アメリカにわたり、9年をかけて
「歌を歌う人」を撮影し続けてきた
写真家の兼子裕代さん。
その「歌っている人の写真」には、
なんとも、ふしぎな魅力があります。
自分には何ができるのだろう‥‥と
自問自答した日々を経て、
「キラキラしたものを撮りたいんだ」
ということに気づいた兼子さん。
歌を歌う人の顔も、
やっぱり、キラキラしていました。
そんな兼子さんに
写真とは、歌とは、うかがいました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

協力|POETIC SCAPE

>兼子裕代さんのプロフィール

兼子裕代(かねこひろよ)

1963年、青森県青森市生まれ。1987年明治学院大学フランス文学科卒業。会社員を経てイギリス・ロンドンで写真を学ぶ。1998年より写真家、ライターとして活動。2003年サンフランシスコ・アート・インスティチュート大学院に留学。2005年サンフランシスコ・アート・インスティチュート大学院写真科卒業。現在カリフォルニア州オークランド在住。

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第1回 止まるテーマ、続くテーマ。

──
兼子さんの
歌を歌っている人の写真集を見ていると、
じわじわ‥‥くるんです。
兼子
あ、じわじわくるって、よく言われます。

──
そうですか、やっぱり(笑)。
で、同時に、
写真家のみなさんを見ていて、
どうなってるんだろうと思ってたことを、
すごく思ったって言うか。
兼子
何ですか?
──
テーマです。
テーマをどうやって決めているのかって。
だって、人によっては、
何年も継続して追いかけていくものだし。
兼子
ええ、そうですね。
──
5年なら5年、それって、
何十年かの人生のうちの5年間なわけで、
その「発見」というか「出会い」って、
写真家‥‥というまえに、
ひとりの人にとって、
すごい出来事だよなあって思うわけです。
その間の人生を左右してしまいかねない、
その重みがあるんじゃないかって。
兼子
そうですね‥‥何なんでしょうね(笑)。
──
このテーマといえばこの写真家みたいに、
その人の代名詞みたいにもなるし。
兼子さんの場合は「歌う人」‥‥。
どうやって、そこへ、たどり着いたのか。
兼子
はい、「歌う人」の場合は、
そんなに長く撮ることになると考えずに、
撮りはじめていたりします。
でも、結果的に、長くはなりましたけど。
──
撮っていた期間は‥‥。
兼子
9年です。
終えてみて思ったのは、
自分の中で「これでいいんだ」というか、
「これ以上できない」
と思うまで続けることになるんだなあと。

兼子裕代『APPEARANCE』より 兼子裕代『APPEARANCE』より

──
これ以上できない‥‥なるほど。
「歌う人」にたどり着くまでは、
試行錯誤や紆余曲折もあったんですか。
兼子
そうですね、若いころは、
長崎の風景を撮っていたりもしました。
別に出身地でも何でもないんですけど、
親しい友人が住んでいて、
遊びに行くうちに興味を持ったんです。
──
長崎の‥‥。
兼子
諫早から島原へ抜けるあたりが好きで。
当時は、雲仙普賢岳が噴火してから
まだ数年で、
痕跡が生々しく残っていたりしました。
──
雲仙普賢岳というと、90年代ですか。
兼子
1996年です、はじめて行ったのは。
当時は諫早湾の水門もできたばかりで、
政治問題になっていましたが、
訪れるたびに、
ちょっとずつ状況が変わるんですよね。
それで、何となく興味を持って、
何年か風景を撮っていたら、
アメリカの同時多発テロ事件が起きた。
──
9.11‥‥2001年。
兼子
ちょうど長崎の友だちのお家に着いて、
荷を下ろしてリラックスしてたら、
テレビに、
貿易センタービルの映像が映りました。
──
日本では夜でしたよね。
兼子
あのショッキングな映像を見たときに、
わたしは
長崎市の「グラウンド・ゼロ」を
撮らなければいけないって、
なんだか「強く」心に思ったんですよ。
──
強く。
兼子
はい。
これまで避けていたわけじゃないけど、
長崎を撮っているなら、
やはり原爆を避けては通れないなって。
──
それまでは、何となく、好きな風景を
撮り続けてはきたけれども。
兼子
そう、そういう気持ちになったんです。
それからは、諫早湾や島原だけでなく、
長崎市で
原爆に関わる風景も撮るようになって。
被爆者の人たちも撮らせていただいて、
お話を聞いたりもしました。
──
そうやって「テーマ」になっていった。
兼子
最終的に「ながさき問答」という
シリーズとしてまとめました。
2002年、
国立近代美術館の写真のグループ展で、
そのシリーズから
作品を出展させていただいたんです。
そこでひと区切りというか、
長崎を撮るというテーマは、
自分のなかでは、
いったん終わらせることができました。
──
つまり、長崎の場合も、
90年代から2002年まで、続いた。
そのときの作品は、
今も、どこかで見れたりするんですか。
兼子
わたしのウェブサイトに載ってますよ。
当時の紆余曲折っていうか‥‥
すったもんだが写っていますね(笑)。
──
こんど、見てみます。
兼子
そのあとアメリカへ学びに行くんですが、
いったん日本へ戻ったときに、
また少しずつ撮ったりはしていましたが。
最終的に「これで、終わり」にしたのは、
2009年ですね。
長崎市立図書館で展覧会を開催しまして。
──
他方、そこまで大きなテーマにならずに、
途中で終わっているものも‥‥。
兼子
あります。
──
何がちがうんでしょうね。それって。
兼子
んー、明確な言葉にはならないけど‥‥
写真って、やっぱり、
自分はこれを撮るべきだという気持ちで
撮っているんですね。
誰かに頼まれて撮ってるわけじゃなくて。

