日本人で最多、
9度のエベレスト登頂歴を誇る、
山岳ガイドの倉岡裕之さん。
これまで、何人もの人を
世界の最高峰へと導いてきた、
極地でめちゃくちゃ頼れる人。
ガイドのモットーは、
ズバリ「帰国翌日に社会復帰」。
シェルパの人たちからも
「おまえは強い」と認められた
日本最強の案内人に聞く、
高所、極地、デスゾーンのお話。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>倉岡裕之さんのプロフィール

倉岡裕之 プロフィール画像 くらおか・ひろゆき

倉岡裕之

  • 1961年、東京都で生まれる。
  • その後、千葉県我孫子市に移り、
  • 小中学生時代を過ごす
  • 1976年、中学2年のときに独学で登山を始める
  • 1983年、ネパールで初めてのヒマラヤ登山
  • 1984年、ベネズエラのエンゼルフォールの登攀に成功
  • 1985年、映画「植村直己物語」のスタッフとして
  • 北米アラスカに入る。世界7大陸最高峰のひとつである
  • 北米最高峰デナリに登頂。エベレストを初めて訪れる。
  • 1996年、ヒマラヤの高峰での仕事を始める。
  • 2003年、8000メートル峰のガイドが本格化する
  • 2004年、ガイドとして臨んで、エベレスト初登頂。
  • 2006年、世界7大陸最高峰の登頂をガイド側で達成
  • 2013年、プロスキーヤー、三浦雄一郎氏のエベレスト遠征に
  • 登攀リーダーとして参加。当時80歳の登頂を成功に導く。
  • 2017年、「NHKスペシャル幻の山カカボラジ」
  • 「イッテQ南極スペシャル」登攀隊長として参加
  • 2018年、エベレスト9回目の登頂を果たす
  • 2019年、三浦雄一郎氏のアコンカグア遠征に参加。

日本山岳ガイド協会 山岳ガイドステージ

URL: hiroyuki-kuraoka.com

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第1回 小学5年生で人生が決まる。

──
これまでに挑戦を続けてこられた、
あるいは
挑戦し続けている人たちのお話を、
まとめて
うかがいたいなと思っていまして。
倉岡
ええ。
──
倉岡さんには、
ぜひともエベレストのお話を、と。
倉岡
他に、どういう人が出るんですか。
──
ロッククライミングの第一人者の
平山ユージさん、
北極圏の極夜をさまよっていた
角幡唯介さん、
「太平洋ひとりぼっち」で有名な
堀江謙一さん‥‥。
倉岡
すごい人ばっかりだなあ。
ぼくなんかが出て、大丈夫ですか。
ユージなんて、
2回も世界チャンピオンになって。
──
いやいや、倉岡さんだって、
日本人最多、
エベレスト登頂9回を誇るすごい人、
でらっしゃいますから。
ちなみに、
平山さんとは、お知り合いでしたか。
倉岡
ユージが都立高専に通っていたころ、
たまに一緒に登ってて。江戸城の‥‥。
──
江戸城!?
倉岡
いやいや(笑)、
当時はクライミングジムもないので、
好きな人たちが、
江戸城の石垣跡に集まってたんです。
夕方になったら、フラーッと
ユージが学ランでやって来るんです。
──
じゃ、そのころからの、お知り合い。
倉岡
みんな真剣に石垣に取り付いてると
「やらせてもらっていいですか」
とか言って、ユージ、
スイスイ簡単に登っちゃうんですよ。
何だこいつ‥‥って思ってたら
10代で日本チャンピオンになって。
当時から、モノが違いましたね。
──
若いころから、出会ってるんですね。
すごい人たち同士って。
倉岡
まあ、コミュニティが狭いんでね。
クライマーが行きそうな場所って
だいたい決まってるし、
そこへみんな集まってくるんです。
──
なかでも、平山さんは、
当時から目立ってらっしゃったと。
倉岡
目立ってましたねえ。
このまま日本にいてもダメだって
フランスへ行って、
世界のユージになって戻ってきた。
角幡くんも、よく知ってます。
──
角幡さんとは、どちらで?
倉岡
20年くらい前かなあ、彼が
ヨットでニューギニアへ行ったとき。
隊長と知り合いだったんですけど、
その人が、
「金がないから、倉岡、持ってこい」
とか言ったんで(笑)、
出航する日に、餞別みたいな感じで
5000ドル持って油壺に行ったら、
いたんですよ、そこに。
──
若き日の角幡さんが、油壷に。
朝日新聞の記者になる前でしょうか。
倉岡
そうじゃないですかね。
今じゃすっかり有名人ですもんね。
──
ドキュメンタリー系の賞を、
のきなみ獲っちゃってる感じですね。
倉岡
すごいなあ。

