正確には「6時間12分」です。
しかも、途中2回の休憩をはさむため、
映画館に入って出るまで、
だいたい7時間くらいかかります。
原一男監督は、そんな大作を
15年かけて撮り、
さらに5年をかけて編集していました。
テーマは、水俣病。
この映画には、奥崎謙三さんのような
「スター」は出てきません。
でも、7時間後の自分は、
スクリーンに映る「ふつうの人々」の
大ファンになっていました。
重い題材であると同時に、監督らしい
「楽しい、おもしろい」作品でした。
監督ご本人に、たっぷりうかがいます。
担当は、ほぼ日の奥野です。

>原一男さんのプロフィール

原一男(はらかずお)

1945年6月、山口県宇部市生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、養護学校の介助職員を勤めながら、障害児の世界にのめり込み、写真展「ばかにすンな」を開催。72年、小林佐智子とともに疾走プロダクションを設立。同年、障害者と健常者の「関係性の変革」をテーマにしたドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。74年、原を捨てて沖縄に移住した元妻・武田美由紀の自力出産を記録した『極私的エロス・恋歌1974』を発表。セルフ・ドキュメンタリーの先駆的作品として高い評価を得る。87年、元日本兵・奥崎謙三が上官の戦争責任を過激に追究する『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。94年、小説家・井上光晴の虚実に迫る『全身小説家』を発表。キネマ旬報ベストテン日本映画第1位を獲得。05年、ひとりの人生を4人の女優が演じる初の劇映画『またの日の知華』を発表。後進の育成にも力を注ぎ、これまで日本映画学校(現・日本映画大学)、早稲田大学、大阪芸術大学などで教鞭を取ったほか、映画を学ぶ自らの私塾「CINEMA塾」を不定期に開催している。寡作ながら、公開された作品はいずれも高い評価を得ており、ブエノスアイレス、モントリオール、シェフィールド、アムステルダムなど、各地の国際映画祭でレトロスペクティブが開催されている。2018年、取材に8年、編集に2年を費やした『ニッポン国vs泉南石綿村』を公開。現在、取材に15年、編集に5年を費やした『水俣曼荼羅』公開中。上映館などくわしい情報は同作の公式サイトでチェックを。

