2011年3月11日、東日本大震災がおきました。
10年が経った今日、私たちは、
あの日を思い出したり、
区切りを感じたりするのかもしれません。

日本に住む私たちはそれぞれ、
ここに至る道のりを一歩ずつ進んできました。
今日がほんとうは特別な日ではない、
ということもわかっています。
しかし、どんなに関わりが少なかったとしても、
あの震災に暮らしを左右されなかった人は
いないんじゃないだろうかとも思います。

ほぼ日が親しくしている方々に、
この10年をテーマに、ご寄稿いただきました。

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藤田浩志さん

「じゃあ、今年のブランド野菜は何にすっぺ?」

「すげーな、この人たちは」
あの時、心からそう思いました。

いや、だって大地震と原発事故から
まだ一か月ちょっとしか経ってなかったんですよ。
にもかかわらず、
新規事業のことについて議題にあがるなんて。

震災後初めて、
主だった仲間の農家が集まっての会議で、
もちろん
「大変なことになった」
「これからどうなるのか」
といった話も出ました。

しかし
「結局、実際に野菜を育ててみないことには
何もわからない、その結果を見て考えよう」
ということになっての、冒頭の言葉。

なぜ、そんな考え方ができるのか?

振り返ってみると、

・目的が明確であったこと
・今自分たちはどういう状況にあって、
何を持ち、何を持っていないかを把握し、
それに合わせた行動をしてきたこと

があったと思います。

私が就農する数年前から、
福島県郡山市で農家の有志が集まって始まった
「郡山ブランド野菜」事業。

農家でありながら種苗店も営み種を知り尽くす人、
農協の青年団体の県のトップを務めるなど
組織運営に長け
他業種団体の若手トップと抜群の人脈を持つ人、
他業種の営業として
抜群の成績を出しながらもあえて就農の道を選んだ人、
などなど、
農業界では異端児ともいえる人材が
多数揃っていました。

そういったこともあって、
非常に考え方が柔軟で斬新でした。

目的は
「地元郡山に自分たちの手で特産品を創り、
皆さんに美味しいものを届けること」

これ自体は、どの地域でも見られる目標かと思います。
しかし、その目的に向かうための手段の
発想力が違いました。

郡山という場所は宿場町として栄えており
歴史が浅いわけではないけれども、
明治維新後の安積疎水の開削によって
急激に発展した新興開拓地という側面が強い地域です。

ですので、伝統という意味では
どう頑張っても
京野菜や加賀野菜、
同じ福島県の会津伝統野菜には太刀打ちできない。

であれば、農業界でよくある
地元の伝統野菜をブランド化するのではなくて、
郡山の気候に最も合い
「美味しさ」を引き出せる品種を選び、
自分たちの手でブランドを新しく「創る」ほうが、
開拓者精神の気風を持つ郡山市に合う手段ではないか、
そういう発想ができたのです。

結果、10品目以上の郡山ブランド野菜を
世の中に送り出し、
2008年にはそのうちのひとつ
「御前(ごぜん)人参」が
郡山市の公式なブランドに認定されるなど、
大きな成果を上げることができました。

そういった思考を持ち経験を積んできたことから、
原発事故という未曽有の事態ではあるが、
あくまでも
置かれている状況に
大きな変化があったということであり、
それがどういう事実なのか
まず野菜を育てるという行動をしたうえで
正確に把握し、
そこから
自分たちの「目的」を達成するために
どうすればいいか考えよう、
という冷静な発想につながったのです。

実は原発事故からしばらくして、
植物工場を農家で集まって作らないかという
オファーがありました。

確かに植物工場であれば
直面していた生産物の安全性への風評被害は回避でき、
経営的安定性は上かもしれませんでした。

しかしすでに我々は行動し、大学や研究者の協力のもと
様々な実証試験や検査などを行い
生産物の安全性には問題ないことを知っていましたし、
なにより我々の目的
「地元郡山に自分たちの手で特産品を創り、
皆さんに美味しいものを届けること」には
合致しない「手段」ではないかということで
お断りしました。

