
銀座4丁目にある映画館「シネスイッチ銀座」が、
2026年10月25日をもって閉館することになりました。
1987年にオープンした同館の歴史は1955年、
「銀座文化劇場」から始まります。
映画の街だった銀座から映画館が一つ、二つと姿を消し、
唯一残ったのがこの劇場でした。
かつて銀座文化でアルバイトをしていた片桐はいりさんが、
何千回と訪れた劇場を下から上まで巡り、
長年この地で映画や文化を発信してきたその雄姿を
残しておきたいと思います。
シネスイッチ銀座
1955年11月21日、
東京、千葉、埼玉 で映画館を運営してきた旗興行が、
銀座に「銀座文化劇場」を開業。
地下1・2階の銀座文化1は松竹映画の封切館、
地上3階の銀座文化2は都内で唯一、
ハリウッド・クラシックを500本以上提供する名画座で、
「銀文」の愛称で親しまれた。
1987年、地下1・2階を改装。
日本映画と外国映画を
「スイッチ」して上映できる劇場として
同年12月19日、「シネスイッチ銀座」を開業。
旗興行と配給会社のヘラルド・エース
(現在のアスミック・エース)、
フジテレビの3社が共同で番組を編成するという
珍しい体制が取られた。
1997年には、銀座文化2も改装し、
「シネスイッチ銀座(1・2)」として
完全リニューアルオープンを果たす。
現在の日本の映画興行は
邦画が圧倒的な人気を誇るが、
当時のミニシアターで上映される作品は
外国映画が主体だった。
そんななかシネスイッチ銀座では、
後に『おくりびと』で日本映画初の
アカデミー賞外国語映画賞を受賞する
滝田洋二郎監督の『木村家の人々』(1988)をはじめ、
小劇場ブームの立役者・鴻上尚史の初監督作
『ジュリエット・ゲーム』(1989)、
カンヌ国際映画祭にも出品された
相米慎二監督の『お引越し』(1993)、
そして岩井俊二監督の『Love Letter』(1995)
といった数々の日本映画が上映され、ヒットを記録。
一方で、1989年公開の『ニュー・シネマ・パラダイス』は、
日本における単館興行成績の記録を塗り替える大ヒットとなり、
劇場の名とともに日本の映画史にその名を刻むことに。
また、レディースデーを映画館で初めて1980年代から導入。
仕事終わりや買い物のついでに入りやすく、
そして女性に寄り添った
コンセプチュアルな作品を多く上映してきた。
シネスイッチ銀座となってからの上映作品は、
延べ700本以上にのぼる。
パンフレットには、館名と通し番号、
次回上映作品の告知が掲載されていて、
手元に残る思い出や劇場空間そのものを大切にする、
独自の世界観とオリジナリティを貫いた劇場でもある。
片桐はいり
1963年、東京都大田区出身。
大学在学中に銀座文化劇場でもぎりのアルバイトをはじめ、
俳優となった後も続けた。82年『電気果実物語』で初舞台。
85年『ふぞろいの林檎たちⅡ』でテレビドラマに、
86年『コミック雑誌なんかいらない!』で映画初出演。
87年『自由な女神たち』に出演、
銀座文化1でも上映され、自らチケットをもぎる。
2006年、映画『かもめ食堂』がシネスイッチ銀座で公開され、
ついに同館で舞台挨拶を行った。
銀座文化のアルバイト時代のことを綴ったエッセイ
『もぎりよ今夜も有難う』を『キネマ旬報』に連載し、
第82回キネマ旬報ベスト・テン読者賞を受賞。
2010年、同名の書籍を上梓。
その前後から、地元の映画館・キネカ大森でもぎりを再開、
全国各地の映画館でもぎりを行うように。
2018年、キネカ大森の改修工事に伴い、
「慣れ親しんだ映画館の姿を残そう」と、
企画にも携わった短篇『もぎりさん』(全12篇)に主演。
キネカ大森の名画座で上映される作品の前に、
一作品が先付け上映されている。
長年のチケットもぎりと映画館への貢献が称えられ、
2023年度日本映画ペンクラブ賞特別賞を受賞。
2025年、『誠實浴池 せいじつよくじょう』、
『彼方の島たちの話』の演技に対し、
第60回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した。
10月28日(水)〜11月1日(日)まで
新宿シアタートップスで上演される劇団アンパサンド公演
『立ち止まるには近すぎる』に出演(地方公演あり)。
12月11日(金)より新宿武蔵野館ほか全国で公開される
映画『妖怪、化物をひろう』にも出演している。
構成・文:川村夕祈子
2026年6月15日。
シネスイッチ銀座のウェブサイトに
閉館の報せが掲載された。
膝に手をつくほどの虚無感に襲われた。
「そんな大げさな」と思うかもしれない。
けれど、このニュース、
映画ファンにとってはかなりの衝撃だった。