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第1回

水俣病は終わっていない。

──
撮影に15年、編集に5年という
合わせて20年ものドキュメンタリーを
撮ってらっしゃったことに、
まずは、
ええっと声が出るほどびっくりしました。
ああ、そうですか。
──
3年前、撮影に8年・編集に2年かけた
『ニッポン国VS泉南石綿村』のときも
インタビューさせていただいていまして、
そのときも
すごいことだと感服したんですが、
つまり、今回の映画は、
その「泉南」をまるまる飲み込む感じで
取り組まれていた、ということですよね。
そうですね。「泉南」と同時並行でした。
──
しかも、できた映画が6時間超‥‥。
はい。みなさん、尻込みしますよ(笑)。
「えー、そんなに長いの?」って。
──
たまに、画面に映り込む原監督のお姿も、
けっこう若かったりとかして(笑)。
そうです。若かったです、はい。
──
水俣病についても、
たまたまユージン・スミスさんの映画を
観ていたんですが、
本当に不勉強で恥ずかしい話、
すでに解決しているものだと思っていて。
そうでしょう。ぼくも、そうでした。
──
そもそも、どうして水俣病のことを‥‥
というところから、
うかがっても聞いてもいいでしょうか。
きっかけの話ってのは、
だいたいね、おもしろくないんですけど、
まあ、理解のためにお話ししますとね、
大森一樹って映画監督が、
大阪の大阪電気通信大学という私立大の
先生をやってたんですよ。
──
はい、自主上映作も撮っておられる。
そう、わたしも彼と同じく、70年代に
『さようならCP』って映画を撮って、
彼は京都かな、わたしは東京だったけど、
何となく同じ土俵で出発したって認識を、
お互い持っていたんですけどね。
で、その大森さんが、
大阪電気通信大学で先生をやってまして、
わたしにも「教えに来ないか」って、
誘ってくれたんですよ。
もう「行く行く」って、その話に乗って、
着任したんだけど、
そこの大学の事務局長という人が、
わたしに
「ポケットマネーを100万円出すから、
ある男を撮ってくれないか」って。
──
おお。
わたしらのやっている自主制作映画って、
自ら借金背負ってつくるものでしょ。
人からお金を出してもらってつくるって、
新鮮だったものですから、
「やります、やります」ってなもんで
引き受けたんですけど、
その人が、いわゆる水俣病の関西訴訟の
川上敏行さんたちの運動を、
長年に渡り支援してきた人だったんです。
──
はい。川上さんは映画にも出てきますね。
で、ひとまず会ったはいいけど、
本人はかたくなに嫌だと、撮られるのが。
──
なんと。
でも、そうですかとは言いたくないわけ。
だって、事務局長の人が、
100万円出してくれるって言ってるし、
何とか撮る題材を見つけようと。
そしたら、その人が、
水俣病にたいして関心を持っていたので、
じゃ、現地に行ってみようと、
最初は、そういうことだったんですよね。
──
半ば成り行きと言ったら変ですが、
監督がもともと水俣病の現状をご存知で、
義憤に駆られて‥‥とかではなく。
はい、ちがいますね。
でも、そうして水俣に行ったら行ったで、
水俣病の市民運動をしていた人たちと
知り合って、
道々、いろんなこと聞くじゃないですか。
そうしたら、ああ、そうか、
水俣病というのは、
まだまだ終わってなんかないんだなと、
わたしも、
はじめて、そこで認識したわけなんです。
──
なるほど。で、「撮ろう」と。
客観的に言ってね、映画監督にとっては
水俣病という問題は、
こういったらアレですけどね、
すでに過去に大きく取り上げられてるし、
自分もそうだったように、
すでに終わったものだとも思われている。
そういう題材が果たして、
映画をつくるときに損か得かってことを、
やっぱり、考えますわね。
──
監督、正直ですね(笑)。
そりゃそうですよ。
せっかく苦労して作品はつくったけども、
たいして注目されなかったらとか、
どうしても考えますよ。
わたしだって、人並みの人間ですからね。
──
じゃ、最初は、迷っていたんですか。
はい、迷っていました。
もうひとつ、大きな問題もあったんです。
水俣病をテーマとする映画は、
長年、土本典昭さんが取り組んでまして、
傑作という作品を何本も撮ってる。
でね、そのあとに、このわたしがですよ、
水俣に入って映画をつくりますと、
そう言ったときに、
「なんだお前、ノコノコ出てきやがって」
と反発を食らうかもしれないと。
──
そういうものですか。
いや、実際にどうかはさておき、
やっぱり縄張り意識ってありますからね。
そういう心配を抱いたんです。
つまり、その2点において迷ったんです。
水俣問題をやるべきか、やらざるべきか。
ただ、土本さんご本人は高齢でしたし、
弟子筋にあたる人たちも、
いまさら水俣病の映画をやる気配はない。
だったら、現地の現状を知って、
問題意識も芽生えてきていたわたしが
映画をつくるというのが自然なのかなと。
──
乗りかかった船じゃないけれども。
でも、そこでひとつ問題になったのがね、
土本さんとわたしとの間に確執があって、
つまり、険悪な状態だったんです、当時。
──
おお、なんと。
なぜかと言うと時間はさかのぼりますが、
パリとアムステルダムで
日本のドキュメンタリーの特集をやって、
そこの場に、
土本さんとわたしがゲストに呼ばれたと。
そこではじめて土本さんとお会いしてね、
親しく会話をするようになった。
本当にね、親しくなったんです。
土本さんは
「もっとはやく原くんと会ってればなあ、
『さようならCP』も観て、
あなたのほかの『神軍』とかいう映画も
観たのになあ」って言うんですよ。
つまり、観てないわけですけどね(笑)。
──
『ゆきゆきて、神軍』、はい(笑)。
ま、それはいいんだけど、
とにかく、そういうふうに仲良くなって、
セーヌのほとりで男二人で連れ立って、
「もっともっと
ドキュメンタリー、勉強したいですね」
なんて話をしながら、
その流れで、このあと東京に帰ったらば、
アテネ・フランセを借り上げてね、
土本さんの作品を集めて
シンポジウムをやりましょうと提案して。
──
土本監督作品をまとめて観られるような。
なるほど。
「やりたいです」「ああ、やろうやろう」
と盛り上がったので、
東京に帰って、
さっそく、準備に取りかかったんですよ。
でも、そうするうちに、わたしの中で、
