1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。

イラスト:サユミ

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#最終回

『北の国から』。

『北の国から』第24回のあらすじ

東京で1週間が過ぎた。
しかし純が好きだった友だちも先生も、
純には以前と違って色褪せてみえた。
「ぼくの方が変ったんだ。きっとそうだ」
北海道の大自然の中で五郎とともに生きてきた
この1年間が純をたくましく変えたのだった。
富良野に戻ると父の建てた夢の丸太小屋が
純と螢を待っていた。そしてある夜、
死んだと思っていた螢のキツネが
何ヶ月ぶりかで帰って来た。

 

自分がこれをつくるなら、という、
ありえない想像をしながら
いろんな作品を観てしまう癖が
ぼくにはあるのだけれど、
みなさんが『北の国から』の
最終回をつくるとしたら、
冒頭、どういうシーンからはじめますか。

晴れ晴れとした青空とか、
あるいは真っ白い雪とか、
いっそ慌ただしい東京とか、
そういうところからはじまると
それっぽいなあとか思うのですが、
『北の国から』の最終回は、
台風が富良野を襲うところからはじまります。

強風に煽られて激しく揺れる森の木々、
水かさを増して氾濫寸前の空知川、
ラジオから流れる台風情報。
夜が明けると、富良野は蹂躙されている。
大木が何本もなぎ倒され、
いろんなものが散乱している。

もちろんCGなんかじゃなく、
実際の台風の爪痕を記録したものだ。
おそらく、ドラマの撮影中に、
大きな台風が富良野を襲ったのだと思う。
撮影できたその素材は、
最終回のはじまりに配置される。

東京で台風情報をラジオを聞きながら、螢が言う。
「東京を過ぎたら、
台風のことは言わなくなっちゃった。
北海道のことは大事じゃないのかな?」

台風の映像があるからこそ、
最終回はそんなふうにはじまる。

そういった、コンセプトが先なのか、
事実が先なのかよくわからないような要素が
『北の国から』のなかにはたくさんあって、
それがこのドラマの稀有な魅力になっていると思う。

そういうことでいうと、
ぜんぜん次元は違うんだけど、
ぼくは、純と螢が台詞のないところで
本気ではしゃぐところがとても好きだった。
倉本聰さんは台詞にとても厳しくて、
役者さんのアドリブに見えるような、
ざわざわとしたシーンなんかでも
いちいち動きと台詞が指定されていたらしい。
だから、ドラマのなかにあるほとんどのことは、
決められたものだと思うんだけど、
それでも、おそらくこの数秒は自由にはしゃいでるな、
というような箇所がシーンの終わり際なんかに、
ちらっと出てくる。

たとえば、草太兄ちゃんが螢をからかうシーンがあって、
ちょっとくすぐるような感じで
螢にちょっかいを出すんだけど、
その場面、螢は自分の台詞を言い終わるくらいから、
ほんのすこし笑っちゃってる。
たぶん、リハーサルかなんかでくすぐられたことを
思い出しているのだと思う。
あるいは、螢が純がかぶっている帽子を
ポーンと手ではたいて飛ばして、
純がそれをやめろよと追いかけて
最終的にふたりでじゃれ合うようなシーン。
こういうとき、ふたりは本気で笑い合っていて、
それはもう、台本なんだか、兄妹なんだか、
よくわからなくて涙が出そうになる。

そういうふうに、役者さんと、スタッフと、
撮影することと、富良野の自然と、住んでいる人と、
演出と、吹く風と、陽の光と、待っていた雨と、
積もる雪と、計算された構図と、凍えるような寒さと、
静かに静かに思いを込めて台詞が語られるときに
役者さんの目に美しく溜まっていく涙とかが、
ぜんぶ混ざってこのドラマはできている。
40年も経って、多くの人のなかで、
このドラマが特別なのは当然だと思う。

雪子さんと草太は、
別れることも結ばれることもなかった。
こごみさんと五郎さんも、
どうなるんだかよくわからない。
それぞれの石から広がった波紋は、
最終回という特別な機会においても、
大いなる自然の法則にしたがって、
ただただ広がっていくばかりである。

ふたつ、いいことがあった。
さすがに最終回だから、
はっきりとうれしいことがふたつあった。
まず、丸太小屋ができた。
とても立派な、台風でもびくともしなかった、
ずっと住めそうな丸太造りの家ができた。
それから、螢のキツネが帰ってきた。
左の前足はない。トラバサミにやられたのだ。
それをいいことだとも悪いことだとも
ドラマは決めつけない。
ただ、あのキツネが帰ってきたんだ、
という家族の喜びをまっすぐに表現する。

お葬式を終えて東京の家を去る直前に、
令子さんが書きかけた手紙が見つかった。
その手紙は富良野に行ったときの思い出を綴っていて、
「あんなきれいな雲は見たことがない」というような、
すごくふつうの文面のまま、ふと途切れている。
おかげで、言い終わった感じもしないし、
最後まで読めずに残念だという気もしない。
こういう周到な心配りが、このドラマにはあふれている。

その手紙は、
最後に純のモノローグに引き継がれる。
純は夢を見る。
見た夢を、純はあの口調で語る。

夢の中で、この1年間が静かに回顧される。
秋にはじまり、厳しい冬、
おかあさんのやってきた春、
新しい出会いの夏、そして再び秋。
雪が降る前にはじまったこの物語は、
雪が降る前に終わる。

