いつか、大森克己さんの「写真論」を
うかがってみたいと思っていました。
写真家として何を大切にしているのか。
何に、向き合ってきたのか。
フレーミングやシャッターチャンス等、
撮影上の技術やセンス?
あるいは、写真を撮るときの心構え?
いざ、お話をうかがってみると‥‥
それは「ピント」でした。
ピント。
いまやカメラが
勝手に合わせてくれたりする、ピント。
そこに写真の真髄がある!?
全6回。担当は「ほぼ日」の奥野です。

>大森克己さんのプロフィール

大森克己 プロフィール画像 ©Hiroshi Nomura

大森克己(おおもりかつみ)

写真家。1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞(ロバート・フランク、飯沢耕太郎選)を受賞。近年の主な個展「sounds and things」(MEM 2014)「when the memory leaves you」(MEM 2015)「山の音」(テラススクエア 2018)など。主な参加グループ展に東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(東京都写真美術館 2013)「GARDENS OF THE WORLD 」(Museum Rietberg, Zurich 2016)などがある。主な作品集に『サナヨラ』(愛育社 2006)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー 2011)『心眼 柳家権太楼』(平凡社 2020)など。YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や「BRUTUS」「MUSICA」「花椿」などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。またweb dancyu の連載「山の音」など、エッセイの仕事も多数。

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第6回 再び「何のために撮っているのか」。

大森克己「#soundsandthings」より 大森克己「#soundsandthings」より

──
もはや「決定的瞬間」は「拡散」している。
大森
かつては、兵士が撃たれたという
わかりやすい「決定的瞬間」だけじゃなく、
たとえば、
アンセル・アダムスの風景写真なんかでも、
決定的瞬間を待っていたわけです。
アメリカの大自然が神々しく見える瞬間を、
じっと待って、
そのときがきたら撮影する、という意味で。
──
たしかに、とっても「決定的瞬間」ですね。
アンセル・アダムスの撮る風景は。
大森
それに対して、
「いやいや、ボクら、
ファミレスでパンケーキ食ってるんだけど」
っていう人も出てくる。
──
ああ‥‥。
大森
毎日、テレビの画面を見つめながら、
郊外で暮らしてるんだけど‥‥って。
──
神々しい風景なんかとは、無縁だと。
大森
そういう価値観のフォトグラファーが
どんどん出てくるわけだよね。
「ぼくら、アダムス先生みたいにところに
生きてないから」という。
──
ええ。
大森
そういった価値相対化の流れの中では、
かつて神聖視された
「決定的瞬間」にたいしても、
「いや、決定的瞬間なんてないよね。
もしくは、ぜんぶだろ」
という考えが、
まあ、当然のように出てくるわけです。
決定的瞬間という、
ある意味で、特権的な主観にたいする
アンチテーゼとして。
──
その点、大森さんは‥‥?
大森
もちろん両方を抱えて生きてます。
自分にとってかけがえのない瞬間って、
不意撃ちで突然やって来るし。
その反面「日々の繰り返しなんだよ」
という自分もいるから。
──
同じひとりの大森さんの中に。
大森
どっちが、って話じゃないんだよね。
ただ、こうして21世紀にいたっても、
コンビニの写真を見せられるより、
特徴のある建築物とか、
国立公園の大自然みたいなもののほうが
「いい写真だよね」と思う人が、
世の中に多いのは事実だとは思います。
──
その価値観は相対化されてるとはいえ、
「決定的瞬間的な写真」も、
いまだに通用力を持っているんですね。
大森
言葉の使い方も、あると思うんですよ。
決定的瞬間と言ったときには、
ふつうは、
写っているものの神々しさ云々だけど。
──
ええ。
大森
のんべんだらりとした日常ですからと、
決定的瞬間を否定している人でも、
どこかでシャッターは押すわけだから。
その瞬間は「決定的」だよね。

大森克己「Stars and Stripes」より 大森克己「Stars and Stripes」より

──
ええ、ええ。そうですね。
大森
その写真にとっては、その瞬間が。
だってそのとき、押したんでしょ。
決定的瞬間って、いまや、
言葉の呪いみたいになってる気がする。
──
ああ‥‥。
大森
つまり、シャッターを押さなければ、
写真にはならない。
その瞬間は「決定的」なんですよ。
ただ、その瞬間が
世間を驚かせるような「劇的」な瞬間や
「神々しい」被写体、
みたいなものでは、
もう、必ずしもないっていうか。
もっと、パーソナルなものになっている。
──
なるほど。
大森
写真を撮るということは、
シャッターを押すということだし、
そこにいたる、
いろんな決定や選択の積み重ねが、
写真ってことなんだと思ってます。
ぼく自身は、どんなにささやかであれ、
世界では常に何かが起こっている、
という気持ちを持っています。
「すべては初めて起こる」んだってね。