映画館の閉館や休業は、
たとえ行ったことのないところであっても、
慣れないし、寂しい。
多くの映画ファンが、毎度同じ想いをしていると思う。
まして、シネスイッチ銀座は、
1970年代後半から90年代後半まで続いた
ミニシアターブームにおいて、
欠かすことのできない最重要館なのである。
1984年、銀座文化でのアルバイト当時
撮影=谷古宇正彦 写真提供=片桐はいり
「俳優の片桐はいりが、時折映画館で働いている」
というのは、映画ファンの間では有名な話。
厳密には、働いているわけではなく、
映画を観に行くついでに、
チケットをもぎったり、掃除をしたりしているのである。
それというのも、片桐はいりは、
シネスイッチ銀座の前身、銀座文化で7年間、
もぎりのアルバイトをしていたからだ。
だから働く、という理屈は通らないのだが、
その頃の出来事や映画、映画館への想いは
エッセイ『もぎりよ今夜も有難う』に綴られている。
この記事を書いているほぼ日手帳チームのカワムラは、
以前、映画専門誌の編集部におり、
はいりさんの連載、著書の編集をしていたご縁で、
いまも、地方の映画館を一緒に取材している。
「片桐はいりさんと一緒に取材をしたい」と申し込むと、
はいりさんのバイト時代の同僚で、
シネスイッチ銀座の吉村俊一さんは
快く取材を受けてくださることになった。
8月某日。
映画の初回上映の約2時間前。
片桐はいりさんは、
数日ぶりにシネスイッチ銀座へやって来ました。
最近ではめずらしい都内1館上映の、
チャン・リュル監督『春樹』と『ルオムの黄昏』を
観に来たばかりといいます。
銀座文化、シネスイッチ銀座に勤めて44年の吉村俊一さん(左)
- ──
- 吉村さんと会うのも久しぶりですか?
- はいり
- いやいや、来ておいて知らん顔ってのもなんだから、
「吉村さん、いらっしゃいますか?」って声かけますよ。
急いでいる時は、劇場に一目散ですけど。
- 吉村
- 僕がいない時に来ることもあるけど、
いる時は挨拶しますね。
早速ですけど、映写室へ行きましょうか。
地下にあるシネスイッチ1の1階席、地下2階まで降りていく
1階席入口の横、「STAFF ONLY」と書かれた扉が映写室の入口
- はいり
- うわぁ〜! まだ映写機あるんだ。
これで『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)を?
- 吉村
- かけてました。
以前はここに、映写機が2台あったんですけどね。
日本電子光学工業製35mmフィルム映写機「CINE FOWARD」、ランプハウスは「CINEMECCANICA」。手前にあるのは、現在使われているDLPプロジェクター
- はいり
- 近ごろは使ってない?
- 吉村
- 平成17年から18年にかけて、
『ニュー・シネマ・パラダイス』をリバイバル上映した時。
それと平成24年にCSの番組の企画で、
「平成元年に流行った映画」として
『ニュー・シネマ・パラダイス』と『ダイ・ハード』が選ばれ、
その時のイベント上映が最後かな。
- ──
- 2010年に映写方式が
DCP(デジタル・シネマ・パッケージ)に変更されてから、
映写機のある映画館が少なくなりましたね。
- はいり
- シネスイッチの閉館後は、
どこへ行っちゃうんですか?
- 吉村
- 業者に撤去してもらうことになるでしょうね。
今となっては貴重なので、
部品だけ欲しいと言う人がいるかもしれません。
タッチパネルでDLPプロジェクターを操作する吉村さん。現在は映画上映に特別な技術は不要になった
- はいり
- 絶対、誰かが手を挙げますよ、
ホントはわたしがほしいけど‥‥。
しかもここは、映写機だけでなく、
映写室がほんとうにきれい!
- 吉村
- フィルムが静電気でほこりを吸い寄せちゃうので
床は常に拭いて、きれいにしていました。
かつては土足厳禁でしたしね。
DLP(デジタル・ライティング・プロセッシング)に
なってからは、そんなことしなくてもよくなったので土足で。
- はいり
- 全国の映画館で、結構な数の映写室を
見せてもらってきましたけど、
こんな清潔なところはなかったなぁ。
なんというか、”欲望”みたいな写真が貼られていたり(笑)、
決まったところに何かが置かれていたりして、
暗闇で仕事をしている人たちの癖が見える。
それも悪くはないんだけど、
ここは余計なものが置かれていない。
かつての職場ではありながら、
こんなストイックな映写室は初めて見ましたよ。
- ──
- アルバイト当時の
映写室での思い出はあまりないんですか。
- はいり
- 全然ないんです。
だって映写室は、
もぎりが入っちゃいけないところだったんだから!
