1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。

イラスト:サユミ

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#9

猛吹雪。

『北の国から』第10回のあらすじ

五郎の留守に風力発電の部品を取りに行って
喜ばそうと考えた雪子と純は、
大雪のために車を吹き溜りに突っ込んで遭難してしまう。
村も停電で大混乱。なんとか吹き溜りから
脱出しようと懸命だった雪子と純は、
車の中で凍死寸前だった。
その頃、杵次の馬ソリの馬が、
大雪の中で彼らを必死に探し出そうとしていた。

 

前回の最後に純が言った、
「ほんとうの吹雪」のことを、
ぼくは、ここから先のなにかを
暗示しているんだろうなと思っていた。
天候としての吹雪のことじゃなく、
吹き荒れる人間関係、というような。

ところが、またしても違った。
ほんとに『北の国から』はわからない。
「ほんとうの吹雪」は、
ほんとうに、ほんとうの、
すさまじい吹雪のことだった。

『北の国から』というドラマの特徴のひとつは
大自然というロケーションにあるとよく言われる。
映り込む北海道の風景の美しさ、
あるいは冬の厳しい寒さが、
そこで暮らす人々のドラマに
特別な奥行きを与える、というような。

だとすれば、雪子おばさんと純が
猛烈な吹雪に襲われて遭難しかけるという、
このたいへん見応えのある回は、
自然の恩恵を受けた最たるものであるように思える。

しかし、ぼくはこの第10回のすばらしさは、
自然の力によって導かれたものではなく、
ドラマを制作する人たちの技術が結実した、
もっともつくり込まれた回であるように思う。

素人がこういうことを言うのは
たいへんみっともないことだと承知しつつ、
おっかなびっくり書いてみるのだが、
たとえば、撮影である。
ひとつひとつのカットが、画が、見せ方が、
たぶん、技術的に、とても高い。
素人なので、褒め方がふにゃふにゃしていて申し訳ない。

簡単に説明すると、その日、
雪子おばさんと純はのんびり車で出かける。
天気予報は午後から吹雪になると告げるが、
ふたりは天気予報を軽んじる。
ちなみにこれは、少し前のところで
天気予報はちっとも当たりませんね、
という愚痴でもって伏線がはられている。

それでふたりは帰り道に
草太兄ちゃんの牧場のほうを回っていこうとする。
そっちは、山道だ。
ところが、夕方が近づく頃、劇的に天候が変わる。
この表現が、怖くて、すごい。

空が黒くなって、雪は横から吹き付ける。
そして天候の急激な悪化は、
ほとんど、ワイパーとフロントガラス、
そして運転する雪子さんの目によって表現される。

ワイパーがフロントガラスを往復しながら
降りかかる雪をガリガリと取り除く。
でも、追いつかない。だんだん視界が狭くなる。
狭い視界が、ただ白を塗りつぶしたようになる。
雪子さんが目を細める。

「純、看板がないか見ててね」
「純、看板、出てないよね?」

ハンドルを握る雪子さんがそうつぶやく。
ワイパーは忙しなくガリガリと積もる雪を削る。
その音の変化で、フロントガラスの雪が
凍りかけていることがわかる。
雪子さんは速度を落とす。

カメラはワイパーがなんとか確保した
フロントガラスの向こうの風景を映す。
しかし、その面積はどんどん狭くなる。
さらに、狭くなったその部分にさえ、
ほとんど何も見えない。
ただただ単色の風景の中を車は進む。

これは無理だろう、と思う頃、
車が雪溜まりに突っ込む。
速度そのものはゆっくりだから、
衝撃はないことが観る者にもわかる。
けれど、ふんわりと突っ込んだその場所から、
抜けるのはたいへんだぞということが
突っ込んだ瞬間にわかる。

その後の撮影と演出はパニック映画さながらだ。
空回りするタイヤ。
雪を取り除こうとするが、
猛吹雪のなか、とてもじゃないが埒が明かない。
なにしろ、スコップを持って除雪しているのは、
雪子さんと純という、東京出身のふたりなのだ。

演出としてうまいのは、雪子さんが一度、
助けを呼ぼうとして車を離れることだ。
しかしあたりはもう何も見えないほど真っ白で、
純は「車のなかで待ったほうがいい」と言う。
観ている人も、そうだそのほうがいいと思う。