エベレスト、チベット側頂上直下の岩場。 エベレスト、チベット側頂上直下の岩場。

──
しかし、そうおっしゃる倉岡さんも、
高所山岳ガイドとして、
日本最強と呼ばれてらっしゃいます。
さっそくおうかがいしたいんですが、
山との出会いは、いつごろでしたか。
倉岡
ぼくはね、小学校5年生のとき。
我孫子の小学校に通ってたんですが、
本屋さんに行ったら、
『登山入門』って本があったんです。
──
ええ、ええ。
倉岡
そう、その本の表紙が、
剱岳で
ロッククライミングやってる写真で。
当時ですから、今みたいに
カッコよくはなかったんですけど、
「あぶみ」って
ハシゴみたいなのにぶらさがって、
岩壁に、
ハーケン打ってる場面だったんです。
──
これぞ岩登り、というような。
倉岡
その写真にね、見入っちゃいまして。
そこで人生が決まっちゃいました。
──
本屋さんの店先で、
小学5年生の「人生」が、決まった。
倉岡
まあ、そのあとすぐに
山登りできるわけはないんですけど。
ずーっと、忘れられずにいて。
──
その雑誌の表紙の写真が。
倉岡
そうですね‥‥中学校へあがっても、
山のことしか考えられず、
山の本とか雑誌ばっかり読み漁って。
ようやく中2になって、
山登りへ行けるようなったんですが。
──
最初は、どのあたりから?
倉岡
丹沢です。山岳会にも入ってないし、
何の経験もなかったんですが、
母親が、
昔ハイキングをやっていたときの
キャラバンシューズをくれたんです。
──
その、お母さんのお下がりを履いて。
倉岡
リュックは親戚が買ってくれて、
父親からは
「シャベルとロープを持ってけ」
って、持たされて‥‥
2泊3日の旅だったんですけど。
──
単独ですか。
倉岡
はい。
──
はじめての山登りで、
中学生が、2泊3日の単独行ですか。
倉岡
ええ。そのあとも
独りで筑波山でクライミングしたり。
道具も何も持ってなくて、
何万円もするロープは買えないから、
5ミリの細引き買って、
それで単独で登ってたりしましたね。
──
つまり、比較的お安いロープで‥‥。
倉岡
意外と切れないもんだなとか(笑)。

──
日本で最もエベレストに登っている
倉岡さんも、
最初は山岳会に入らず、独学だった。
倉岡
そうですね、本を読んだりとかして。
上達は早かったほうだと思います。
でも、いろいろ独りでやってみて、
山岳会に入ってないと、
世界が広がらないなと思ったんです。
──
なるほど。
倉岡
大学は明治大学に入ったんですけど、
その年、隊長・植村直己さんで、
冬のエベレストへ行くと聞きつけて。
山岳部の部室で、
「エベレストに連れてってください」
ってお願いしたんです。
──
おお、直訴!
植村直己さん、明治OBですもんね。
倉岡
でも、ダメで。
──
あ、ダメでしたか。
倉岡
はい、ダメに決まってるんですけど、
そこで当時、流行りはじめた
社会人の山岳会に入ったんですよね。
みんな、はたらいてるんで、
基本的に土日しかない‥‥というか、
当時は、
土曜休みじゃない時代だったんです。
──
いわゆる「半ドン」のころ。
倉岡
仕事が終わったあと土曜の夜に出て、
スピーディーに
難しい山に登って帰ってくるんです。
そういうスタイルの、
今どきの山登りがはじまったころで。
──
それが「今どき」なんですね。
倉岡
真冬の10日間、
岸壁にぶら下がりながらとかでなく、
装備も荷物も軽量化して、
富士山なんかでも、
泊まらずにパッと行って帰ってくる。
大学の山岳部の山登りとは、
発想の違うやり方が出てきたんです。
──
それが、何年くらいのことですか。
倉岡
1979年くらいだと思います。
日本で1、2を争うような山岳会で、
国内の山に登っていました。
大学へはほとんど行かず、山にいた。
──
本格的に、山中心の生活へと。
倉岡
大学は7年間いて除籍になりました。
大学にいたのは山へ登るためだった。
入学式の当日にクラスわけがあって、
席に座ってあたりを見渡した瞬間、
ここは俺の居場所じゃないなあって。
──
あ、その時点で。
倉岡
ええ、初日にわかっちゃったんです。
母は、ぼくの山のことを
応援してくれていたんですけど、
大学を辞めさせられちゃったときは、
さすがに泣いていました。

世界第6位の高峰チョ・オユー山頂から見るエベレスト。 世界第6位の高峰チョ・オユー山頂から見るエベレスト。

2020-09-28-MON

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