2020年2月、写真家の幡野広志さんの
cakesでの悩み相談の連載をまとめた本
『なんで僕に聞くんだろう。』
発売になりました。
渋谷パルコ8階の『ほぼ日曜日』では、
刊行を記念して、幡野さんの写真展を開催。
会場でおこなわれた3つのトークが
とても面白かったので、記事としてお届けします。

最後は糸井重里とのトークです。
すでに何度も対談をしていて、
日常的にもいろいろな話をしているふたり。
この日は糸井が「今日は全然明るくない話が
できたらなと思って」と前置きをした上で、
幡野さんの中心にある考え方について、
じっくりと聞いていきました。

>幡野広志さんプロフィール

幡野広志(はたのひろし)

写真家。
1983年、東京生まれ。
2004年、日本写真芸術専門学校中退。
2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、
「海上遺跡」で「Nikon Juna21」受賞。
2011年、独立し結婚する。
2012年、エプソンフォトグランプリ入賞。
2016年に長男が誕生。
2017年多発性骨髄腫を発病し、現在に至る。
著書に
『なんで僕に聞くんだろう。』(幻冬舎)
『ぼくたちが選べなかったことを、
選びなおすために。』
(ポプラ社)
『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』
(PHP研究所)
『写真集』(ほぼ日)がある。

ほぼ日刊イトイ新聞での登場コンテンツは、
「これからのぼくに、できること。」
「被写体に出合う旅。」
「そこだけを、見ている。」
「ネパールでぼくらは。」ほか。

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第1回 自分に変えられるのなら。

糸井
幡野さんはいま、ますます多くの人から
「すごい人なんじゃない?」と
思われるようになってきて。
幡野
非常に困ったもんですね。
糸井
しかも、さまざまな活動で
「超元気なカメラマン」みたいに
なっちゃってるじゃないですか。
おおもとは病気デビューだったはずなのに。
幡野
そうですね(笑)。
糸井
だからいま、幡野さんが
そのあたりを語る機会が、
驚くほどなくなっちゃったんですよね。
幡野
でもこうやって病気以外のことで
知られていくと、たとえば
「日本の医療の問題を変えたい」
と思ったとき、
みんなが耳を傾けてくれるんです。
ふつうのお医者さんや患者さんが言っても、
聞いてもらえないので。
だから前々から
「そうじゃないところで
知名度を上げなければいけないな」
とは思ってました。
糸井
そういう意味では、本当に思ったとおりに。
幡野
はい、ありがたいことに。
糸井
ただぼくなんかも
遠慮してるわけじゃないのに、
最近は幡野さんと病気あたりのことを
まったく話さなくなっちゃったんです。
病とか、死とか、生きることとかについて、
話を聞く機会もしゃべる機会も
なくなっちゃったんですよ。
幡野
そうですね。
糸井
いちばん最初、ぼくは相当気をつけながら
やりとりしていたんです。
幡野さんのブログを最初に読んだのが、
一昨年の2月15日なんですけど。

幡野
ちょうど2年前ですね。
糸井
すごいの見ちゃったな、と思って。
「ぼくには嫌いな先輩がいます」とか、
嫌いな人は嫌いだということを
はっきり書いてあったし。
この人に会うのは難しいだろうなと。
幡野
そうですね、たしかに。
糸井
深呼吸をしながら「どうしたもんかな」と、
とにかく様子を見ようと思ってた
時間が長かったんです。
ただあのときの自分の緊張感みたいなものって、
やっぱり間違ってなかったと思うんですね。
幡野
ああ。
糸井
いまでは会えばふざけたり、
ふつうの話をしたりしてますけど、最初は
「この人が生きることの邪魔にならないかたちで
自分に手伝えることがもしあるなら、
何かできないかな」
と思って幡野さんを見てたわけで。
だから今日は、あらためてもういちど
あのときの気持ちを取り戻して、
話ができたらいいなと思っているんですね。
幡野
はい。
糸井
ぼくもぼくで、自分の生や死だ、
病だ、家族だを考えてないわけじゃない。
幡野さんもずっとそのことを
考えてきていて、
だからいろんなことが話せるわけで。