構想が、どんどん膨らんでいったんです。
つまりね、土本典昭さんだけじゃなくて、
わたしから見て、
上の世代のドキュメンタリー監督を呼び、
もっと規模を大きくやりたいと。
──
あ、それ、書籍化された‥‥。
そう、のちに筑摩書房から出た
『ドキュメンタリーは格闘技である』の、
あのベースになった講座で、
土本さんと並んで
小川紳介ってドキュメンタリーの巨人の
小川プロだとか、
今村昌平、大島渚、篠田正浩、新藤兼人、
田原総一朗さんも入れようかとか。
──
はい、書籍版には、
深作欣二さんとの対話も収録されてます。
ああ、そうそう、深作さんは、
また別のところでの対談だったんだけど。
とにかく、それぞれの監督に交渉して
OKもらって、
具体的にかたちになっていくんですが、
そのニュースを土本さんが見たわけです。
そしたら、すぐに電話かかってきて、
激昂してるんですよ。激しく、怒ってる。
「俺は聞いてない、知らない! 
何だ、これは!」と電話口で怒鳴られて、
わたしはもう、あわてて
土本さんのお宅にうかがって謝りました。
ひたすら、申し訳ない‥‥と。
──
つまり事前にご相談がなくて、
ニュースの記事で、お知りになったから。
はい、そうなんです。
もちろん、
途中経過を報告しなかったわたしが悪い、
ということになるんだけども、
わたしが主催するイベントなんですから、
当初のイメージから広げても
いいじゃなかって反発もあったんですよ。
でも怒ってらっしゃることに対しては
申しわけないと思ったんで、謝りました。
ただ、怒りが静まらなかったみたいでね、
そのまんま、
やりとりが途切れてしまっていたんです。
──
行き違いだったんでしょうけれども‥‥
そうでしたか。
でまあ、そんなできごとがあったもんで、
水俣を撮ろうと思ったときに、
当然、土本さんに仁義を切るべきかって
思い悩むわけですよ、わたしとしては。
険悪な関係のまんまの絶交状態でしたし、
話をしに行きにくいじゃないですか。
それで、まわりの友だちにも相談してね、
「お前、どう思う?」って。
──
どんなアドバイスが?
ふたとおりの考え方が、あったんですよ。
何を素材に選ぼうがつくり手の自由だし、
仁義を切る必要はないと言う人。
やっぱり、仁義は切るべきだって言う人。
そのふたつの意見のあいだで、
わたしは、半年間、揺れていたんですよ。
──
そんなに。半年も。
どうしよう、どうしよう、どうしようと。
半年かかって、ようやく決心したんです。
土本さんの仕事には敬意もあるし、
やっぱり仁義を切るべきだと腹を括って
連絡を取ったら、
土本さんは病気で入院をしていたんです。
──
そうなんですか。
で、奥さまに、
「もう、誰にも会わないんですよ」って
断られて、そのまま会えずじまいで、
土本さんは、亡くなってしまったんです。
──
ああ‥‥。
そういう前段があって、
水俣に行ってから撮影がはじまるまでに、
グジャグジャと悩んだ時期が半年くらい、
あったわけですよ。
そして、さあ、はじめようと立ち上がり、
カメラのまわりはじめたその日が、
俗に言う「関西訴訟」の、
その最高裁の判決の日がだったわけです。
──
ようするに、
クランクインの日が判決の日だった、と。
映画を見ていても、
えっ、ここからはじまるんだ‥‥って。
おもしろいですよね。
裁判闘争を追いかける映画というのは、
ふつう一審、二審を経て最高裁、
そこまでいろんな苦労があったのちに
最後で勝って
「よかった、よかった、バンザーイ!」
というようなもんでしょう。
──
ええ。
ところが、この映画に関しては、
ラストシーンに来るべきはずの映像が、
最初に来ちゃってるもんで、
この映画は、
これからどういう展開になるんだ、と。
──
監督もそう思ってたんですか(笑)。
うん。でも、話はまだ続いたんですよ。
熊本県が、最高裁の判決は判決として、
つまり司法の判断はそれとして、
行政には行政の判断があるって理屈で、
ある意味で、
最高裁の判決を無視する態度をとった。
それで、さっきの川上さんはじめ、
原告団が頭に来て、裁判を起こしたと。
──
はい。
ようするに「和解」を拒否し、
最高裁の判決を重視しろという裁判を、
起こしたわけですね。
だから、
川上さんたちの裁判を追っていくこと、
そのことが、
映画のひとつの軸になっていくんです。
──
なるほど。
もうひとつの軸が浴野(えきの)学説です。
関西訴訟で原告団が勝利した背景には、
熊本大の浴野成生(えきのしげお)教授が
提唱していた病像論を、
弁護団が全面的に取り入れたからです。
一審は取り入れずに、負けました。
そこで、弁護団が、
浴野さんの学説を全面的に取りあげようと
方針を変えた。
それで、高裁では
一審では方針がまちがってましたと言って、
今後は浴野さんの学説に基づいて、
弁論を展開していきますと宣言したんです。
──
そうやって高裁で勝ち、最高裁でも勝った。
でも、その浴野さんの学説というのは、
まさに研究途上であって、完成していない。
仕上げに向かって、
最後の研究に取り組んでいたところでした。
そこで、その浴野学説のゆくえを、
もうひとつの軸だというふうに思い決めて、
撮影を進めていくことにしたんです。
──
そうやってはじまって‥‥15年。
そんなにかかるとは、思わなかったけどね。

(つづきます)

2021-11-29-MON

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  • 6時間12分の『水俣曼荼羅』、
    ただいま公開中です。

    原一男監督の大作『水俣曼荼羅』が、
    シアター・イメージフォーラム等で
    公開をスタートしています。
    上映時間は、なんと6時間12分!
    こんなに長い映画は
    9時間の『SHOAH』以来でしたし、
    最初かなり不安でしたが(笑)、
    観はじめたら、あっという間でした。
    2回の休憩を挟む3部構成ですが
    はやく「次が観たい」と思いました。
    終わったときには、
    ああ、終わりかあという寂しい感じ。
    水俣病のことを知ることができた、
    というだけでなく、
    原監督のまなざしの先の人物たちが、
    好きになってしまう映画でした。
    いつもの原一男作品と、同じように。
    劇場情報など詳しいことは、
    公式サイトで、ご確認ください。
    (ほぼ日・奥野)