最初に、ぼくはこのドラマをこれまで観なかった理由を、
「たいへんそうだったから」と書いた。
その予感は、正直、当たっていたと思う。
『北の国から』というのは、たいへんなドラマだった。
すっきりしない。わくわくしない。どんでん返しはない。
早く続きを観せて! というふうにすら思わない。

でもね、ほんとうに、観てよかったとぼくは思う。

みなさんこれは観なきゃダメですよ、なんて言わない。
『北の国から』を観てよかったというのは、ぼくの問題だ。
観てよかったといま感じているのはぼくで、
こういう機会を与えてもらって感謝しているのも、
ただただぼく個人のことだ。

この世界は、たくさんの作者がつくった
たくさんの作品で満ちている。
すばらしいものや、美しいものや、意義のあるもので、
あらゆる棚がぎっしり埋まっている。
技術が進んでさまざまな作品を
調べたり分類したり一覧したりできるようになったから、
ますますぼくらはそういった作品の存在を思い知る。

そして、その存在は、
しばしばぼくらを憂鬱にさせる。
これを知らない自分は恥ずかしいのだろうか?
これくらい知っておいたほうがいいんだろうか?
これも読まずにあれを語る資格はないのだろうか?
好きだというからにはこれを知っておくべきだろうか?

ぼくにとっては、そういったもののなかに、
『北の国から』というドラマもあったように思う。

いってみれば『北の国から』は「古典」である。
枕草子とかモーツァルトとか夏目漱石とかだけじゃなく、
過去のすばらしいものは古典で、
ぼくにとっては『北の国から』もそこに含まれる。

話は変わるけど、ぼくには子どもが二人いて、
中1と高1になった。
二人はスマホを持つようになって、
ネットのスラングとかも平気でつかうようになった。
で、ぼくは、そんな二人を、
こんなふうにからかったりする。

「『あきらめたら試合終了ですよ』って、
どういう意味だかわかってる?」
「『だが断る』って、元ネタ知ってるの?」
「その『クリリン』っていうのはね‥‥」

そんなこと、知らなくてぜんぜんいいのだ。
いまから『ジョジョの奇妙な冒険』と
『ドラゴンボール』と『SLAM DUNK』を、
「知っておくために全巻読む」なんて、
そんなたいへんなことをわざわざしなくてもいい。
でも、読みたかったら、もちろん読めばいい。
読んだら超おもしろいことは保証する。
読んだら、いっしょにあれこれ話そう。
わざわざ読まなくてもいいよ?
でも、読んでもいいよ?

飛躍してしまうようだけれど、そういうものと、
万葉集とかシェイクスピアといった
正真正銘の古くてすばらしいものと、
この『北の国から』というドラマは、
ぼくにとって同じ「古典」の領域にある。

むかしのすばらしいもの。
むかしのすばらしいものはたくさんあって、
ぜんぶ知るのはたいへんだけど、
なにかのタイミングで知ると、
ひとつひとつがすばらしい。
そういうものぜんぶが古典だとぼくは思う。

読めば、観れば、知れば、
すばらしいものなのだとわかっていても、
いざ知るとなると、たいへんだ。
でも、いつか自分が手を伸ばすとき、
自分を取り巻くこの世界が、
そういった明らかにすばらしいもので
満ちているということは、
知っておいたほうがいいと思う。

『北の国から』のいちばん最後は、
純のモノローグが溶ける富良野の雲をバックに、
当時のテレビドラマではめずらしい
しっかりとしたエンドロールが流れる。
画面の下から上に、たくさんの名前が流れる。
ぼくが感動したのは、
それが完全な「あいうえお順」だったことだ。
「主演・田中邦衛」でも、
「脚本・倉本聰」でもなく、
あいうえおの「あ」から名前が流れていく。
役者とかスタッフとかの区別もない。
このドラマに関わった人が、等しく、
名前の順番にしたがって最後に紹介される。
「伊丹十三」さんは上のほうに、
「吉岡秀隆」さんは下のほうに出てくる。
こんな平等なスタッフロールをぼくは知らない。

純が夢のなかで振り返る場面がどれもこれも印象深くて、
当然、ぼくは泣きながらそれを観た。
そういうぐすぐすした状態で
あいうえお順のスタッフロールを観たものだから、
最後までドラマを観た自分の名前まで
そこにあるような気がした。
いや、なかったですけどね。

最後までお読みいただき、
どうもありがとうございました。

このあと、きっとぼくはスペシャル版を
順番に観ていくと思いますが、
それはもう、観たいときにのんびり観ます。
感想を書いたりもしません。

ぼくは、こういう長いシリーズものについて
いつも思うんですが、
やっぱり、最初の作品が、
ほとんどすべてなんだと思うんです。
あ、そう決めつけるのは乱暴かな。
でも、『スターウォーズ』も『ガンダム』も
やっぱり最初の1作目がぜんぶをつくってると思う。
その意味では、最初の24話を
しっかり観ることができてよかった。

そう、ぼくはもう、『北の国から』を知っている。
『北の国から』を好きな人たちと、
細かいことをずっと話すこともできる。
モノマネは、たぶん、しないと思うけど。

2020年2月23日       永田泰大

(終わるわけで。)

2020-02-24-MON

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