つまり、もう、ふたりは車で待つしかない。
狭い車内にふたりは身を寄せ合う。
雪はどんどん積もって窓を覆っていく。
ワイパーが動かなくなる。
窓を開けるのにも力が必要になる。
止まった車のなかで、視界はさらになくなっていく。

ぼくはふと思う。
これ、どうやって撮っているんだろうと。
車内はとてもせまくて息苦しく、
ほかにカメラやスタッフが
入っているとは、とても思えない。
いや、実際は撮影しているんだろうけど、
とにかく狭さの表現が見事なのだ。

そして、この第10回が脚本として見事なのは、
ドラマの前半の部分で、
電気や車といった「文明化」を
テーマとして扱っているところだ。
そして、麓郷の質素な暮らしが、
電気や車で便利になっていくことを、
ドラマは是とも非ともしない。

五郎さんは電気をひくのではなく、
風力発電の仕組みをつくろうとする。
笠松のじいさんは、
ばかなことやめて電気をひけと言う。
しかし、その笠松のじいさんは
役に立たなくなった馬をかたくなに売らない。
毎日の暮らしに便利なことがいいのか、
昔ながらの暮らしがいいのか、
『北の国から』は例によって
はっきりとした答えを出さない。

深夜に富良野全体を猛吹雪が襲い、
大停電が起こる。
雪子さんと純が帰ってないことを知り、
五郎さんは麓郷のあちこちを探し回る。
しかし、町全体が停電していて、
人海戦術で大捜索というわけにもいかない。

五郎さんと中さんは、
牧場へ続く山道で雪子さんと純の車は
立ち往生しているのではないかと予測する。
よしよし、と観ているぼくは思うが、
そう簡単に話は進まない。
なにしろ今回は絶望のさせ方がうまい。

麓郷を知り尽くしている中ちゃんが、
あの山道はジープでも無理だ、
さっき除雪車が進めなくて
あきらめて引き返した、と言うのだ。

「除雪車があきらめて引き返した。」

ああ、なんというパワーワード。
もう一回、絶望するために繰り返そう。

「除雪車があきらめて引き返した。」

その絶望のさなか、
荒れ狂う猛吹雪の轟音のなかで、
クマさんがこうつぶやくのだ。

‥‥馬だったら、行けるんでねか?

もう、ここで、観る人全員が
あーーー、とひらめくわけです。
笠松のじいさんちの馬だ、と。

そしてそのあとの演出と編集がかっこいい。
「馬だ!」と思った瞬間、
カットが切り替わると、
笠松さんちの馬は、すでに、
のっしのっしと雪を踏みしめているわけです。
ここの、馬の画が、ほんとうにかっこいい。

サラブレットとはまったく違う、
いわゆる「ばん馬」的な太い脚。
刺繍の施された、由緒を感じさせる馬具。
そして、つぶらな馬の瞳。
その長いまつげに積もって凍りつく雪。
馬は、健気で、たのもしくて、かっこいい。

たくましい馬が猛吹雪の中を行き、
光のない車の中で希望を失っている
雪子さんがその音に気づく。
馬具の金具のシャンシャンという音が、
遠くから聞こえてくる。

「起きて、純!」

‥‥ああ、もう、
ここから先は書かなくても十分でしょう。
なんというか、映画的な、
ぐいぐい引き込まれる強い物語でした。

そして、賢明な読者のみなさんは、
とっくにおわかりのことかと思いますが、
テンション高く、うっとりしながら、
たくさんの文字をタイピングしているこのぼくは、
今回、ただ、あらすじを書いているだけです。
なんだかすらすらと原稿が書けて、
俺は天賦の才があるのではないかと
すっかり勘違いしかけましたが、
なんのことはない、いわんこっちゃない、
拙者、どきどきする映画的なおもしろい話を、
ただそのまま書いているだけであります!
ダメな読書感想文の見本とはこのことです!

でも、それだけおもしろかったんですよ。
1981年にSNSがあったら、
この日のタイムラインはきっと
「神回」「神回」「神回」
ってな感じの文字で埋まってますよ。

ぜんぜん書ききれなかったけど、
雪で完全に埋る車とかね、
暴力的な吹雪を演出する照明とかね、
ごァっっっていう効果音とかね、
あちこちがほんとうにプロの仕事だったと思います。
素人なので、もにゃもにゃ褒めるばかりですが。

※次回の更新は2月7日(金)なわけで。

(つづくと思われ。)

2020-02-05-WED

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