これは銀座文化の特徴で、直接言われた覚えはないけど
「すごく重要な空間だ」という教えがあったはず。
- 吉村
- 当時の部長が「映画館の心臓部だ」と言ってましたね。
- はいり
- そうだ! ものすごく怖い、厳しい部長がいましたよね。
いま思い出すだけでも、怖い、本当に怖い上司(笑)。
その部長が来ると、出札小屋(入口の切符売り場)から、
「原部長が来ました!」と報告が入って、
ピリっとしたムードに変わったんですよ。
- ──
- 7年間もアルバイトしていても、
映写室に入るのは初めてだったんですね。
3階の「シネスイッチ2」の映写室も見られますか。
シネスイッチ2は、日本電子光学工業製の業務用35mmフィルム映写機
「CINE FORWARD」
- はいり
- こっちもやっぱりきれいですね。
そうそう、映写室はとっても暑いから、
大概扇風機が置いてあります。
映写機は、シネスイッチ1と違う機種なんだ。
これも、もう使ってないんですか?
- 吉村
- たまに映写機を空回しさせてオイルを循環させています。
シネスイッチ1の映写機は、
明るいランプを使いたかったので、
ランプハウス(光源)を入れ替えて使っていました。
「DLPを前にすると私の顔も急に機械的になっちゃう」とはいりさん
- はいり
- 20年くらい前から蒲田宝塚・テアトル蒲田
(1950・1955〜2019年)に出入りするようになって、
「銀座文化で映写してたよ」という人に会いましたよ。
- 吉村
- でもうちはあの頃、
専任の映写技師はいなかったんだよ。
- はいり
- え! 映写技師、いなかったでしたっけ!?
それも初めて知りました。
- 吉村
- 僕が入る前は技師がいた時期もあったけど、
映写も、毎日のリールの掛け替えも社員がやってました。
- はいり
- 編集〈*〉も?
- 〈*編集〉
損傷したフィルムの修復をはじめ、
一本の映画フィルムは複数缶に分かれて届くため、
それらを一つに繋げたり、
予告編を繋いだりする作業。
映写技師は上映だけでなく、編集も行う。
- 吉村
- 編集は大宮ハタプラザ(1970〜2006年、簱興行の映画館)の
映写技師が来てやってましたね。
- はいり
- そうか、社員は大変な仕事をしていたんですね。
当時は映写トラブルが起こったら
「フィルム切れましたー!!」って
よく事務所に駆け込んだもんです。
映写室は、もぎりなんかが近づいてはいけない、
聖域のようなところでしたから。
古い映写機に、思わず頬を寄せる

シネスイッチ銀座を語る上で欠かすことのできない映画が
『ニュー・シネマ・パラダイス』です。
1989年12月16日にシネスイッチ銀座一館で封切られ、
1990年9月まで10カ月におよぶロングランを記録しました。
イタリアの片田舎にある
映画館を舞台にした物語という内容とも相まって、
『ニュー・シネマ・パラダイス』は
ミニシアターブームを象徴する
記念碑的な作品となったと同時に、
「シネスイッチ銀座で観た」という体験とセットで、
今なお映画ファンに記憶されています。

写真提供:シネスイッチ銀座
「前の年の昭和63年に、
日比谷シャンテ シネ(現・TOHOシネマズ シャンテ)で、
ヴィム・ヴェンダース監督の
『ベルリン・天使の詩』(1987)が
30週のロングランをしていました。
すごいなぁと思って見ていたんですけど、
それを遥かに超えてしまいましたからね。
連日、行列は晴海通りに達し、その整理も大変でした。
途中から横浜の関内アカデミーでも上映しましたが、
ここに何度も足を運んでくださるお客さんもいましたし、
40週続けることもできたと思います。
でも、さすがに次の作品の予定がありましたから」
と吉村さんは振り返ります。
ちなみに吉村さんの実家の三軒隣が映画館で、
子どもの頃から映写室に入ることができたそう。
銀座文化時代からここで働くこと44年。
「一番思い出深い映画は
『ニュー・シネマ・パラダイス』ですね」
というのもとても納得できます。
この記録は、いまなお塗り替えられておらず、
単館上映という興行形態はほぼない
シネコン全盛の現在において、
今後も破られることはないでしょう。
座席数334(当時)の映画館、たった一カ所で、
実に26万人もの人々が同じ映画を鑑賞しました。
こうしてシネスイッチ銀座は、
日本のミニシアター文化を牽引する
象徴的な存在へとその名を刻んだのでした。
参考文献:『ミニシアター再訪(リヴィジット)
都市と映画の物語 1980-2023』
大森さわこ著・アルテス出版刊
2026-10-09-FRI