それ1枚だけなんですよね、
シュガー・ベイブのアルバムって。
(*)1973年から76年に活動をしたポップスバンド。
山下達郎・大貫妙子・村松邦男が中心メンバーだった。
デビューにして唯一のアルバム『SONGS』は
大滝詠一主宰のナイアガラ・レーベルよりリリース。

『SONGS』 『SONGS』

大貫
そう、それで十分でしょ。
真理
十分って! いやいや、ファンとしては。
でも、もちろんご存知ですよね、
妙子さんの音楽がストリーミングサービスで
世界中の人に聴かれている(*)ことは。
(*)2023年の「Spotify」では
「世界で最も再生されたリリース年代別の国内楽曲」の
「1970年代の音楽の年間再生ランキング」1位が
大貫さんの1978年リリースのアルバム
「Mignonne」収録の「4:00 A.M.」だった。
ちなみに同ランキングの
2、3、4位は荒井由実、5位は高中正義。

『Mignonne』 『Mignonne』

真理
そして、来年2月には
ロサンゼルスでコンサートが決定してます!
大貫
ロサンゼルス‥‥ロンドンかと‥‥。
(マネジャー松井氏を見る)
松井
はい! ロサンゼルスで、2月8日です。
でも、
ただ、本人はね、
「え? パリでしょ?」とか「ロンドンよね?」とか、
好きなところにどんどん転換しちゃってますけどね。
正確にはロサンゼルスです。
真理
妙子さんらしい(笑)。
今、パリって言われて思いましたけど、
私、妙子さんの音楽は基本ロックだと思っているんですが、
たしかにフレンチポップスの印象も。
大貫
フランスでもレコーディング(*)してますし。
(*)初の海外レコーディングは、
1982年リリースの『Cliché(クリシェ)』。
フランシス・レイの楽曲のアレンジを手掛けた
ジャン・ミュジーが6曲の編曲を担当し、パリで録音。
ちなみに4曲は坂本龍一による編曲で東京録音。

