2018年1月に「ほぼ日の学校」は誕生しました。
そして、2021年の春に
「ほぼ日の學校」と改称し、
アプリになって生まれ変わります。

學校長の河野通和が、
日々の出来事や、
さまざまな人や本との出会いなど、
過ぎゆくいまを綴っていきます。

ほぼ毎週木曜日の午前8時に
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2021年2月11日にこのページはリニューアルされました。
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>河野通和のプロフィール

河野通和 プロフィール画像

河野通和(こうのみちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。
東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。
1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。
2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。
2010年〜2017年、
新潮社にて『考える人』編集長を務める。
2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

[ 河野が登場するコンテンツ ]
読みもの
新しい「ほぼ日」のアートとサイエンスとライフ。
19歳の本棚。

動画
ほぼ日19周年記念企画特別講義「19歳になったら。」
ほぼ日の読書会

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NO.158

「精興社書体」が似合う作家

先日、立ち寄った和食屋さんで、「いまはちょっと‥‥」と言われました。「やっぱり、そうだよねぇ」

覚悟はしていたものの、少しは期待もあったのです。けれども、3度目の「緊急事態宣言」のさなか、お酒は提供してもらえませんでした。

いつになったら外でまた飲める世の中になるのだろう? そう思いながら、ふと頭に浮かんだ場面があります。居酒屋のカウンターでの会話から始まります。

<「まぐろ納豆。蓮根(れんこん)のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、
「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、 「大町ツキコさんですね」と口を開いた。驚いて頷(うなず)くと、
「ときどきこの店でお見かけしているんですよ、キミのことは」センセイはつづけた。>

言わずと知れた川上弘美さんの『センセイの鞄』(新潮文庫)の冒頭です。

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すっかり遠ざかってしまったのは、この距離感だよなぁ‥‥。そう思うと、急いで先を読みたくなります。

<センセイはゆっくりと杯を干し、手酌でふたたび杯を満たした。一合徳利をほんのちょっと傾け、とくとくと音をたててつぐ。杯すれすれに徳利を傾けるのでなく、卓上に置いた杯よりもずいぶん高い場所に徳利を持ち、傾ける。酒は細い流れをつくって杯に吸い込まれるように落ちてゆく。一滴もこぼれない。うまいものである。>

「とくとくと」という音が、心地よく耳に届いてきます。居酒屋のカウンターでなければ、この手酌はサマにならず、こんなかぐわしい香りも立ちのぼりません。

  あめつちに独り生きたる豊かなる心となりて挙ぐる盃

  かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆうぐれ

酒といえば、若山牧水。『センセイの鞄』をさらに読み進めると、センセイとツキコさんが公園で「豚キムチ弁当」を食べ始めます。ビビンバ、目玉焼き、キムチ、スペシャル‥‥お弁当にまつわる文字やことばが、目にもおいしそうに映ります。

ふたりがそぞろ歩いてゆく露店の店先に並んだ食料品――。豆、貝、えび、蟹、バナナ、魚、鶏‥‥。どれもがみずみずしく、活きがよさそうに見えてくるのも不思議です。

この作品を初めて読んだのは、本が出てすぐだったので、ちょうど20年前の6月です。センセイの年齢にその分ぐんと近づいたわけですが、センセイに感情移入するかといえば、そういうわけでもありません。

センセイ、ツキコさん。カタカナやひらがなが多く使われている、全体にやわらかな文字の按配を眺めているうちに、「待てよ!」と思い出しました。

数年前に読んだ正木香子さんの『文字と楽園』(本の雑誌社)という本です。副題に「精興社書体であじわう現代文学」とあって、帯にはこんな言葉が並びます。

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<三島由紀夫『金閣寺』から
村上春樹『ノルウェイの森』へ
この文字がなければ、
生まれなかった本がある。
この文字でなければ、
読まれなかった小説がある。
特別なことばとあいまう
唯一無二の書体。
戦後文学の金字塔は、
精興社書体の声をもっていた。>

正木さんが偏愛するのは、100年以上の歴史を持つ印刷会社「精興社」が作り出したオリジナル書体です。これまで多くの出版社の書籍・雑誌に用いられ、ひろく作家、編集者、読者から長い年月にわたって愛されてきました。

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そしてまさに、いま読んでいる新潮文庫版の『センセイの鞄』は、精興社書体で印刷されているのです!

正木さんは、2001年刊行の単行本(平凡社)、2004年刊行の文春文庫、2007年刊行の新潮文庫の3種類を読み継いできました。

sensei_tanko平凡社版『センセイの鞄』

私が最初に出会ったのは、「石井中明朝(ちゅうみんちょう)体オールドスタイル」という写植の文字の平凡社版。正木さんは、こう述べます。

<この書体は、九〇年代まで雑誌や広告、ポスターなどでよく使われていた。『センセイの鞄』が連載されていた平凡社の雑誌「太陽」然り、知的で文化的な、おとなの読者層の媒体で好まれていた印象がある。
だが、単行本、とくに小説の本文ではあまり見たことがなく、つまりそういう用途の書体とは考えられていなかった。この本はその定型的なイメージを破った初期の一冊である。のちに二〇〇〇年代の半ばごろ、文芸書や文学誌で盛んにつかわれた一時期があり、それはもしかすると『センセイの鞄』がベストセラーになったことが契機だっかのかもしれない。だが、はじめて読んだときには、文字が作為的に感じられてなんとなく落ち着かない気分になった。(略) ‥‥私には、ふたりの年齢差が強調されて、しかもどちらかというと「知的で文化的」なセンセイの目線に寄りすぎているような気がして、素直に共感できなかった。>