伝統野菜や植物工場がダメだといっているわけでは
ありません。
我々の目的と置かれている状況には合わないと
冷静に判断したということです。

ですから、もし置かれている状況と
持っている資源に対し
伝統野菜や植物工場が
最もふさわしい手段であったのなら、
躊躇なくそれを選択したでしょう。

それくらい諸先輩方が
「しなやか」あるいは「したたか」だったから、
めちゃくちゃな状況でしたけど、
割と楽しく乗り越えることができたのではないか、
そう思います。

まあ、私なんかもなんだかんだいって
「もし郡山で農業ができない状況だったら
『made in福島』じゃなくて
海外に行って
『made by福島ファーマーズ』やりましょうよ、
絶対受けますよ!」
なんて軽口を叩いていたくらいですから、
諸先輩方の発想にだいぶ侵されていましたけどね。

その後も、
「放射性物質検査をして
ネガティブな数値化をするだけじゃなくて
ついでに美味しさを数値化しよう」とか
「数値化したものをベースに
調理師専門学校や料理人さんと連携して
ブランド野菜の食べ方を提供しよう」とか
「旅行会社さんと繋がったから
収穫体験してもらうだけじゃなくて
畑にキッチンカー持ち込んでレストランにしちゃおう」
とか。

目的と状況把握がはっきりしているので、
あとはまぁ、自由ですよね。

でもやってる自分らは楽しいし、楽しそうに見えると
周りも「まぜて!」って来てくれる。
ほぼ日さんとの「小さな田んぼキット」も
そんな感じで生まれたのかなぁと。

今も楽しくやっています。

コロナ禍がいまだおさまらない状況ですが、
じゃあ僕たち郡山ブランド野菜を作っている農家に
何ができるかと考え、
美味しさにプラスして、
豊富な栄養を取って
健康的な生活に役立ててもらおうということに。

そこでチョイスしたのが、
ケールの栄養価とブロッコリーの美味しさを
花蕾だけではなく葉や茎まで頂けてしまう、
全く新しい野菜でした。

「いやいや、でも僕らニンジンやキャベツみたいな
普段使いのしやすい野菜に絞って
ブランド化してきたじゃないですか?」
「いや時代は「令和」に変わったし新しい展開で」
「あ、良いっすね。
新時代のブランド野菜、楽しいですそれ」
みたいに。

これからも僕たちは
楽しく郡山で農業をやっていくと思います。
ぜひ皆さんも郡山に楽しみに来てくださいね。

 

藤田浩志

<藤田浩志さんのプロフィール>
藤田浩志(ふじた こうし)
1979年2月12日生まれ。
福島県郡山市在住の農家の8代目。
明治大学農学部卒業。福島大学経済学研究科修了。

大学卒業後、一般企業に就業し、H19年に就農。
H21年に日本野菜ソムリエ協会認定野菜ソムリエに。
生活者と農業者の懸け橋となるべく、
公民館や各種団体等における講演活動や、

地元生産物の直売会の企画・運営・販売事業などを行う。
H20年には郡山市美術館とコラボし、
「農はアートだ!!」と銘打ったイベントを企画した。

生産物においても、メインの水稲のほか、
郡山市ブランド認証産品の
「御前人参(ごぜんにんじん)」を生産し、
第5回野菜ソムリエサミットにて、全国24組中「蒸し部門」で

2位になるなど、順調に生産活動を行ってきた。

しかし、東日本大震災と
それによる東京電力福島第一原発事故により状況が一変。

夏野菜の作付をあきらめるなど苦境に立たされるが、
「アル・ケッチァーノ」の奥田シェフや
「分とく山」の野崎総料理長の復興チャリティーイベントにて、

また、日本災害復興学会のシンポジウムなどでも、
福島県の農業の現状や見通しについてお話しさせてもらうなど、
福島の農業の復興に向けて精力的に活動中。
H26年より大学院に入学し修了。

福島県の事業「ふくしま 新発売。」の情報員として、
県内外の有識者・生産者などと対談、
その想いをHP上で紹介した。

福島民報社主催の「ふくしまからのメッセージ」
一般部門で最優秀賞を
頂き、「うつくしま復興大使」を拝命。
公益社団法人 日本青年会議所の
「人間力大賞2012 復興創造特別賞」受賞、
28年度より郡山市教育委員会委員、
30年度より郡山農業青年会議所会長。

郡山ブランド野菜ホームページ:https://brandyasai.jp/
Facebook:koushi.fujita.7
Twitter:kossyvege

(つづきます)

2021-03-11-THU

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