『Cliché』 『Cliché』

真理
いつから、そうやって広がっていったんですか。
大貫
ジェーン・バーキン(*)とか、
そういう音楽をけっこう聴いてましたから。
(*)俳優/モデル/シンガー・ソングライター。
1946年ロンドン生まれ、1968年にフランスに渡り、
セルジュ・ゲンズブールに出会いパートナーとなる。
フランス文化に深く根差したライフスタイルで、
フランス文化のアイコン的存在に。
エルメスのバッグ「バーキン」の名の由来にも。
真理
小っちゃいころから?
大貫
小さいころはクラシックを聴いていて。
真理
え? 妙子さん、クラシックだったんですか?
大貫
うちにレコードがそれしかなかった。
真理
お父さまのレコード?
大貫
母が好きだったので、
たくさん、そういうレコードがあって
1日、大きなステレオの前にいて、
たくさん聴いていました。
真理
へぇ~。
大貫
とにかくそこの前から「離れない」。
次々、次々と聴いていたので、
「そんなに音楽が好きなら、ピアノを習いなさい」と
ピアノを買ってくれた。小学校のときに。
でも手も小っちゃいじゃない? 
真理
妙子さんの手、華奢ですものね。
大貫
それで、ピアノの先生のところに行くんですが‥‥。 
そうしたら、まず最初は、バイエルからでしょ?
「これは私のやりたいのじゃない!」って。
真理
あぁ、わかります。
大貫
それで、ブルグミュラーから初めて。
なんか「つまらない」と思って、やめてしまいました。
生意気にも(笑)。
その後、父の仕事が変わって、
何度か引っ越しているうちにピアノに触らなくなって
母に、「弾かないなら処分しますよ」と言われ、
さよならしました。
でも家の環境がどう変わろうと、
音楽は続けていたんですよね。
ピアノからギターに持ち変えて。
真理
最初はお母さまの影響でクラシック、
ちょっとピアノを習って、ギターもなさって、
それでバンドっていうところに行き着くのは?
大貫
シュガー・ベイブの前に、
男の子2人と、3人で(*)
(*)デビュー前に組んだ
フォーク・グループ「三輪車」。
デビューには至らなかった。
真理
それは同級生と?
大貫
いえ、友達の友達ですね。
3人だと、当時はピーター・ポール&マリー(*)
 (*)Peter, Paul and Mary。
 1960年代のアメリカのフォーク・グループ。
真理
じゃあ、歌はどこからですか?
小さいころからお好きだったの? 
大貫
学生の頃に喫茶店でアルバイトをしていて、
そこで働いてるアルバイト仲間と話している時に、
その店にはDJブースみたいのがあって、
音楽好きなら、そのDJブースで歌ったら? と、言われ。
コーヒーを運んでるより、そっちの方がいいヤ!
と、思い、
ジョニ・ミッチェルなどのカヴァーを弾き語りで。
3人でやっていた時は、男子2人がギター。
私はヴォーカルでした。
その後に出会った山下くん(山下達郎)たちと
シュガー・ベイブをはじめ、
キーボードとヴォーカル。曲も書いて。
それからソロになりました。
真理
山下達郎さんたちに出会われたのは?
きっかけは、どんなご縁だったんですか?
大貫
コーヒーを運んでいた音楽喫茶に、
山下くんがやって来たのがきっかけです(*)
レアなレコードが沢山あるお店でしたから。
(*)3人組の「三輪車」で突出していた
大貫妙子の個性と音楽性を評価した
プロデューサーの矢野誠がソロデビューをねらい、
デモテープの制作を始め、
四谷のロック喫茶「ディスクチャート」を紹介。
アルバイトを始めたなかで、
女性ヴォーカルのいるバンドをやりたいと考えていた
山下達郎と出会った。
大貫
それで、バンドをやろうと。
プロになるとか、そんな気持ちは、ありませんでした。
音楽は好きでしたけれど。
最初は、バンドも下手でしたよ(笑)。
無名、仕事は殆ど無し。
真理
えぇっ? 下手って。
大貫
そうですよ。そんなプロのレベルまで行かない。
でも、時間はたくさんあったので、よく練習はしました。
山下くんの知り合いの豪邸の、一部屋をお借りして。
真理
当時の日本の音楽シーンの中で
ポップスは亜流だったと、以前おっしゃったんですよね。
今でこそ『SONGS』自体、
ポップスの名盤としてものすごく聴かれてます(*)けど、
当時はライブをなさるのもけっこう大変だった、と。
(*)オリジナルのほか、30周年、40周年、
50周年のタイミングで再発され、ロングセラーに。
2025年版は『SONGS 50th Anniversary Edition』
大貫
お客さん、入ってなかったです、最初は。
もちろん、無名ですし。
でも、徐々に増えて‥‥。
真理
信じられない‥‥。
大貫
だいたい荻窪ロフト(ライブハウス)とか
そういう場所で演奏していたんですが。
狭いんですよ、ものすごくステージが。
で、私は電子ピアノ‥‥ホーナーだったか
ウイリッツアーを弾いていて。
ステージがあまりに狭くて、私は半分、
幕の中に隠れてしまう状態(笑)。
それを弾いて歌ってましたが。
真理
今のスタイルとは、まったく違うはじまりだったんですね(*)
(*)現在、ステージでは楽器を演奏せず、
ヴォーカリストに徹しスタンドマイクで歌うのが常。
大貫
山下くんと私って、音楽の趣味が違うんですよね。
私も曲は書いていましたが、シュガー・ベイブは、
山下くんがメインでしたから。
真理
必然的にソロになっていくんですね。
だから、シュガー・ベイブって
一種の化学変化、一瞬の奇跡みたいだったのかな。
大貫
「ご縁」じゃないですか。
みんなそういうご縁でつながりながら
成長してきたのではないかと。

(つづきます)

2025-12-24-WED

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