大森克己「#soundsandthings」より 大森克己「#soundsandthings」より

──
ひとつ、おうかがいしたいのですが、
世界遺産のキンキラキンの金閣寺を
それこそ決定的瞬間的に撮ったら、
多くの人が、いいねを押しますよね。
家の近所の、コンビニの写真よりも。
大森
たぶんね。
──
他方で、ネット上にあふれている
金閣寺のキレイな写真が、
どこかおもしろみに欠ける、
無個性に見えちゃうようなことも、
あると思うんです。
大森
観光パンフレット的な写真とかね。
──
そのあたりは、どう思われますか。
大森
ひとつには単純に、
大勢の人がアクセス可能な場所に行って、
似たような機材で写真撮ったら、
そりゃ、デフレになるよね、イメージは。
でも、どんな写真であっても、
撮る人が
本当に感動していたら、
何かが写真に宿ると思ってます。
──
なるほど。
大森
自分が感動しているかしないかは、
やっぱり、どうしても、
写真に出ちゃうんじゃないかな。
──
出てほしいとも思いますし。
さっきの、青森の‥‥。
大森
そうそう、
「ああ、この人、ここにいたんだなあ」
という
生きる実感が伝わってくるというか。
そういう写真が、いいじゃないですか。
──
誰かが撮ったんだ‥‥の「誰か」を
感じるような写真。
それが誰だか、知らなかったとしても。
大森
その意味で言うと、
ぼくが、デジタルカメラで撮るときに、
ひとつ、
気をつけていることがあるんです。
──
何ですか。
大森
つまりね、フィルムで撮るときよりも、
「何のために撮るか」を
より強く意識して写真を撮ってるんです。
なぜなら理由や動機の部分が薄くても、
フィルムだと、
それなりの「強度」が出るんですよね。
──
たしかにフィルムで撮ったってだけで、
何やら「いいもの」に感じますね。
大森
ようするに昔って、写真を撮るのにも、
手間がかかったわけですよ。
露出を計って、シャッタースピードや
絞りを決めて、撮って、現像。
さらには
選んでプリントしないと見れなかった。
フィルム代も印画紙代もかかったし。
──
ええ。
大森
そうやって手数をかけるということが、
アウトプットの「強度」に、
絶対に、あらわれると思ってるんです。
──
最近、石内都さんが、大きなロールに
プリントする作業の動画を見たら、
水を張ったトレイの中で
何度も何度も、
写真の表面を手でなでていたんですね。
薬品を落とす作業だったみたいですが。
大森
うん。
──
そのさまを見たら、
写真って、本来は立体的な作品なんだ、
ということがわかったんです。
物体としての「強度」を、持っている。
デジタルの写真とは、
根本的に別のものなんだと思いました。
大森
そうだよね。
──
だからこそ、デジタルの場合には
「何のために撮るか」が
いっそう、問われてくるんですね。
大森
そう。

大森克己「incarnation」より 大森克己「incarnation」より

──
今日の冒頭の話に戻ってきました。
大森
やっぱりさ、写真ってどうしても
写ってるものの話になりがちだし、
それは、とっても大事なんだけど。
写真の技術の話をするときには、
やっぱり、
「何のために、撮ってるんだろう」
という点を考えざるをえない。
──
なるほど。
大森
だって、ぼくが写真を撮るのは、
撮りたい理由があって、撮ってるわけだから。
ぼくは、そこのところをずっと考えてきたし、
いちばん大事だとも思ってるんです。
──
その上で、写真は「ピント」であると。
つまり「自分は何を見ているのか」
「ほかならぬ、ここを見てるんだ!」
ということだと。
大森
はい。でもね、「光」とか「直感」も、
とっても大事だね。
それに、撮影した写真を
どうやって「選ぶ」かっていうことも。
チャンスがあれば、
そんな話もいつかしましょう。

大森克己「Bonjour!」より 大森克己「Bonjour!」より

(おわります)

2021-05-01-SAT

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