幡野
そうですね。
糸井
今日はそういう全然明るくない話が
できたらなと思ってます。
別に明るくてもいいんですけど、
まともに話をしちゃおうかなって。
幡野
わかりました。
よろしくおねがいします。
糸井
じゃあどう話していこうかと
思うんですけど、まずは
「幡野さんの中心にいる自分って、
どんな人ですか?」
ということから聞いてみたいなと。
幡野
なるほど、なるほど。
ぼくの中心にいる人。
糸井
幡野さんはいま、何歳ぐらいの
つもりで生きてるんだろう?
幡野
いまぼくは36歳ですけど、
実年齢とそんなに変わらないかな
と思いますね。
上でもなく、下でもなく。
その自分の年齢に対して
「子どもが何歳」とか、
そういうふうに考えちゃってます。

糸井
若いときはどうでしたか。
たとえば18歳のときに、
18歳でしたか?
幡野
若いときは本当に、ただのバカでしたよ(笑)。
18歳のときは
「バカな18歳だった」という感じでした。
糸井
そこからずっと並行して、
ちゃんと年をとってこられましたか?
幡野
20代後半から30歳ぐらいで、
ようやくちょっと落ち着いてきたかな
とは思います。
妻から見ればまた違うかもしれないですけど。
でも、たとえば病気になったのは
2年前ですけど、
いま2年前の自分を振り返っても
「ちょっとバカな34歳だったかな」
とは思います。
糸井
その「34歳のバカな幡野さん」は、
どのように作られてきたんでしょうか。
幡野
なんでしょうね。
糸井
自分が病気になったとわかったとき、
幡野さんはいろんな人たちに
大量の取材をして回られてますよね。
その記録は本になってますけど。
幡野
『ぼくたちが選べなかったことを、
選びなおすために。』
ですね。
糸井
そんなことをやろうと思う34歳の人って、
ぼくはちょっと珍しいと思うわけです。
自分の生死について考えるときに、
ほかの病気の人のところへ
取材に行くわけですから。
幡野
自分が死んじゃうのはもう
「いいかな」と思ったんですよ。
それはそれで。
しょうがないじゃないですか。
そこは抗っても仕方ないなと思って。

糸井
ああ。
幡野
それよりも、最初に入院とかするわけです。
そのときあまりにも良い環境じゃなかった。
医療ってたぶん、30年前からそうなんです。
それで、自分はいいけど、
「もし30年後に自分の子どもが
病気になったとして、
このまま同じ状態が続いてたら大変だ」
と思いました。
「もっとよくなるべきだ」と
思ったんですよね。
糸井
はい。
幡野
入院してる方って、若くても60代とか、
70代、80代、90代の方ばっかりなんです。
要は「辛いと思っても言えなかったり、
変えたいと思っても変えられない人たち」。
だから病人の中では明らかに、
ぼくがフットワークが軽いなと思って。
「もし自分にこの状況が変えられるのであれば、
変えたほうがいいだろうな」
とはすごく思いました。
あまりにも良い環境ではないので。
糸井
つまり、病気がわかったとき、
牢獄に入るみたいなことだと‥‥。
幡野
牢獄よりもひどいかも。
糸井
思ったんだ。
幡野
思いました、ぼくは。
それぐらいちょっと辛い。
これが人間の最期かとは、
ぼくは思いたくなかったです。
「80歳、90歳まで生きた人の最期が
これなんだ」
ということが、ぼくには衝撃でした。
そこって、知らなければ知らずに
生きて通れちゃうことですけど、
まずは知らせないといけないと思った。
そこからやっぱり
「変えなければ」と思いました。
糸井
つまり、
「死ぬということが根源的に辛い」
とかじゃなくて。
「辛い環境が辛い」と。
幡野
そうですね、具体的に辛くて。
でも「確実にこんなの一瞬でよくなるよね」
ということも、たくさんありました。
それがどうして変えられてないのか、
当時はぼくも理解できなかったんですけど。

(つづきます)

2020-05-20-WED

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