兼子裕代『APPEARANCE』より 兼子裕代『APPEARANCE』より

──
自らの「意思」が出発点になってる。
兼子
そうなんです。
誰にも頼まれないのに、やってるんです。
──
何か、突き動かすものがある?
兼子
これは、このテーマは
中途半端に投げ出せない‥‥という思い、
なのかな。
自分の興味が持続しているかどうかは、
もちろん大切ですけれど。
本当はもう退屈なのに無理に撮れないし。
──
ええ、そうでしょうね。
兼子
この『APPEARANCE』については、
撮りはじめてすぐに
「いつか本にしてみたい」と強い思いが
生まれたんです。
でも、2017年くらいかなあ、
けっこう撮りたまってきていたところで、
どうまとめていいかわからず、
ちょっと行き詰まってしまったんです。

兼子裕代『APPEARANCE』より 兼子裕代『APPEARANCE』より

──
そうなんですか。
兼子
そう‥‥行き詰まってるんです、いちど。
そのとき信頼している方ふたりに相談し、
助けを借りたんです。
そのことで、
こんなふうにまとめていこうって方針が、
明確になって‥‥
こうして写真集にすることができました。
──
なるほど。
兼子
だからたぶん、何かが続くかどうかって、
自分の中のことだけじゃないのかな。
──
やりはじめたのは自分だけど‥‥。
兼子
そう、やっているうちに、続けるうちに、
まわりの人たちの助言や、
展示などの機会をいただいたり、
自分の「欲」が出てきたり‥‥
いろいろしながら、
気づいたら9年、続いていたという感じ。
──
写真家の人に顕著かなと思うんですけど、
作品づくりにあたって、
まず出版計画があってはじまるわけでは
ないことも多いじゃないですか。
兼子
そうですね。
──
まずは何年もかけて撮ったんです‥‥と。
雑誌の連載が写真集になりましたなんて、
幸福なケースっていうか。
兼子
そうかも。
──
どうなるかわからないのに、つくり出す。
その実行力が、すごいなあと思うんです。
兼子
よくばりなのかもしれません。
いつでも、被写体やテーマを
探しているようなところが、あるんです。
──
途中で終ってしまうものも、ありつつ。
兼子
ええ。カリフォルニアで
ロードムービーのようなスナップ写真を
撮っていたんですが、
それは止まったまんまになっています。
わたしの場合は、ふたつかみっつくらい
同時進行しているけど、
途中で抜け落ちていくものは、あります。
──
でも「歌う人」は、残った。
兼子
残りました。

兼子裕代『APPEARANCE』より 兼子裕代『APPEARANCE』より

(つづきます)

2021-04-05-MON

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  • 9年以上にわたって
    「歌う人」を撮り続けた兼子さんの作品集。
    歌を歌っている人たちの表情は、
    幸せそうであり、悲しげでもあり、
    悩ましげであり、苦しげでもあり、
    楽しそうであり、嬉しげでもあり。
    インタビュー中、兼子さんは
    「歌は、感情そのもの」と言っていますが、
    まさに、そのようなことを感じます。
    歌は写らない? でも、聴こえる気がする。
    じっと見入ってしまう不思議さがあります。
    じわじわ時間をかけて好きになってしまう、
    そんな、やさしい引力を持ちます。
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