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これほどの違和感を私は覚えなかったのですが、今回明らかに印象が変わってきているのは、20歳年を食ったせいばかり、とはどうしても思えないところがあります。

正木さんは、文春文庫版の「凸版明朝」では、単行本のときとは印象がすっかり変わり、「文字がハッキリとツキコさんの側に立っていた」と言います。「恋愛にちょっと不器用で、サバサバした性格の女性を自然と思い描き、すっかりツキコさんになったつもりで、すんなり感情移入しながら読んだ」と。

そして、3度目の新潮文庫版はといえば、

<おどろいた。精興社書体が読者の焦点を合わせようとするのは、センセイでも、ツキコさんでもなく、ふたりのあいだに置かれている盃である。>

と述べ、先ほどのセンセイの手酌の場面を引用して、こう評します。

<なんて心地いいのだろう。紙のうえに文字が生まれ落ちるさまを見ているような、精興社書体そのものを描写しているような文章だと私は思う。
大胆だが性急すぎず、力がつよすぎもしない。
「とくとく」という音が聞こえてきそうなほど、文字の気配がくっきりと泡立ち、甘やかな匂いが色気のようにたちのぼってくる。
何度も読んだ文章なのに、こんなにいい気分になるのは、はじめてだ。読むと酔うは似ている。>

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こんなに賞味してもらえれば、書体冥利につきると思います。書体によって、そんなにも本との出会いの印象や、本の読み方が変わってくるのかと、不思議に思う人も多いでしょう。が、実際に味わいをくらべてみると、ナルホドとその違いがわかります。

これまで単行本で2回読んだ『センセイの鞄』の印象が、今回とくにやわらかく、ふくよかに感じられるのは、書体による影響を考えないわけにはいきません。

文字とことばと文学と。読書体験の不思議な奥深さを味わうことができたのは、「緊急事態宣言」で居酒屋の時空が遠ざけられ、懐かしさが募ったからにほかなりません。コロナ禍の思いもかけない副産物。

しかも、精興社書体です。これまでいろいろな形で恩恵にあずかってきましたが、その精興社が入った同じビル内に、「ほぼ日の學校」がよもや引っ越してこようとは、夢にも思わなかった出来事です。なんとも不思議なご縁です。

<「しかし袖すりあうも多生の縁と言うではありませんか」
センセイとわたしは、タショウのエンですか。わたしが聞くと、反対に、
「ツキコさん、多生の縁て、どういう意味か、ご存じですか」と聞き返された。  ちょっとは縁がある、っていうことですか。しばらく考えてから答えると、センセイは眉をひそめながら首を横に振った。
「多少、ではないんですよ。多生、多く生きる、ですよ」>

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正木さんは、他にもさまざまな作家の実例――重松清、三島由紀夫、村上春樹、安野モヨコ、江國香織など――を挙げながら、文学作品が精興社書体とのつながりで、どういった特別な響きを帯びていくか。実感にもとづきながら、いかにも楽しげに論じています。

以前、正木さんには宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を、新潮文庫岩波文庫角川文庫集英社文庫ちくま文庫の異なる書体で読みくらべてもらったことがあります。目にもおいしい書体の味くらべ。

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「○○文庫」が何となくお気に入りとか、「△△文庫」を読むことが多いとか、文庫にもそれぞれの好みが生まれます。「馴染みの喫茶店みたいな暗黙の了解」がある、と正木さんは語ります。「その安心感が好きなのだ」とも。

<書体の名前を知る必要はない。
「○○文庫の書体」で通じることが、文字と読者にとっていちばん幸福な関係ではないだろうか。>(「考える人」2014年夏号、特集「文庫――小さな本の大きな世界」)

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そんなことをぼんやり考えながら、『センセイの鞄』を抱えて歩いていた先週末、会社で声をかけられました。

アリス・マンローの『小説のように』(新潮社)を読みたいと思っているのですが、ひょっとしてお持ちですか?

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というのも、いまは品切れ状態で、ネット書店で調べたら、なんと新品だと7980円、コレクター商品だと14429円の超高値がついている! これはさすがに‥‥と思っていたら、ちょうどそこに私が通りがかった、という流れだそうです。

刊行から11年、本体価格2400円の小説が、いまやそんなレアものとは!

幸い、家に帰ると、すぐに見つけることができました。そして、この本もまた精興社書体にこだわったレーベル<新潮クレスト・ブックス>の1冊なのです。創刊は1998年5月ですが、装丁、本文組のフォーマット、本文用紙の選定など、ブックデザインには熟慮を重ねたと聞いています。

正木さんが紹介します。

<(新潮クレスト・ブックスの:引用者註)創刊から二〇一〇年まで編集長をつとめ、現在は作家として活躍する松家仁之は、何よりも先に「精興社ありき」で構想をはじめたという。
一冊、一冊の本に独立性をもたせたい。小説だけとは限らない、ノンフィクションも、エッセイも、ジャンルを問わず入れたい。一見、バラバラの作品群をむすびつける役割を委ねたのが、精興社書体だった。たとえ装丁が個性的でも、本文書体が統一されていることによって、読者はこのシリーズならではの世界観を感じとる。
「伝えたいのは中身なのに、“本文組”を重要でないもの、面倒なものだと考えている人々が、作り手のなかにたくさんいることが悲しい」
本をすきなようにつくるという自由よりも「たがを決める」ことのほうが重要なときもある、と松家は言う。>

同じビル(神田ポートビル)のひとつ屋根の下に入ったよしみです。いずれ「精興社書体」で読む文学、という講座を「ほぼ日の學校」でやってみようかと思います。

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2021年5月20日
ほぼ日の學校長

(また次回!)

2021-05-20-THU

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