
現在は陶芸家として活躍する鈴木幹雄さんが、
写真家として活動していた50年前、
国立療養所沖縄愛楽園で
ハンセン病の回復者・患者の写真を撮りました。
50年後の今年2025年、
それらの写真が一冊の写真集となりました。
ハンセン病への差別や偏見がまだまだ強く、
療養所の人たちやその暮らしを
真正面から撮ることのできなかった時代に、
鈴木さんの写真には、
人とその暮らしが、ありのままに写っています。
どうして、そんなことができたのか。
沖縄愛楽園交流会館の学芸員・辻央さん、
赤々舎・姫野希美さんと一緒に、
鈴木さんの話を聞きに行ってきました。
担当は「ほぼ日」奥野です。
※文中「癩(らい)」という言葉が出てくる箇所がありますが、「癩(らい)」はハンセン病を指す古い言葉で、病気だけでなく差別や偏見を含む言葉のため、現在は使用されていません。1950年代にアメリカのハンセン病療養所の在園者が、有効な治療薬の発見によって治る時代にふさわしい病名に変更したいと病原菌の発見者、アルマウェル・ハンセンの名をとって病名の変更を提唱しました。現在、感染症の名前としても「ハンセン病」が正式名称です。
- ──
- 鈴木さんはいま、
陶芸家として活動してらっしゃいます。
個展って、
どういった頻度でやっているんですか。
- 鈴木
- 毎年毎年、もう30年くらいになります。
1年間に4、5回です。 - 今年(2024年)は4月にいわきで、
そのあと山口、そしてここ
(東京・赤坂の「ぎゃらりー小川」)。
8月には地元の会津若松、
11月が新潟。
そんなことを繰り返しやっていますね。
- ──
- 日本各地で陶芸の個展を開く活動を、
30年も続けてこられた‥‥と。 - 今回、赤々舎の姫野希美さんから、
鈴木さんが50年前に撮った
写真を見せていただいたんですね。
言葉にするのは難しいんですが、
もっと見てみたいと思ったんです。
- 鈴木
- ああ、そうですか。
- ──
- そこで今日は、若き日の鈴木さんが
ハンセン病施設の人たちを撮った経緯や、
その後、
陶芸家に転身されたことなど、
いろいろお話をうかがえたらと思います。 - まず、カメラの道に進もうと思ったのは、
興味があったから‥‥ですよね?
- 鈴木
- いや、そうじゃないんです。
大学へ行って、
1年半も過ぎたら飽きちゃったんですよ。
このまま4年間いてもしょうがねえなと。
で、大学を中退したんですけど、
とくにやりたいこともないし、
どこかへ就職するかとも思ったんですが。 - お能が好きだったんです。
- ──
- お能?
- 鈴木
- そう、お能。
- 東京へ来る機会があれば、
能楽堂へ能を観に行ったりしてました。
20歳くらいのときには、
山形の櫛引能、黒川能という、
神社で農家の人がやる能を観にいって、
いたく感動したんです。
そのとき、おぼろげにですけど、
漠然と「表現したい」という気持ちが、
自分にあることに気づきました。
- ──
- それが‥‥「写真」だった?
- 鈴木
- はっきり明確にというわけじゃなくて、
まあ、写真かなあ‥‥というくらい。 - もちろん、やったこともなかったんで、
渋谷の松濤にあった現像所に勤めて、
一から十まで、
現像からプリントまでを勉強しました。
そして、その翌年の4月に
上野の写真専門学校に入ったんですよ。
- ──
- カメラは持ってたんですか?
- 鈴木
- 親にねだって、買ってもらいました。
- ──
- どんなカメラを‥‥。
- 鈴木
- ニコンF2のブラック、それとミノルタ。
- ──
- 当時、どういうものを撮ってたんですか。
- 鈴木
- そのころ三軒茶屋に住んでいて、
上野の写真専門学校へ通う途中の渋谷で、
ホームレスの方の写真を撮ったり。
学校に入って1年半くらいが過ぎたころ、
学生課の前に
「カメラマン募集」と貼ってあった。 - 当時はスタジオでアルバイトをしていて、
照明を組んだり、
露出を測ったりとかしていたんですけど、
これを続けていてもしょうがないなと、
その募集の試験を受けに行きました。
渋谷のアイエヌ通信社というところです。
- ──
- 試験っていうと‥‥。
- 鈴木
- カメラ1台と
36枚撮りのフィルムを1本渡されて、
1時間で渋谷の街を撮ってこいと。
- ──
- おおー。そういう試験だったんですか。
撮ったのは‥‥。
- 鈴木
- 渋谷の雑踏だとか、だったかな。
- そういうものを撮ってきて、現像して、
ベタにして渡すんです。
- ──
- ベタというと、つまりサムネイル的な。
- 鈴木
- どういう順番に撮ったかがわかるもの、
ですよね。 - もうひとつの試験は、
部長の撮った写真を見て感想文を書く。
何て書いたか忘れちゃったけど、
どういうわけだか、受かっちゃったの。
- ──
- それで、晴れてご入社されて。
- 鈴木
- でね、その会社が
新しくグラフ誌をつくるっていうので、
グラビアを任されたんです。 - そのとき、最初に取材対象にしたのが
「大空詩人」という人。
本名は永井叔(よし)といって、
マンドリンを弾きながら、
世界平和を歌い歩いてる人なんだけど。
知ってます?
- ──
- いえ、不勉強で存じ上げません。
- 鈴木
- 四国の松山のお医者さんの息子さんで、
若いころ、女優の長谷川泰子さんと
お付き合いをされていて、
その女性を詩人の中原中也に取られて、
中原中也は
その女性を小林秀雄に取られて‥‥。
- ──
- なんとまあ。
- 鈴木
- 中也さん、すごく落胆したらしいです。
- とにかく、
そんなエピソードの持ち主なんだけど、
あるとき、
白くてぼーっとしていて
マンドリンを手に持っている人が
三軒茶屋の街を歩いていたんです。
取材したいなと思って
話しかけたら、撮ってもいいと言った。
- ──
- それが大空詩人こと永井叔さんだった。
- 鈴木
- そんなこんなで
大空詩人を撮るようになったんですが、
あるとき大空詩人に、
銀座の三越の屋上でやるコンサートに
一緒に行かないかと誘われて。 - それは田村大三さんっていう
日本一の指笛の奏者のコンサートで、
演奏を終えた田村さんが
大空詩人に近づいて
おしゃべりしているところを、
田村さんの肩口から
大空詩人に向かってカメラを構えたら、
突然ね、
パッと田村さん振り返ったんです。
- ──
- ええ。
- 鈴木
- で、「君!」って大声で言うわけ。
- ──
- わあ。
- 鈴木
- そして
「沖縄の愛楽園というハンセン病の療養所で
差別と偏見に苦しんでいる人たちがいる。
それをなくすような写真を撮ってきたまえ!」
って言うんですよ。
- ──
- その、田村大三さんが?
- 鈴木
- 「ぼくは園長と友だちだから、
手紙を書いておくから!」って言うんです。
もう、びっくりして。 - ただ、それは、その場で終わったんですけど。

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ハンセン病の基礎知識
ハンセン病とは、人類の歴史とともにあった病気です。日本では中世の文献に記述が見られ、ヨーロッパでは十字軍の時代に流行したという記録があります。ただ、病気の原因については、ずっとわかっていませんでした。
19世紀後半、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンが病の原因となる菌を発見します。当時は、顕微鏡の性能向上などを背景に、コッホが結核菌やコレラ菌を見つけるなど細菌学が一気に発展した時代。北里柴三郎とフランスの微生物学者アレクサンドル・イェルサンがペスト菌を発見した時期でもあり、細菌学の黄金時代と呼ばれています。
ハンセン病の菌は「30度~32度」で増えるという特徴を持っています。そして、増殖のスピードが非常に遅い。コレラ菌や赤痢菌は20分程度に1回、結核菌は15時間ほどで1回分裂しますが、ハンセン病の菌は1回分裂するのに「12日間」もかかります。毒素を出さないハンセン病の菌は、人体に与える影響が他の微生物に比べて「おとなしい」と言えるでしょう。
1940年代には、プロミンという有効な治療薬が登場。日本では終戦直後には導入され、沖縄でも1949年から使われはじめます。その効果は非常に高く、沖縄の調査では使用開始から5年後には入所者の3分の2が「菌陰性」、つまり感染力を持たない状態となりました。にもかかわらず、ハンセン病の隔離政策は、その後も長く続いていくことになります。強制隔離の法的根拠となった「らい予防法」が廃止されたのは「1996年」のことでした。

(つづきます)
2025-06-24-TUE
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TOBICHI東京では
約25点の写真を展示いたします。



